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第19話 怒りは、名前を覚えている


売れないものを探すのは、思ったより難しかった。


朝の食堂で、ましろは星の護符を机の上に置いていた。


小さな木片の護符。


星守澄が、孤児院を出る時に持たせてくれたもの。


その裏側には、昼間の名前のない家で浮かんだ文字が残っている。


ただいまは、ここにあった。


その文字は、今朝になっても消えていなかった。


けれど、昨日より少しだけ薄い。


まるで、誰かが遠くから息を吹きかけているみたいに。


「売れないものって、何だと思う?」


ましろが聞くと、ねむはパンをかじりながら言った。


「睡眠」


「ねむの場合は切実だね」


「でも、たぶん売れる」


「売れるの?」


「三日間眠れなくなる代わりに、嫌な夢を見なくなる、とか言われたら売る人いそう」


ましろは何も言えなかった。


冗談みたいなのに、冗談になっていない。


星見坂の街では、帰る言葉すら預けられる。


ただいま。


誰かに言えなかった言葉。


戻したくないほど痛い言葉。


それが質札になり、星骸になり、家を食べようとしていた。


なら、眠りだって売れるのかもしれない。


夢だって。


怒りだって。


誰かを好きだった気持ちだって。


「売れないものなんて、あるのかな」


ましろが呟く。


ソラは窓際の席で、自分の席札を見ていた。


ソラの席。


帳ソラ。


また明日。


その下には、悠太が描いた青い星。


ましろが書いた小さな文字。


ねむの強い線。


いくつもの字が重なっている。


「これ」


ソラが言った。


「僕の席札は、売れないと思う」


「どうして?」


「僕だけのものじゃないから」


ソラは席札を指でなぞる。


「ましろが書いた。ねむがなぞった。悠太が星を描いた。子どもたちも呼んだ。僕の名前だけど、僕ひとりで持ってるわけじゃない」


その言葉に、ましろは少しだけ息を止めた。


名前は、誰かのもの。


でも、呼ぶ人の声もそこに混じっている。


「売ったら、ソラが困る?」


ましろが聞くと、ソラは少し考えた。


「僕も困る」


それから、少しだけ笑った。


「でも、たぶん、呼んだ人たちも困る」


ねむが眠そうな目を少しだけ細めた。


「なるほど」


「何か分かった?」


「売れないものは、値段が高いものじゃない」


ねむはメモ帳を開かずに言った。


「値段をつけられたら怒るもの」


ましろは、その言葉を胸の中で繰り返した。


値段をつけられたら怒るもの。


それが、売れないもの。


星の護符が、かすかに温かくなった気がした。


「怒りって、売れるのかな」


ましろが言うと、食堂の空気がほんの少しだけ止まった。


レムが杖の宝石の中で答える。


「売ろうとする者はいるでしょうね」


「売れるの?」


「正確には、怒りの理由を預けることはできる」


レムの声は低かった。


「怒っていたことを忘れれば、眠れる夜もある。許せない相手の名前を薄くすれば、笑える朝もある。でも」


「でも?」


「怒りは、最後の見張りになることがある」


レムはましろを見る。


「痛みを忘れたあとでも、怒りだけが“何かが間違っていた”と覚えていることがある」


ねむが小さく言った。


「怒りは、名前を覚えている」


ましろは、黒鐘ヨルを思い出した。


黒い服。


黒い鐘。


割れた名札。


冷たい声。


「返せる名前ばかりなら、誰も泣いてない」


あの子の怒りは、何を覚えているのだろう。


夜。


星見坂の街は、また坂の向きを変えた。


昼間は市場へ下っていた道が、知らない路地へ伸びている。


赤い屋根の家へ続いていた石段は、途中で消え、代わりに細い裏道が口を開けていた。


路地の奥には、青白い燐の火が浮いている。


火は風もないのに揺れた。


まるで、こちらへ来いと指で招いているみたいだった。


ましろは星の護符を胸元にしまっている。


ねむは夢見のランタンを持っている。


