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第18話 名前を売る店


夜になると、星見坂の街は坂の向きを変えた。


昼間は市場へ続いていた道が、知らない路地へ曲がっている。


赤い屋根の家へ下っていた石段は、途中で消えていた。


パン屋の看板も、花屋の軒先も、薬草店の灯りも、そこにあるのに少し遠い。


まるで街そのものが、昼間の顔を畳んで、別の顔をかけ直したみたいだった。


ましろは、星の護符を胸元にしまっていた。


護符の裏には、昼間に浮かんだ文字が残っている。


ただいまは、ここにあった。


完全な保存ではない。


戻せたわけでもない。


ただ、消さずに預かっただけ。


けれど、その小さな護符は、今も胸の内側でかすかに温かい。


ましろはその温度を確かめるように、服の上からそっと押さえた。


「本当に夜に来るんだね」


隣でソラが言った。


彼はいつもより輪郭が薄い。


街に出てから、ずっとそうだった。


星見坂の街では、ソラだけが薄いのではない。


人の名前が、街全体から少しずつ抜けている。


だから、ソラの薄さが紛れてしまう。


それが、ましろには怖かった。


「ソラ、大丈夫?」


「今のところ」


「今のところ禁止」


ねむが言う。


「じゃあ、大丈夫。嫌になったら逃げる」


「よろしい」


ねむは夢見のランタンを抱えている。


硝子の中の青黒い火は、今夜はいつもより細く尖っていた。


まるで、街の夢が棘を持っているみたいだった。


レムは杖の宝石の中で黙っている。


けれど、黙っているだけで、眠ってはいない。


宝石の奥の青い目は、夜の街をずっと見ている。


「レム」


ましろが呼ぶと、すぐに返事があった。


「何」


「返事、早い」


「名前を呼ばれたら返事をするべきなのでしょう」


「まだ不機嫌?」


「不機嫌ではないわ」


「じゃあ?」


「警戒しているの」


レムの声は低かった。


「名前を売る店なんてものは、普通なら存在してはいけない」


「普通なら?」


ねむが聞く。


「ええ。普通なら」


「最近、普通ならできないことばっかり」


「だから困っているのよ」


三人は、昼間の赤い屋根の家へ向かっていた。


正確には、向かっているつもりだった。


けれど、道が変わる。


角を曲がるたび、看板の文字が違って見える。


昼間は「焼きたてパン」と書かれていた看板には、今はこう書かれていた。


昨日の呼び名、買います。


花屋の店先には、花の代わりに白い札が吊るされている。


忘れたい名前、三日分の眠りと交換。


薬草店の窓には、小さな文字。


もう呼ばれたくない名、痛みなくお預かりします。


ましろは足を止めた。


「何、これ……」


ねむがランタンを掲げる。


青黒い光に照らされると、看板の文字は少しだけ震えた。


まるで、見られたくなかったものを見られているみたいだった。


「街全体が質札みたい」


ねむが言う。


「昼間は隠してる。夜になると、値段が見える」


ソラは看板を見上げていた。


「名前を売るって、こういうことなんだ」


その声は薄かった。


ましろは、昼間のパン屋の女性を思い出す。


パン屋のおばさんで通じるから、まあいいかしら。


郵便屋で通じます。


名前ではなく、役割だけが残った街。


その裏側に、こんな夜がある。


ましろの胸が冷たくなった。


「誰がこんなことを」


レムが言う。


「欲しがる者と、手放したい者がいるから店は開く」


「手放したい人も悪いの?」


ましろが聞くと、レムはすぐには答えなかった。


「悪い、だけでは片づけられないわ」


その答えは、レムにしては珍しく曖昧だった。


「忘れなければ生きていけない痛みもある。呼ばれるたびに壊れる名前もある。けれど」


レムの声が硬くなる。


「だからといって、それを商売にしていい理由にはならない」


その時、路地の奥から黒い鐘が鳴った。


ごん。


昼間聞いた音より、ずっと近い。


ましろたちは顔を上げる。


路地の奥。


赤い提灯でも、街灯でもない。


燐のように青白い火が、ぽつぽつと浮かんでいる。


その灯りの下に、黒い少女が立っていた。


黒鐘ヨル。


黒い服。


錆びた銀の飾り。


