第17話 黒鐘の少女
黒い鐘の音は、家の中にまだ残っていた。
ごん。
耳ではなく、床板の下で鳴っているような音だった。
壁にかかった帽子が揺れる。
食卓の三つのカップが震える。
玄関の敷物に残っていた「おかえり」の文字が、さらに薄くなる。
黒い鐘を持った少女は、玄関の前に立っていた。
黒い服。
錆びた銀の飾り。
赤い紐。
肩に担いだ、黒い鐘のついた杖。
朝の光が差しているはずの家の中で、その少女の周りだけ夜だった。
夜そのものを、服にしているように見えた。
ましろは星律の杖を握りしめた。
「壊さないで」
もう一度、そう言った。
黒い少女は、少しだけ眉を動かした。
「壊さなきゃ、食われる」
「でも、壊したら戻らない」
「戻らない名前があることを、あんたはまだ知らない」
その言葉は、冷たかった。
でも、ただ冷たいだけではなかった。
その奥に、焼けたような怒りがある。
熱すぎて、もう炎ではなく黒い炭になってしまった怒り。
ねむが夢見のランタンを握り直す。
青黒い光が、少女の黒い鐘に触れた。
その瞬間、ランタンの火がびくりと跳ねる。
「何、この鐘」
ねむが低く言う。
「夢じゃないのに、悪夢みたいな音がする」
少女はねむを一瞥した。
「夢見か」
「だったら何」
「寝てろ。起きて見るには向いてない」
ねむの目が細くなる。
「初対面でかなり嫌い」
「好かれに来てない」
少女は黒い鐘の杖をテーブルの下へ向けた。
そこでは、小さな家の形をした星骸が震えていた。
白い壁。
赤い屋根。
丸い窓。
玄関の口。
身体中に貼り付いた空白の表札が、かたかたと音を立てている。
星骸は、家なのに、迷子の子どもみたいだった。
――いらないって、言った。
玄関の口から声が漏れる。
――思い出すと痛いから。
黒い少女は表情を変えない。
「痛いなら、終わらせる」
黒い鐘が震える。
ごん。
ましろは反射的に杖を前に出した。
「ルミナス・ベル!」
りん、と鐘の音が鳴る。
白と金の光の輪が広がり、黒い鐘の音にぶつかった。
ごん。
りん。
ふたつの鐘の音が、狭い家の中で重なる。
空気が波打った。
壁の身長線が一瞬だけ濃くなり、すぐに白く霞む。
食卓の小さなカップから、温かさがこぼれる。
「おかえり」の文字が、消えかけて踏ん張る。
ましろの腕がしびれた。
黒い鐘の音は重い。
ただ大きいのではない。
何かを砕くことに慣れた音だった。
少女は、ましろを見た。
「邪魔」
「壊すだけなら、止める」
「じゃあ、あんたが戻せるの?」
ましろは言葉に詰まった。
星骸の身体から落ちた質札。
燐灯堂。
お預かり品。
帰る言葉。
ただいま。
期限。
満月まで。
受取人名。
白紙。
その文字が、まだ頭の中に残っている。
ただいまを預ける。
帰る言葉を売る。
そんなことができるなんて、知らなかった。
でも、目の前でそれは起きている。
玄関には「おかえり」が残っているのに、返るための「ただいま」がない。
家は待っている。
でも、帰る声がない。
だから、家そのものが飢えている。
「戻せるかは、まだ分からない」
ましろは正直に言った。
少女の目がさらに冷たくなる。
「分からないなら退いて」
「でも、壊したら分からないまま終わる」
「分からないまま残しておくと、もっと食う」
少女は杖を床に打ちつけた。
黒い鐘の音が、家の壁を内側から叩く。
星骸の表札が何枚か砕けた。
星骸が悲鳴を上げる。
それは家鳴りの音にも、子どもの泣き声にも聞こえた。
ましろは息を呑む。
「やめて!」
「やめない」
少女は即答した。
「これはもう星骸になってる。家の形をした空腹だ。放っておけば、この家に残った“おかえり”も食われる。身長の線も、カップの温度も、玄関の鍵も、全部」
「でも」
「でもじゃない」
その言い方が、少しだけレムに似ていた。