ソラは席札を胸に入れていた。


三人とも、門を出る時に自分の名前を声にした。


久遠ましろ。


棘咲ねむ。


帳ソラ。


門の鐘は、それぞれに返事をした。


ちりん。


ちりん。


少し遅れて、ちりん。


ソラの時だけ、やっぱり少し遅れた。


けれど、鳴った。


それだけで、ましろは少しだけ安心した。


路地の入口に、黒鐘ヨルが立っていた。


黒い鐘の杖を肩に担ぎ、壁にもたれている。


夜の中にいても、ヨルの周りだけ、さらに深い夜だった。


「持ってきた?」


ヨルは挨拶もなく聞いた。


「何を?」


ましろが聞き返すと、ヨルの目が少し冷たくなる。


「売れないもの」


ましろは星の護符に手を当てた。


「ただいまが、ここにあったこと」


ねむはランタンを持ち上げた。


「勝手に売られたくない夢」


ソラは自分の胸元を押さえた。


「僕の席」


ヨルは三人を順番に見た。


その視線は冷たかった。


でも、昨日より少しだけ、測るだけではない色がある。


「ぎりぎり」


「合格?」


ましろが聞く。


「不合格ではない」


「それ、ヨル的には褒めてる?」


「褒めてない」


ねむが横から言う。


「レム系統の採点を感じる」


「一緒にしないで」


レムとヨルの声が重なった。


二人は同時に黙った。


ソラが小さく笑う。


「少し似てる」


「似てない」


今度も二人の声が重なった。


ねむは少しだけ満足そうな顔をした。


「似てる」


ヨルは黒い鐘を鳴らした。


ごん。


足元の影が、路地の奥へ伸びる。


そこに、扉の形が浮かび上がった。


扉ではない。


裏口と呼ぶには薄すぎる。


まるで壁が、自分が出入口だったことを思い出しただけのような隙間だった。


「燐灯堂の裏口」


ヨルが言う。


「正面から入ると、値段をつけられる。裏から入れば、少しはまし」


「少し?」


「店が正面から笑わない分だけ」


「全然安心できない」


「安心しに来る場所じゃない」


ヨルは先に隙間へ足を踏み入れた。


ましろたちも続く。


一歩入った瞬間、夜の匂いが変わった。


路地の湿った石の匂いが消える。


代わりに、古い紙と、灯油と、冷めたお茶と、少し焦げた砂糖の匂いがした。


以前、杖の記憶の中で感じた星の匂いに、少しだけ似ていた。


けれど、こちらはもっと重い。


甘いものが焦げて、戻れなくなった匂い。


裏口の先には、細い廊下が続いていた。


左右の壁には、黒い布包みが吊るされている。


ひとつ。


またひとつ。


無数に。


どれも手のひらほどの大きさで、赤い糸で結ばれている。


ヨルが昨日、星骸の残骸を包んだ布と同じだった。


ましろは息を呑む。


「これ、全部……」


「壊した殻」


ヨルが言った。


「星骸?」


「名前の殻。呼び名の殻。戻らなくなったものの抜け殻」


ヨルの声に感情はなかった。


けれど、感情がなさすぎて、逆に痛かった。


ねむがランタンを少し掲げる。


青黒い光が布包みを照らした。


ひとつの布包みが、かすかに震える。


中から、細い声が漏れた。


――ごめん。


別の布から。


――もう呼ばないで。


また別の布から。


――忘れたくなかった。


ねむの顔がこわばる。


「多すぎる」


「街だから」


ヨルは歩き続ける。


「孤児院とは違う」


その言葉は、ましろに向けられていた。


ましろは何も言い返せなかった。


孤児院には、呼び直してくれる人がいた。


書き直してくれる手があった。


歌があった。


席があった。


けれど街では。


誰かの名前が抜けても、パンは焼ける。


郵便屋は道を覚えている。


人は笑う。


困る前に、困り方を忘れている。


「この布、全部ヨルが?」


ソラが聞いた。


ヨルは短く答える。


「全部じゃない」


「でも、たくさん」


「数えない」


「どうして?」


ヨルは足を止めた。


振り向かないまま言った。


「数えたら、名前が欲しくなる」


その一言で、廊下が静かになった。