赤い紐。


肩には、黒い鐘のついた杖。


彼女はましろたちを待っていたようだった。


「遅い」


ヨルが言う。


「時間は決めてなかったよ」


ましろが返すと、ヨルは冷たく言った。


「名前の店は、待たせた分だけ値段を上げる」


「そういうものなの?」


「そういうものにしたやつがいる」


ヨルは背を向けて歩き出す。


「ついてきな。迷ったら、夜が名前を食う」


ねむが小さく言う。


「説明がいちいち嫌」


「嫌な場所だから」


ヨルは振り返らない。


「好かれに来る場所じゃない」


「あなた、本当に好かれる気がないね」


「好かれて得したことがない」


その一言は、軽く言ったように聞こえた。


けれど、ましろには軽く聞こえなかった。


ヨルの背中に揺れる割れた名札。


そこには、何も書かれていない。


昼間、彼女が名乗った時、一瞬だけ「ヨル」の文字が浮かんだ。


けれどすぐに消えた。


黒鐘ヨル。


それが、今の私を鳴らす名前。


その言い方が、ましろの中に残っている。


今の名前。


なら、昔の名前は。


ましろは聞きかけて、やめた。


踏み込みすぎ、と言われる気がした。


ヨルの案内で進む路地は、昼間にはなかった。


左右の壁に、たくさんの札が貼られている。


白い札。


黒い札。


焦げた札。


半分だけ文字の残った札。


ましろが目を凝らすと、いくつかの文字が読めた。


お母さん。


先生。


兄ちゃん。


あの子。


初めて呼ばれた名。


最後に呼ばれた名。


もう呼ばれない名。


ましろは、思わず目を逸らした。


どれも誰かのものだった。


誰かが呼んだ。


誰かが呼ばれた。


その小さな音が、ここでは値札みたいに壁へ貼られている。


「見るな」


ヨルが言った。


「見られると、欲しがられる」


「誰に?」


「店に」


その言葉と同時に、壁の札が一斉に小さく鳴った。


かさ。


かさ。


まるで紙ではなく、眠っている虫の羽音みたいだった。


ソラが顔をしかめる。


「見られてる」


「店が?」


「うん。名前じゃなくて、足りないところを見てる」


「足りないところ?」


「欲しい名前じゃなくて、失いたい名前を探してる」


ねむが低く言う。


「最悪な視力」


ヨルは足を止めた。


目の前には、古い空き店舗があった。


昼間なら、誰も入らないような店だった。


木の戸は閉じている。


看板は白い。


何も書かれていない。


けれど、夜の青白い灯りが当たると、文字が浮かび上がった。


燐灯堂。


その文字は綺麗ではなかった。


焼けた木に、指で無理やり名前を刻んだような文字だった。


「ここが」


ましろが呟く。


「名前の質屋」


ヨルが言う。


「入る前に、ひとつだけ覚えておけ」


彼女は黒い鐘を肩から下ろした。


「店の中で、いらない名前を思い浮かべるな」


「どうして?」


「値段をつけられる」


「値段をつけられると?」


ヨルはましろを見た。


「半分売れたことになる」


ましろは息を呑む。


ねむがメモ帳を取り出した。


「いらない名前を思い浮かべない」


「書くな」


ヨルが即座に言った。


「店の前で文字にするな」


ねむの手が止まる。


「厄介すぎ」


「だから言ってる」


レムが低く言った。


「ましろ。自分の名前を握っていなさい」


ましろは胸元の宝石に手を当てた。


「久遠ましろ」


小さく呟く。


宝石が、かすかに応えた。


ソラも、自分の席札を押さえる。


「帳ソラ」


ねむは声には出さず、唇だけで自分の名前を形にした。


棘咲ねむ。


ヨルはそれを横目で見ていた。


「ずいぶん名前を大事にするんだね」


「大事です」


ましろは言った。


ヨルは鼻で笑う。


「大事な名前ほど、売ると高い」


そして、黒い鐘を小さく鳴らした。


ごん。


燐灯堂の戸が、音もなく開いた。


中から、冷たい匂いが流れてきた。


古い紙。


灯油。


雨に濡れた木。


それから、誰かが泣いた後の枕みたいな匂い。


ましろは息を止めた。


店の中は、思っていたより広かった。


外から見た空き店舗の大きさではない。


奥へ、奥へ、棚が続いている。