ましろは一瞬、言葉を失った。
宝石の中でレムが低く言う。
「ましろ、慎重に。あの鐘は危険よ」
「知ってるの?」
「あれは黒鐘系の契約具ね。星骸を浄化するのではなく、壊れた名前の器ごと砕く」
「契約具……」
黒い少女がレムを見る。
「杖の中の飾りはよく喋る」
レムの眉が跳ねる。
「飾りではないわ。レム・ステラよ」
少女の目がわずかに鋭くなった。
「名前を食う家の中で、よく名乗れるな」
レムが一瞬だけ黙る。
ねむがぼそりと言った。
「今のは正しい」
「非常に不愉快だけれど、否定はしないわ」
レムが言う。
黒い少女は、ましろを見た。
「あんたは」
「え?」
「名前」
ましろは一瞬迷った。
でも、門を出る時に澄から言われたことを思い出す。
名前は、戻るための糸になる。
「久遠ましろ」
黒い少女は、ましろの名前を聞いて、何かを測るように目を細めた。
「白い鐘の契約者か」
「白い鐘?」
「その杖の音。白すぎる」
「白は、空白じゃない」
ましろは思わず言った。
少女の表情が、ほんの少しだけ変わる。
怒りでも、驚きでもない。
聞いたことのある痛みに触れたような顔だった。
けれど、すぐに元の冷たい目に戻る。
「白いものは、よく汚れる」
そう言って、黒い鐘を再び掲げた。
星骸が震える。
――いらないって、言った。
――でも。
今度は、声がそこで途切れなかった。
――でも、おかえりは消さないで。
ましろは息を止めた。
黒い少女の手も、一瞬だけ止まった。
星骸の玄関の口が、小さく震える。
――ただいまは、痛い。
――言う人が、いない。
――でも、おかえりは、待ってた。
――待ってたことまで、消さないで。
ましろの胸がぎゅっと痛んだ。
帰りたいわけではない。
戻したいわけでもない。
でも、待っていたことまでなかったことにされたくない。
おかえりと言った誰かがいたこと。
ただいまと返せなかった誰かがいたこと。
その温度まで食われたくない。
「ねむ」
ましろが言う。
「見える?」
ねむはランタンを掲げた。
青黒い光が、家の星骸を包む。
「見える」
「何が?」
「“ただいま”が、質札に引っかかってる。でも、この家には戻れない」
「戻れない?」
「戻す場所がない。受け取る人がいないというより、受け取りたい人がいない」
ねむの声は少し苦かった。
「無理に戻したら、この家がもっと飢える」
黒い少女が言う。
「だから砕く」
「待って」
ましろは星骸を見る。
「戻せないなら」
言葉を探す。
門の前で鳴らした、名前を返す鐘。
あれは、帰りたいと願うものを、帰る場所へ返す鐘だった。
でも今、目の前にあるのは違う。
帰りたくない言葉。
戻されたくない言葉。
それでも、なかったことにはされたくない言葉。
なら、返すのではなく。
「預かる」
ましろは言った。
ねむがましろを見る。
「何を?」
「ただいまを」
黒い少女が眉をひそめる。
「何を言ってる」
「戻せないなら、今は戻さない。でも、壊さない。なかったことにもしない」
ましろは杖を両手で握った。
「この家に“ただいま”があったことを、預かる」
少女は低く言った。
「中途半端」
「中途半端じゃない」
ましろは首を振った。
「戻せないものを、なかったことにしないための場所」
レムが小さく息を呑む。
「ましろ」
「できる?」
「普通はできない」
「普通は?」
「最近、その確認が雑になってきたわね」
レムは宝石の中で目を細めた。
けれど、その声には止める響きがなかった。
「星の護符を使いなさい。澄にもらったものがあるでしょう」
ましろは服の中から、小さな星の護符を取り出した。
門を出る時に渡された護符。
久遠ましろ。
棘咲ねむ。
帳ソラ。
三つの名が結ばれている。
「これを?」
「帰る糸を持つ護符よ。返す場所がない言葉を、一時的に留める器にはなる」
