第68話 椅子の行き先
ベンチの手前で、ねむは地面を見回した。
「ここは?」
「陸」
悠太が答えた。
ねむは腰を下ろした。
「ようやく座れる」
「食堂でも座ってたよ」
「川を渡る前の話」
悠太は今来た方を見た。地面に残った線が、食堂とベンチの間を横切っている。
「帰りも渡るよ」
ねむはましろを見た。
ましろも、線を見る。
「橋、作ってもらおうか」
「それがいい」
悠太が足元の枝を拾った。
名札の持ち主は、ねむから少し離れて座った。二人の間に、ベンチの板が見えている。
ノートを膝へ載せる。
閉じた表紙を両手で押さえると、仮留めした袖口が手首のところで止まった。
ましろはベンチの端に腰を下ろした。
ねむは肩を背もたれへ預け、靴先を前へ伸ばした。何も持っていない手が、膝から脇へ下りる。
悠太が川の端へしゃがむ。
枝の先で、線を引き始めた。
「幅、このくらい?」
ねむは自分の靴を二つ並べた。
「これが通るくらい」
悠太は靴と地面を見比べ、もう一本の線を離して引いた。
ましろが笑う。
「ちゃんと測るんだね」
「落ちると困るから」
ねむは揃えていた靴を戻した。
風が吹き、ベンチの下へ葉が一枚滑った。悠太は枝を置き、その葉が橋の線を隠していないか確かめている。
ねむの顔が、食堂の方へ向いた。
ましろは何も聞かなかった。
「戻ったら、レムに聞く」
ねむが言った。
「火のこと?」
「うん」
ましろは食堂の入口を見る。
「今、呼んでこようか」
「まだ」
ねむは前へ伸ばした靴を見た。
「橋、できてない」
ましろはベンチに座り直した。
*
食堂では、ヨルが杖を左手へ持ち替えていた。
右手を開く。
指を曲げると、親指の付け根がこわばった。
「握りすぎよ」
レムが言った。
「落とすよりいいだろ」
「落とすか握り潰すかの二択にしないで」
ヨルは右手を膝へ置いた。
宝石の向きを直す。
「これで見えるか」
「ええ」
レムはランタンを見た。
金色の火は燃えている。細い先が揺れても、空いた椅子の側へ寄った形になった。
ヨルが窓へ目を向けた。
ねむがベンチから立つところが見える。
悠太が先へ走り、途中で足を止めた。枝で地面を指している。
ねむはその手前で待った。
「何をしているの?」
レムが尋ねた。
「川を渡る」
「中庭で?」
「線だ。地面の」
レムは黙った。
ヨルが宝石へ目を戻す。
「短く言った」
「短ければいいというものではないわ」
「長くてもな」
「誰の話?」
ヨルは窓へ顔を向けた。
四人が、悠太の指したところを歩いてくる。
*
「ましろ、持て」
食堂へ入ると、ヨルが杖を差し出した。
「ただいま」
「おかえり。持て」
ましろは笑って、杖の柄を受け取った。
ヨルの指が離れる。
レムが見上げた。
「順番の問題だったの?」
「少しは」
ましろは宝石をランタンへ向け、卓の脇で膝をついた。足元には、ねむが座っていた椅子の脚がある。
ねむは入口に立ったまま、そこを見ていた。
「置いていった間のこと、聞きたい」
レムが顔を向ける。
「中庭に出たあとに見た時、火は空いた椅子の方へ傾いていたわ」
ヨルが窓を指した。
「おまえは、あっちにいた。火の向きは別だった」
ねむは窓を見てから、椅子へ目を戻した。
「私がいなくても」
「その時、見えたのはね」
レムが答えた。
「ランタンにも、椅子にも触ってない」
ヨルが付け足す。
ねむの手が、服の脇をつまんだ。
ましろは杖を支え直したが、次の言葉を足さなかった。
名札の持ち主が、ねむの横へ来た。
ノートを胸へ抱えたまま、椅子を見る。
ねむはその子に顔を向け、やがて食堂の奥を見た。
窓に近い別の卓がある。
椅子は三つ。入口に近い一か所だけが空いていた。
「椅子を動かしてみたい」
ねむが言った。
「私が座ってたやつ」
レムの目が、ねむへ戻る。
「何を確かめたいの?」
「火が、椅子の方を向くか」
ねむは窓際の卓を指した。
「私が座って比べるのは、やめとく。今度は椅子だけ」
レムは、今ある椅子と、ねむが指した場所を見た。
「ランタンはこのまま。椅子をあちらへ運んだあと、もう一度火を見る。それでいい?」
「うん」
ヨルが袖を引き上げた。
「運ぶ」
ましろが立とうとする。
レムが声を掛けた。
「あなたは杖を」
「分かってるよ」
「分かっている人が、どうして立つの」
ましろは椅子と卓の間を指した。
「ここにいたら、ヨルが通れないでしょ」
レムがそちらを見た。
ヨルは背もたれへ手を掛けたまま待っている。
「……それなら、先にどうぞ」
ましろは、ランタンを挟んで椅子とは反対側の卓の端へ回り、もう一度膝をついた。杖の宝石も、自分の側で支えた。
「今のは減点なし?」