天井からは小さな灯りが吊るされていた。


火ではない。


名前だった。


小さな札の中に、名前が灯っている。


呼び名。


あだ名。


古い姓。


もう使われない幼名。


誰かひとりだけが呼んだ特別な名。


それらが灯りになって揺れている。


綺麗だった。


だからこそ、気持ち悪かった。


「いらっしゃいませ」


声がした。


店の奥からではない。


棚の隙間から。


灯りの中から。


床の下から。


いくつもの声が重なっている。


「お預かりですか」


「お買い戻しですか」


「お忘れ直しですか」


ましろは杖を握った。


「誰?」


「燐灯堂でございます」


声は答えた。


「この声に名はございません。名乗るほどの者ではございませんので」


レムが冷たく言う。


「名乗らない店ほど危険なものはないわ」


「よくお分かりで」


声は笑った。


笑い声なのに、紙を擦る音に似ていた。


店の中央に、帳場があった。


古い木の机。


黒い算盤。


秤。


銀色の小さな皿。


そして、帳簿。


帳簿の表紙には何も書かれていない。


けれど、見ているだけで、そこに大量の名前が押し込まれていることが分かった。


ましろは胸が悪くなる。


「ここに、昼間の家の“ただいま”があるんですか」


「ございます」


声はすぐに答えた。


「お預かり品。帰る言葉。ただいま。期限、満月まで。質入れ理由、思い出すと眠れないため」


ましろは息を呑んだ。


「持ち主は?」


「個人情報でございます」


ねむが低く言う。


「都合のいい時だけ倫理を出す店」


「倫理も、必要でしたらお預かりいたします」


「殴っていい?」


「相手がいればね」


レムが言う。


燐灯堂の声は楽しそうに続けた。


「お客様方は、お買い戻しをご希望ですか」


「できるんですか」


ましろが聞く。


「できますとも。対価をいただければ」


「対価って何?」


「同じ重さの名前」


店の灯りが揺れた。


「帰る言葉には、帰る言葉を。呼び名には、呼び名を。忘れたい名前には、覚えておきたい名前を」


ましろの喉が乾いた。


「そんなの、交換できるものじゃない」


「だから価値がございます」


声は穏やかだった。


穏やかすぎて、気味が悪い。


「痛みを忘れるために名前を預ける。眠るために呼び名を預ける。生きるために過去の名を預ける。どれも立派な取引です」


「でも、それで星骸が生まれてる」


「副産物でございます」


ねむのランタンの火が、怒ったように跳ねた。


「副産物」


「ええ。泣けなかった涙が湿気になるように。呼ばれなかった名前も、形を持つことがございます」


「最悪」


「お褒めにあずかり光栄です」


ヨルが黒い鐘を帳場へ向けた。


「黙れ」


燐灯堂の灯りが、一斉に揺れた。


「黒鐘様。本日もお壊しですか」


ヨルの目が冷たくなる。


「その呼び方をするな」


「では、お客様番号七番とお呼びしましょうか」


黒い鐘が震えた。


店の棚がかたかた鳴る。


ましろはヨルを見た。


ヨルの首元の割れた名札が、白く霞んでいる。


「ヨル」


ましろが呼ぶと、ヨルが鋭く振り向いた。


「気安く呼ぶな」


「今、薄くなってた」


「見なくていい」


「でも」


「見るなって言ってる!」


黒い鐘が鳴った。


ごん。


店の灯りが一瞬暗くなる。


ましろの胸元の宝石が震えた。


ヨルは息を荒くしている。


怒っている。


けれど、それだけではない。


名前を呼ばれたことで、痛みが開いたように見えた。


燐灯堂の声が、やわらかく言う。


「黒鐘様には、未清算のお預かり品がございます」


「黙れ」


「お買い戻しは、いつでも承ります」


「黙れ」


「ただし、対価はまだ足りません」


ヨルが黒い鐘を帳場に叩きつけた。


ごん。


帳簿が跳ねる。


銀の皿が床へ落ちる。


ましろは思わず一歩下がった。


けれど、帳場は壊れなかった。


黒い音は机を通り抜け、奥の棚だけを震わせる。


そこから、小さな布包みがいくつか落ちた。


あの家で、ヨルが星骸の残骸を包んだものと同じ黒い布。


燐灯堂の声が笑う。


「墓守ごっこは続いておりますか」


ヨルは答えなかった。


その沈黙が、何より危うかった。