ましろは、黒い布包みを見る。


墓なら、名前が刻める。


昨日、ヨルはそう言った。


でも、この布たちには名前がない。


刻めない。


数えることすら、痛みになる。


ましろは胸元の護符を握った。


ただいまは、ここにあった。


その小さな文字が、手の中でかすかに熱を持つ。


「怒ってる?」


ましろは、思わず聞いてしまった。


ヨルが振り返る。


「何に」


「全部に」


ねむが小さく息を呑んだ。


ソラもましろを見る。


ヨルはしばらくましろを見ていた。


そして、低く言った。


「怒ってる」


嘘のない声だった。


「ずっと?」


「ずっと」


「疲れない?」


「疲れる」


あまりにも即答だった。


ましろは言葉を失う。


ヨルは黒い鐘を軽く持ち直した。


「でも、怒らなかったら、誰が覚えてるの」


「覚える?」


「売られた名前のこと。捨てられた呼び名のこと。戻されたら痛いからって、預けられた声のこと」


ヨルの目が、暗い廊下の中で鈍く光った。


「怒りは、名前を覚えている」


その言葉が、廊下に落ちた。


黒い布包みが、ほんの少し揺れる。


まるで、それを知っていると言うみたいに。


「悲しみは薄くなる。記憶は都合よく白くなる。人は慣れる。パン屋はパンを焼く。郵便屋は道を歩く」


ヨルの声は淡々としていた。


でも、奥に黒い火がある。


「でも、怒りだけは残ることがある。何があったか分からなくなっても、何かが許せなかったことだけは残る」


ましろは、ねむのメモ帳を思い出した。


忘れたら殴る。


あれも、ねむなりの怒りだったのかもしれない。


忘れないための雑で不器用な杭。


「怒りは悪いものじゃないの?」


ましろが聞くと、ヨルは少しだけ眉をひそめた。


「悪いものにもなる」


「じゃあ」


「でも、売るな」


ヨルは言った。


「怒りを売ると、自分が何を許せなかったのか分からなくなる。誰に傷つけられたのかも、何を守りたかったのかも」


彼女は首元の割れた名札に触れた。


そこには、何も書かれていない。


「怒りまで売ったら、最後に残るのは、笑ってるだけの空っぽだ」


ましろは、何も言えなかった。


ヨルは歩き出す。


「だから、私は壊す」


その背中は小さかった。


でも、黒い鐘の影が大きすぎて、小さく見えなかった。


廊下の途中で、壁が開けた。


小さな部屋があった。


部屋の中央には、銀色の秤が置かれている。


燐灯堂の正面にあったものとよく似ていた。


ただし、こちらの皿は黒い。


黒い皿の上には、値札が山のように積まれていた。


値札には文字がある。


怒らなくていい朝。


許したことにする夜。


痛くない思い出。


眠れるふり。


忘れたふり。


ましろはぞっとした。


「これ、何?」


レムが低く言った。


「怒りに値段をつけた残骸ね」


「売れるんだ」


ねむの声が硬い。


「売る人がいるのでしょう」


「買う店があるからでしょ」


「それもあるわ」


ヨルが黒い鐘を構える。


「ここは、壊す」


その時、秤がひとりでに動いた。


黒い皿の上の値札が浮き上がる。


一枚が、ねむの方へ飛んだ。


ねむはランタンを掲げる。


値札には、こう書かれていた。


悪夢を見ない眠り、七日分。


その下に、小さな文字。


対価。


夢見の怒り。


ねむの顔から、すっと表情が消えた。


「私の?」


「見ないで!」


ましろが叫ぶ。


けれど、値札はすでにねむの目の前にある。


青黒いランタンの火が揺れた。


ねむの眠そうな目が、一瞬だけ深く沈む。


悪夢を見ない眠り。


七日分。


それがどれほど魅力的なのか、ましろには本当には分からない。


ねむはいつも眠そうで、夢に引っ張られ、夢の匂いを嗅ぎ、見たくないものを見てしまう。


もし、その怒りを預ければ。


七日間、何も見ずに眠れる。


「ねむ!」


ましろが呼ぶ。


ねむは値札を見たまま、小さく呟いた。


「安い」


値札が震えた。


「私の怒り、七日分の睡眠で買えると思ってるの」