「一時的?」
「ええ。永遠には無理」
黒い少女が冷たく言う。
「一時しのぎ」
レムが少女を見る。
「一時しのぎが命を繋ぐこともあるわ」
その言葉に、少女は少しだけ黙った。
ましろは星骸の前に膝をついた。
怖かった。
星骸は今も白い札を震わせている。
触れれば、ましろの中の「ただいま」まで持っていかれるかもしれない。
それでも、ましろは手を伸ばした。
「聞いて」
星骸の窓の目が、ましろを見る。
「あなたを無理に戻さない」
――いらない。
「うん。いらないって言ったんだよね」
――痛い。
「うん」
――でも。
「でも、おかえりは消したくない」
星骸は、小さく鳴いた。
それは家鳴りではなく、すすり泣きに近かった。
ましろは星の護符を食卓の上に置いた。
そして、質札の文字を見ながら、ゆっくり言った。
「ただいまは、ここにあった」
護符が淡く光る。
「言えなかった帰る言葉は、ここにあった」
星骸の身体から、白い息のようなものが漏れた。
玄関の口から。
丸い窓から。
空白の表札の隙間から。
それは言葉になる前の声だった。
ただいま。
けれど、誰にも言われないまま、痛みになっていた声。
ましろは杖を掲げる。
「ルミナス・ベル」
りん、と鐘が鳴る。
今度は、返すためではない。
抱えるための鐘。
光は星骸を包まず、食卓の上の護符へ降りた。
白い息が護符に吸い込まれていく。
護符の裏側に、小さな文字が浮かんだ。
ただいまは、ここにあった。
星骸の身体が、大きく震えた。
空白の表札が、ぱらぱらと剥がれていく。
けれど、核はまだ残っている。
飢えた家の形。
「今」
レムが言う。
「器から言葉は抜けた。でも星骸の殻は残っている。放置すればまた何かを食べる」
黒い少女が黒鐘を構えた。
「だから砕く」
ましろは彼女を見る。
今度は止めなかった。
「言葉は壊さないで」
「壊すのは殻だけ」
少女は言った。
その声は、ほんの少しだけ変わっていた。
ましろは頷く。
黒い鐘が鳴った。
ごん。
怒りの音。
けれど今度は、ただ破壊する音には聞こえなかった。
葬る音。
これ以上、何かを食べなくていいと告げる音。
星骸の家の形が、黒い音に包まれてひび割れていく。
白い壁が砕ける。
赤い屋根がほどける。
丸い窓が閉じる。
最後に、玄関の口が小さく開いた。
――おかえり。
その声だけが残った。
ましろは玄関の敷物を見る。
半分消えかけていた「おかえり」の文字が、そこで止まっていた。
完全には戻らない。
けれど、もう消えてはいなかった。
星骸は消えた。
床には、小さな家の形をした紙片だけが残った。
真っ白ではない。
端に、薄く青い線がある。
ましろはそれを拾おうとして、黒い少女に止められた。
「触るな」
「でも」
「それは残骸。優しく持ったら、また家のふりをする」
少女は自分の懐から黒い布を取り出し、紙片を包んだ。
手つきは荒い。
けれど、雑ではなかった。
慣れている。
ましろはそれに気づいた。
この子は、何度もこうしてきたのだ。
壊れた名前の殻を。
戻せないものを。
誰かの痛みから生まれた星骸を。
「あなたは」
ましろは聞いた。
「いつも、こうしてるの?」
少女は答えない。
黒い布を結び、腰の小さな鞄にしまう。
その鞄には、同じような布包みがいくつも入っているようだった。
ねむがそれを見て、低く言う。
「墓守みたい」
少女は少しだけ目を伏せた。
「墓なら、名前が刻める」
その言葉で、部屋の空気が静かになる。
少女は玄関へ向かう。
「待って」
ましろが呼び止める。
「あなたの名前は?」
少女は足を止めた。
首元の割れた名札が揺れる。
そこには何も書かれていない。
ましろは、その空白を見た。
王冠の空白とは違う。
けれど、何かを隠している白だった。
少女は振り向かないまま言った。