ましろは前に出た。


「やめて」


「どっちに言ってる」


ヨルが低く聞く。


「両方」


「甘い」


「そうかもしれない」


「ここで甘いと食われる」


「でも、壊すだけじゃ分からない」


ヨルの黒い目がましろを射抜く。


「分かった気になってる白い鐘が、一番嫌い」


ましろは胸が痛んだ。


でも、逃げなかった。


「分かってないよ」


その答えに、ヨルの目が少しだけ揺れる。


「分からないから、聞きたい」


ましろは帳場を見る。


「燐灯堂。昼間の家の“ただいま”を、見せてください」


「対価は?」


「払わない」


店の空気が止まった。


ねむがましろを見る。


レムも宝石の中で眉を上げる。


ヨルは、呆れたように息を吐いた。


「交渉下手」


ましろは続ける。


「預かったものを確認したいだけです。買うわけじゃない。売るわけでもない」


「当店は見物無料ではございません」


「じゃあ、これを」


ましろは星の護符を取り出した。


ただいまは、ここにあった。


そう書かれた小さな護符。


燐灯堂の灯りが、一斉にましろを見るように揺れた。


「それは」


声の調子が、初めて少し変わった。


「預かり証ではない」


「はい」


「買戻券でもない」


「はい」


「それは、店を通さずに作られた仮保管」


「そうです」


「無許可です」


「名前に、許可が必要なんですか」


ましろが言うと、店の灯りが一瞬だけ消えた。


ほんの一瞬。


けれど、確かに。


レムが小さく言う。


「今、効いたわね」


ねむが呟く。


「ましろ、たまに店に向いてない正論を刺す」


「褒めてる?」


「かなり」


燐灯堂の声が、少し低くなった。


「久遠ましろ様。当店では、無許可の保管は推奨しておりません」


「でも、できました」


「できることと、許されることは別でございます」


「誰に?」


ましろは言った。


「誰に許される必要があるんですか。名前を預けた人? それとも、それで商売している店?」


声が消えた。


店の奥で、何かが軋む。


ソラが小さく言った。


「怒ってる」


「店が?」


「うん。でも、怒り方が変」


「どう変?」


「痛いところを触られたみたい」


燐灯堂の帳簿が、ひとりでに開いた。


ページがめくれる。


めくれて、めくれて、ひとつの項目で止まった。


そこには、質札と同じ内容が書かれていた。


お預かり品。


帰る言葉。


ただいま。


期限。


満月まで。


質入れ理由。


思い出すと眠れないため。


預け主。


白紙。


買戻人。


――黒鐘ヨル。


ましろは息を呑んだ。


ヨルの顔から、血の気が引いた。


「見るな」


声が低かった。


けれど、もう遅かった。


見えてしまった。


ヨルは、この“ただいま”を買い戻そうとしていた。


壊すだけの少女ではなかった。


返せない名前があると言いながら。


壊さなければ食われると言いながら。


彼女は、何度も買い戻そうとしていたのだ。


燐灯堂の声が囁く。


「黒鐘様は、買い戻しに六度失敗されています」


「黙れ」


「対価が足りないため」


「黙れ」


「お支払いになった名前は、すでに――」


黒い鐘が鳴った。


ごん。


帳簿のページが吹き飛ぶ。


けれど、文字は消えなかった。


空中に浮いたまま、ゆらゆら揺れている。


ヨルの黒い鐘が震えている。


彼女の手も震えている。


ましろは、名前を呼びかけた。


「ヨル」


「呼ぶな!」


怒号が飛んだ。


黒い鐘の音が、ましろの足元まで走る。


床が割れかける。


ましろは踏みとどまった。


ヨルは歯を食いしばっている。


「その名前で呼ぶな」


ましろは息を止めた。


「それが、今の私を鳴らす名前」


そう言っていた。


けれど今は、その名前で呼ばれることすら痛そうだった。


「じゃあ」


ましろは小さく言った。


「何て呼べばいいの」


ヨルは何も答えなかった。


答えられないのだと、ましろは分かった。


燐灯堂の灯りが、また笑うように揺れた。


「お名前にお困りでしたら、当店で新しい呼び名をお作りすることも可能でございます」


「黙れ」


今度に言ったのは、ヨルではなかった。