ねむの声は低かった。


「舐めるな」


ランタンの火が、青黒く燃え上がる。


値札が焼けた。


黒い灰になって落ちる。


ヨルが、ほんの少しだけねむを見た。


「売らないんだ」


「売るわけない」


「眠れるのに?」


「眠れない私が怒ってることまで売ったら、ただの寝不足になる」


ソラが小さく言う。


「ねむらしい」


「褒めてる?」


「かなり」


ねむは少しだけ息を吐いた。


次の値札が飛んだ。


今度はソラへ。


白い紙が、彼の胸元に近づく。


そこには、こう書かれている。


誰にも忘れられない一日。


対価。


ソラの席。


ましろは息を呑んだ。


ソラの目が揺れる。


誰にも忘れられない一日。


たった一日でも、ソラにとってどれほど大きいか。


みんなが覚えている。


呼ばなくても、そこにいると分かってもらえる。


席札がいらない一日。


ソラは値札を見つめた。


彼の手が、胸元の席札に触れる。


ソラの席。


帳ソラ。


また明日。


「ソラ」


ましろが呼ぶ。


ソラは目を閉じた。


「一日だけ、覚えてもらえる」


声が震えていた。


「ちょっと、欲しい」


ましろは何も言えなかった。


欲しくないはずがない。


それを否定することはできない。


ソラは、ゆっくり席札を取り出した。


ましろの心臓が跳ねる。


でも、ソラは席札を値札に差し出さなかった。


逆に、両手で抱きしめた。


「でも、これを売ったら」


ソラは小さく言う。


「僕が覚えられる一日と、みんなが僕を覚えようとしてくれた日が交換になる」


席札の文字が、淡く光る。


「それは嫌だ」


値札が震えた。


ソラは目を開ける。


「僕は、覚えられたい。でも、みんなが書いてくれたことまでは売らない」


値札が白く燃えた。


火ではない。


ソラの言葉に、紙が自分の値段を保てなくなったみたいに崩れていく。


ヨルは無言だった。


けれど、その目は少しだけ変わっていた。


次の値札は、ましろの前に来た。


白い札。


そこには、ましろの名前が薄く映っている。


久遠ましろ。


その下に、対価。


何も書かれていなかった。


空白。


ましろの胸元の宝石が強く鳴る。


レムが叫ぶ。


「ましろ、見るな!」


けれど、ましろはもう見てしまっていた。


値札の空白の奥に、声がある。


本当の名前。


それを一瞬だけ、知ることができる。


そんな誘いが、値札の白から漏れてくる。


知りたい。


知ってはいけない。


でも、知りたい。


ずっと隠されてきた。


みんなが知っていて、自分だけが知らないように感じる。


久遠ましろ。


その下にある、本当の音。


それが、この値札に映りかけている。


ましろの指が、少しだけ動いた。


「ましろ!」


レムの声。


「ましろ」


ねむの声。


「ましろ」


ソラの声。


「久遠ましろ」


ヨルの声が、最後に落ちた。


ましろは、はっとした。


ヨルが自分の名前を呼んだ。


冷たい声。


信じていない声。


それでも、呼んだ。


値札の白が揺らぐ。


ましろは息を吸った。


「私は、久遠ましろ」


値札が震える。


「本当の名前は、まだ知らない」


胸元の宝石が、強く光る。


「でも、知りたい気持ちに値段をつけさせない」


値札が割れた。


音もなく、二つに裂ける。


その隙間から、黒い小さな虫のようなものが飛び出した。


王冠の欠片だった。


いや。


燐灯堂の値札に巣食った、王冠の影。


それは小さな冠の形をしていた。


ヨルが黒い鐘を構える。


「やっぱり混ざってる」


「王冠?」


ましろが聞く。


「砕けた影が、店に食われてる」


ヨルは黒い鐘を振る。


「だから面倒なんだよ」


ごん。


黒い鐘が鳴った。


王冠の欠片が砕ける。


けれど、砕けた欠片はすぐに値札へ戻ろうとした。


ねむのランタンが照らす。


ソラが出口の線を探す。


ましろは杖を構える。


「ルミナス・ベル!」