「ええ。今のはね」
「そこ、強く言わなくても」
「通るぞ」
ヨルが言った。
ましろは口を閉じた。
ねむの口元が動いた。
*
悠太は、ねむとその子の後ろに立っていた。
「ぼく、院長先生に、戻ったって言ってくる」
「お願い、悠太くん」
ましろが答えると、悠太は廊下へ向かった。
ヨルは椅子から手を離し、通り道に残った別の椅子を卓へ寄せた。
ねむと名札の持ち主は、窓際の卓のそばへ移った。
悠太が戻る。
「伝えた」
ねむの顔を見てから、その隣で足を止めた。
ヨルが、空いた椅子の背と座面を持つ。
「動かすぞ」
ねむがうなずいた。
椅子の四本の脚が床から離れる。
ヨルはランタンのない側へ椅子を引き寄せ、身体を横へ向けた。
ましろは膝の位置を変えず、硝子を見た。
火の先が揺れる。
細くなる。
椅子は卓の脇を抜けた。
ヨルが数歩進み、窓際の卓の手前へ下ろす。
脚が床へついた音に、ましろは顔を上げた。
運ばれた椅子の横に、ねむが立っている。
ましろは、もう一度ランタンを見た。
金色の火は、そちらへは傾いていなかった。
椅子があった側へ、先を寄せている。
ヨルは空になった両手を下ろした。
「運んだ」
レムが火を見る。
「ええ。今は、椅子のあった方へ傾いているわ」
ねむは運ばれた椅子から手を離した。
ましろのそばまで来て、屈む。
誰も座っていない、だけではなかった。
そこには、もう椅子もない。
卓の下から続く床板が見えている。板の継ぎ目と、靴で擦られた跡。
ねむは床を見ていた。
「場所なのかな」
声が低くなった。
レムはすぐに答えなかった。
火の先が細く震える。
「まだ分からないわ。椅子を移したあとも、今はあちらへ向いている。確かめられたのはそこまで」
ねむは片手を膝へついた。
立ち上がる途中で、元の椅子があったところへ顔を向ける。
それから窓際を見た。
「比べるのは、今日はここまでにする」
「ええ」
レムが答えた。
ましろも立った。
杖の先を床へつく場所を確かめ、卓の端へ寄る。
*
ヨルは、運んだ椅子の脇にいた。
ねむが近づくと、背もたれから手を離す。
「ここでいいか」
「うん」
ねむは椅子を卓へ向けて整えかけ、手を止めた。
先ほどの床へ目が戻る。
ヨルが、その手を見た。
「座るんだろ」
ねむはうなずく。
「なら、座りやすい方にしろ」
ねむは座面へ膝を当て、卓との間を広げた。
今度は、奥まで腰を下ろした。
ねむは、ましろの杖の宝石へ顔を向けた。
「座ったあとの火の話は、今はいらない」
「分かったわ」
レムの声は、それで止まった。
ましろは窓際の卓へコップを運んだ。
片手に杖があるので、一つずつ運ぶ。
ヨルが二つ目を取った。
「それは私の」
ねむが言う。
ヨルはコップを持ったまま、ねむを見る。
「だから持ってきた」
「そっか」
水が卓へこぼれないところまで、ヨルがコップを押す。
ねむは取っ手へ指を掛けた。
名札の持ち主も、椅子へ座った。
二人の間には、肘を動かせるだけの隙間がある。
その子はノートを膝に置き、表紙の端を揃えた。
悠太が向かいの椅子を引く。
「ねむ姉ちゃん、橋、ちゃんと渡れたね」
「もう一回は明日でいい」
「明日、川が増えてるかも」
ねむはコップを持ったまま止まった。
「橋を増やして」
「川より?」
「川より」
ましろは笑って、持ってきたコップを卓へ置いた。
ヨルが、ましろの持つ杖へ手を差し出した。
「杖、返せ」
ましろが手元を見る。
「私のなんだけど」
「じゃあ、渡せ」
「私も、荷物みたいに受け渡さないでくれる?」
レムが言った。
ヨルは差し出した手を引っ込めなかった。
ましろが、宝石へ顔を向ける。
「レム、ヨルと見ていてもらえる?」
「ええ。あなたは澄に今のことを伝えてきなさい。椅子を運んだことも」
「分かった」
ましろは杖を渡した。
ヨルが受け取り、元の卓へ戻った。
自分が座っていた椅子へ腰を下ろす。
宝石をランタンへ向けた。
レムが見える位置を確かめてから、ましろは廊下へ向かった。
ねむは、手の中のコップを卓へ戻した。
窓から、肩へ陽が当たっている。
しばらくして、廊下へ向かったましろが戻ってきた。
「院長先生にも伝えたよ。何か変わったら、また知らせてって」
ねむがうなずいた。
ましろが空いた椅子を引く。
ねむは窓際の卓へ肘を載せた。
元の卓は、顔を向ければ見えるところにある。
向こうでレムが話し、ヨルが短く返した。
その子が膝のノートを抱え直す。
ねむはそちらへ身体を寄せずに、顔だけ向けた。
「ここなら、広いね」
その子は隣との間を見た。
うなずいて、閉じた表紙へ両手を置いた。
ねむは背もたれへ肩を戻した。
今度は、腰をずらさずに済んだ。