ましろだった。


店の中が、少し静かになる。


ましろは杖を握る。


「名前を勝手に作らないで」


「仮名のご提案でございます」


「それを、値段にしないで」


燐灯堂の声が少しだけ冷える。


「では、お客様は何をお求めで?」


ましろは護符を胸に押し当てた。


「今日は買いません」


「売りません」


「忘れ直しもしません」


「ただ、覚えに来ました」


店の灯りが、一斉に揺れた。


ねむが、少しだけ目を細める。


ソラが、静かに息を吐く。


レムが宝石の中で小さく言った。


「七十四点」


「微妙」


「この店で覚えると言えたなら十分よ」


燐灯堂の声は、しばらく沈黙していた。


やがて、奥の棚がひとつ開く。


そこから、小さな箱が滑り出した。


白木の箱。


蓋には、薄い文字。


ただいま。


箱はましろの前で止まった。


「ご確認だけなら」


声が言う。


「一呼吸分」


「それでいいです」


「では、どうぞ。一呼吸分だけでございます」


ましろは蓋に手をかけた。


ヨルが鋭く言う。


「開けるな」


「どうして?」


「戻る」


「何が?」


ヨルは答えなかった。


ましろは、箱を見た。


中から、かすかな温度が漏れている。


あの家の小さなカップと同じ温度。


言えなかった帰る言葉。


ましろは、蓋を少しだけ開けた。


その瞬間。


知らない声が聞こえた。


ただいま。


疲れている声だった。


泣くのを我慢している声だった。


それでも、誰かに聞いてほしくて、玄関の前で立ち止まっている声だった。


続いて、別の声がした。


おかえり。


その声を聞いた瞬間、ヨルが膝をついた。


黒い鐘が床に落ちる。


ごん、と低い音。


けれど今度の音には、怒りがなかった。


ただ、痛みだけがあった。


ましろは慌てて箱を閉じた。


一呼吸。


それだけだった。


けれど、店の中の灯りが揺れた。


燐灯堂の声が囁く。


「ご確認、完了でございます」


ヨルは床に手をついたまま、息をしている。


ねむが近づこうとすると、ヨルが低く言った。


「来るな」


「行かない」


ねむはその場で止まった。


「でも、倒れたら起こす」


「余計」


「倒れなければいい」


ヨルは少しだけ笑った。


笑ったというより、息が漏れた。


ましろは箱を見つめた。


あの声は誰だったのか。


なぜヨルが崩れたのか。


なぜヨルが買い戻そうとしていたのか。


まだ分からない。


けれど、分かってしまったことがある。


この“ただいま”は、ヨルに関係している。


深く。


痛く。


呼べないほどに。


燐灯堂の帳簿が閉じる。


「本日のご確認はここまで」


「待って」


ましろが言う。


「この“ただいま”を、どうすれば買い戻せますか」


「対価が必要です」


「何を?」


店の奥から、銀色の皿が滑ってくる。


その皿の上には、何も乗っていない。


けれど、見ているだけで胸がざわついた。


「同じ重さの帰る言葉」


声が言った。


「または、それを呼ぶ者の本当の名前」


レムが鋭く叫ぶ。


「ましろ、聞きすぎよ」


皿の上に、細い白い線が浮かんだ。


久遠ましろ。


その文字の一部が、皿に映りかけている。


ヨルが、床に膝をついたまま黒い鐘を掴んだ。


ごん。


皿が砕けた。


「査定されるな」


ヨルは低く言った。


「値段をつけられた名前は、もう半分売れてる」


ましろは喉が詰まった。


燐灯堂の灯りが、残念そうに揺れる。


「黒鐘様は、相変わらず商談を壊される」


ヨルは立ち上がった。


顔色は悪い。


でも、目は戻っていた。


怒りの目。


ただし、その奥にさっきの痛みが残っている。


「帰る」


「逃げるんですか」


燐灯堂が囁く。


ヨルは振り返らない。


「今日は壊さないで帰ってやる」


「それは残念」


「次は分からない」


「ご来店、お待ちしております」


燐灯堂の戸が勝手に開いた。


夜の路地が見える。


ヨルは外へ出る。


ましろたちも続いた。


店を出た瞬間、燐灯堂の看板が白くなった。


何も書かれていない空き店舗に戻る。


ましろが振り返ると、もう扉は閉じていた。