白と金の鐘の音が、黒鐘に重なる。


ごん。


りん。


黒い音が値段を砕き、白い音が名前の残りを拾う。


値札の山が、一斉に舞い上がった。


怒らなくていい朝。


許したことにする夜。


痛くない思い出。


眠れるふり。


忘れたふり。


それらが、紙吹雪のように部屋を満たす。


でも、もう値札ではなかった。


ただの白い紙。


値段を失った紙。


ヨルが黒い鐘を振り下ろす。


「怒りに、値段をつけるな」


鐘の音が、部屋の奥まで響く。


秤がひび割れた。


銀色の柱が曲がる。


黒い皿が砕ける。


最後に、秤の中心から、小さな声が漏れた。


――ゆるせない。


その声は、誰かのものだった。


たくさんの誰かのものだった。


――ゆるせない。


――わすれたくない。


――でも、ねむりたい。


ましろは杖を下ろさなかった。


「眠ってもいい」


声に出した。


「でも、怒っていたことまで売らなくていい」


ねむが続ける。


「怒ったまま寝てもいい」


ソラも言う。


「覚えているのがつらいなら、誰かに預けてもいい」


ヨルが最後に言った。


「でも、店には売るな」


黒い鐘が鳴る。


ごん。


秤が砕けた。


部屋が暗くなる。


しかし、今度の暗さは怖くなかった。


値札の灯りが消えただけだった。


廊下に戻ると、黒い布包みたちが静かに揺れていた。


さっきより少しだけ、音が少ない。


ヨルは何も言わずに歩き出す。


ましろたちも続いた。


やがて、廊下の突き当たりに扉が現れた。


今度は本物の扉だった。


黒い木。


赤い紐。


中央には、小さな丸窓。


そこから、青白い燐の灯りが漏れている。


ヨルは扉の前で止まった。


「この奥が、買い戻し棚」


ましろは息を吸う。


「“ただいま”がある場所?」


「たぶん」


「たぶん?」


「店は棚を動かす。逃げる名前ほど奥へ行く」


ヨルは扉に手をかける。


その手が、少しだけ震えていた。


ましろはそれを見た。


何も言わなかった。


ヨルは黒い鐘を小さく鳴らす。


ごん。


扉が開いた。


中は、小さな部屋だった。


棚が一つだけある。


その棚の中央に、白木の箱が置かれている。


昨夜、燐灯堂で見た箱と同じ。


蓋には、薄い文字。


ただいま。


その下に、新しい文字が浮かんでいた。


買戻期限。


満月まで、あと二夜。


そして、そのさらに下。


買戻条件。


黒鐘ヨルの返せない名前。


ましろは、その文字を読んだ。


読んでしまった。


ヨルが息を止めた。


ねむも、ソラも、レムも、誰も声を出さなかった。


黒鐘ヨルの返せない名前。


それが何なのか。


誰の名前なのか。


ヨル自身の本当の名前なのか。


それとも、ヨルがどうしても返せなかった誰かの名前なのか。


ましろには、まだ分からない。


けれど、ヨルの顔を見た瞬間。


それが、彼女の怒りの中心にあるものだと分かった。


ヨルはゆっくり黒い鐘を持ち上げた。


箱を壊すつもりなのか。


店を壊すつもりなのか。


自分を壊すつもりなのか。


分からなかった。


ましろは一歩前に出る。


「ヨル」


「呼ぶな」


声が震えていた。


「今は、呼ぶな」


ましろは止まった。


黒い鐘は鳴らなかった。


ヨルは、箱を見つめたまま動かない。


部屋の奥で、どこからともなく燐灯堂の声がした。


「お買い戻しの準備は整っております」


紙を擦るような笑い声。


「お支払いは、返せない名前で」


その瞬間、白木の箱の中から、かすかな声が聞こえた。


ただいま。


それは疲れた声だった。


泣くのを我慢している声だった。


そして、今度は続きがあった。


――ヨル。


ヨルの黒い鐘が、初めて音を出さずに震えた。


ましろの胸元の宝石も、静かに震える。


満月まで、あと二夜。


返せない名前は、まだ箱の中で帰る場所を探している。

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