「この街で名前を聞くのは、値段を聞くのと同じだ」
「値段?」
「知らないなら、まだ幸せだね」
「でも、呼べない」
ましろは言った。
「名前がないと、話す時に困る」
少女は小さく笑った。
笑ったのに、少しも楽しそうではなかった。
「白い鐘は、そういうことを真顔で言うんだ」
「白い鐘じゃなくて、久遠ましろ」
「名乗りすぎ」
「あなたも」
「信用してない」
「じゃあ、信用しなくても呼べる名前でいい」
少女はようやく振り向いた。
黒い目が、ましろを見た。
怒りの奥に、ほんの少しだけ疲れがある。
「黒鐘ヨル」
少女は言った。
「それが、今の私を鳴らす名前」
黒鐘ヨル。
その名が落ちた瞬間、彼女の首元の割れた名札に、一瞬だけ黒い文字が浮かんだ。
ヨル。
けれど、すぐに消えた。
ましろはその消え方を見逃さなかった。
「今の私って」
「踏み込みすぎ」
ヨルは黒い鐘の杖を肩に担ぎ直した。
「名前の質屋を追うなら、夜に来な。昼間の燐灯堂は、ただの空き店舗だ」
「燐灯堂を知ってるの?」
「知らないやつは、この街で長生きしない」
「それ、もう聞いた」
「重要なことは二回言う」
ねむがぼそりと言う。
「そこはちょっと気が合いそうで嫌」
ヨルはねむを見る。
「私は合いたくない」
「私も」
ソラが質札を見ていた。
食卓の上に残っていた古い紙。
そこに、新しい文字が浮かんでいる。
燐灯堂は、返したくない名前で開く。
ましろはその文字を読む。
返したくない名前。
街には、そんなものがある。
返したい名前だけではない。
忘れたい名前。
捨てたい呼び名。
戻されたら壊れてしまう言葉。
門の前で鳴らした「名前を返す鐘」は、間違っていたわけではない。
でも、万能ではなかった。
そのことを、名前のない家が教えている。
ヨルは玄関を出ようとして、最後に一度だけ振り返った。
「白い魔法で全部救えると思ってるなら、次で折れる」
「思ってない」
ましろは答えた。
ヨルの目が少しだけ動いた。
「でも、壊すしかないとも思ってない」
しばらく沈黙が落ちた。
外では朝が明るくなり始めている。
けれど、ヨルの背後だけはまだ夜のままだった。
「じゃあ、見せて」
ヨルは言った。
「返せない名前を、あんたがどうするのか」
黒い鐘が、小さく鳴った。
ごん。
ヨルが出ていくと、玄関の夜も一緒に薄れていった。
家の中には、朝の光が戻る。
食卓には三つのカップ。
壁には身長の線。
玄関には、半分残った「おかえり」。
そして、星の護符には、小さな文字。
ただいまは、ここにあった。
ましろはそれを見つめた。
戻せなかった。
救えたのかも分からない。
けれど、なかったことにはしなかった。
それが今のましろにできた、精一杯だった。
レムが静かに言う。
「六十七点」
「低い?」
「初めての問題としては悪くない」
「満点じゃないんだ」
「満点だったら怖いわ」
ねむが質札を拾う。
「燐灯堂」
その名前を口にした途端、家の奥の影が少しだけ揺れた。
ソラが窓の外を見る。
「夜になったら、道が変わる気がする」
「道が?」
「うん。今はまだ、店がこっちを見てない」
ましろは、星の護符をそっとしまった。
帰る言葉。
ただいま。
戻せないなら、預かる。
壊すしかないと言うヨル。
返すだけでは足りないと知ったましろ。
その二つの鐘が、星見坂の街で出会った。
そして、まだ誰も知らない場所で。
名前を売る店が、夜になるのを待っている。
家を出る時、ましろはもう一度、玄関の文字を見た。
おかえり。
半分消えたまま。
でも、消えきってはいない。
ましろは小さく言った。
「また来るね」
その言葉に返事はなかった。
けれど、食卓の小さなカップから、ほんの少しだけ湯気が立った。
まるで、誰かがまだ、言えなかった帰る言葉を探しているみたいに。