路地には夜風が吹いている。


ヨルは少し先に立っていた。


黒い鐘の杖を肩に担ぎ、こちらを見ない。


ましろは声をかける。


「ヨル」


ヨルの肩がわずかに動いた。


呼ばれることに慣れていないような反応だった。


「さっきの“ただいま”」


「聞くな」


「でも」


「聞くなって言った」


ましろは口を閉じた。


ヨルは少しだけ沈黙してから、低く言う。


「聞いたら、あんたは助けようとする」


「だめ?」


「助けられない時に、あんたが壊れる」


その言葉は、思っていたより優しかった。


優しいというより、知っている人の言葉だった。


助けようとして、助けられなかった人の言葉。


「私は」


ましろは言った。


「壊れるかもしれない」


ヨルが振り向く。


「でも、知らないまま誰かが壊れるのを見るのも嫌」


ヨルはしばらくましろを見ていた。


そして、少しだけ目を伏せた。


「白い鐘は、面倒くさい」


「よく言われる」


「言われるんだ」


「たぶん」


ねむが横から言う。


「かなり言われてる」


「ねむ」


「事実」


ヨルは一瞬だけ、ほんの少しだけ笑った。


本当に少しだけ。


夜に小さなひびが入るくらいの笑みだった。


「満月まで」


ヨルは言った。


「満月までに、あの“ただいま”は買い戻さないと消える」


「消える?」


「燐灯になる」


「燐灯?」


「店の天井に吊るされてた灯り」


ましろは息を呑む。


あの綺麗で気持ち悪い灯り。


名前の灯り。


呼び名の灯り。


「灯りになると、もう戻せないの?」


「戻せないことになってる」


「ことになってる?」


ヨルは黒い鐘を担ぎ直す。


「私は、それを信じてない」


その言葉で、ましろはヨルを見る目が変わった。


ヨルは壊すだけではない。


諦めているようで、諦めていない。


戻せない名前があると知っている。


でも、本当は。


戻せないと決めた店を、信じていない。


「じゃあ」


ましろは言った。


「一緒に買い戻そう」


「軽い」


「軽くないよ」


「軽い」


「じゃあ、重く言う」


ましろは少し考えた。


「一緒に、名前を取り戻す方法を探したい」


ヨルはましろを見た。


長い沈黙。


それから、黒い鐘が小さく鳴った。


ごん。


「足手まといなら置いていく」


「うん」


「泣いたら置いていく」


「たぶん泣く」


「なら置いていく」


「でも、ついていく」


ヨルは呆れたように息を吐いた。


「本当に面倒」


けれど、今度は背を向けるのが少しだけ遅かった。


「明日の夜。燐灯堂の裏口に来い」


「裏口?」


「正面から入ると、また値段をつけられる」


「分かった」


「名前を持ってくるな」


ましろは首を傾げた。


「どういう意味?」


ヨルは夜の路地へ歩き出しながら言った。


「売れないものを持ってこい」


その背中が、黒い霧に溶けていく。


ましろはその言葉を何度も頭の中で繰り返した。


名前を持ってくるな。


売れないものを持ってこい。


名前ではない。


でも、名前を支えるもの。


呼ぶ声。


記す手。


夢の灯り。


忘れられた席。


名付けた者。


共にある杖。


最後の白。


ましろは、胸元の宝石に手を当てた。


「売れないもの……」


ねむが隣で言う。


「ましろのその顔、だいたい無茶を思いつく前」


「まだ思いついてないよ」


「じゃあ、思いつきかけ」


ソラが空を見た。


「店が、またこっちを見てる」


ましろが振り返る。


そこにはもう、燐灯堂はない。


ただの空き店舗。


白い看板。


閉じた戸。


けれど、二階の窓に、ひとつだけ灯りがついていた。


青白い燐の灯り。


その灯りの中に、小さな文字が浮かぶ。


満月まで、あと三夜。


文字はすぐに消えた。


夜の街は、何事もなかったように静かだった。


けれど、ましろには分かった。


燐灯堂は閉じていない。


ただ、次の取引を待っている。


そして、店の奥で。


言えなかった「ただいま」が、満月までの時間を削られながら、まだ誰かの帰りを待っている。

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