第67話 火を置いていく
ねむが最後のひとかけらを口へ入れると、ましろは空いた皿へ手を伸ばした。
肘が触れた。
「近い」
「お皿を取ったら離れるよ」
「さっきも聞いた」
ましろは自分の椅子を見た。
引くには、後ろに置いた椅子もずらさなければならない。ねむを挟んで座った時には、そこまで考えていなかった。
向かいでヨルが腰を上げる。
「先に皿」
ましろが渡すと、ヨルは卓の端へ重ねた。
ねむも立とうとして、膝を止めた。
卓の下に、金色が見える。
夢見のランタンの火は、細い先をねむの側へ寄せていた。
ましろは椅子から腰を浮かせたまま、そこを見る。
「ここでも……」
ねむは足を引いた。
「うん」
ヨルが皿から手を離す。
「どうした」
「さっき、廊下で持ち上げた時も、私の方へ傾いた。右でも左でも」
ねむは膝へ手を置いた。
「床に置いたら、いったんまっすぐになったんだけど」
ヨルは卓へ片手をつき、屈んだ。
ランタンには触れない。
見てから、ねむへ顔を戻した。
「レムを呼ぶか」
ねむはうなずいた。
ましろがヨルを見る。
「院長先生から杖を受け取ってきてもらえる?」
「分かった」
ヨルは自分の黒い鐘の杖を壁際に残し、廊下へ向かった。
名札の持ち主は、ねむの隣に座っていた。
膝の上で、仮に留めた袖口をつまんでいる。
その手が、ねむの手のそばまで来た。
ねむが顔を向けると、指はそこで止まった。
「まだ、ここにいる」
ねむは言った。
その子はうなずいた。
ましろは半分浮かせていた腰を椅子へ戻した。
悠太の膝には、閉じたノートがある。
その子がノートへ両手を差し出すと、悠太は持ち上げた。
「返す?」
うなずく。
悠太は表紙を押さえたまま渡した。
その子の両腕に収まってから、手を離す。
「ねむ姉ちゃん、水いる?」
悠太が尋ねた。
ねむは自分のコップを見た。
「半分」
悠太は注ぎかけて止まる。
「残ってるのも入れて?」
「入れて」
水差しが傾いた。
ねむは、増えていく水を見ていた。
*
戻ってきたヨルは、ましろの杖を持っていた。
「澄はボタンのところに残る。何かあれば呼ぶって」
宝石の奥からレムが顔を向ける。
「ランタンは?」
「下」
ヨルが卓の端へ回った。
ねむは足を寄せたが、ランタンの取っ手には手を伸ばさなかった。
ヨルが杖を下げ、宝石を硝子へ向ける。
「近づけすぎないで。そこから見えるわ」
ヨルの手が止まった。
レムはしばらく黙っていた。
ましろは、その間にねむの皿を取った。
自分の皿を重ね、空いたコップにも手を伸ばす。
「ましろ。そこまで」
下から声がした。
「まだ持てるよ」
「持てるかどうかではなく、足元を見て運べるかどうかを聞いているの」
ましろは皿の向こうをのぞいた。
ヨルが片手を出す。
「半分」
「ヨル、杖持ってるでしょ」
「だから半分」
ましろが上の皿を渡すと、ヨルはそれを卓へ戻した。
「一度に運ぶな」
「二回かかる」
「割ればもっとかかるわね」
レムが続けた。
ましろは残った皿を胸から離し、床を見る。
「……じゃあ、これだけ置いてくる」
「ええ。それから、あなたには――」
「戻ってからね」
ましろは食器を返すところまで歩いた。
背後でレムの声がした。
「途中で行くことはないでしょう」
「置いてこいって言っただろ」
ヨルが答える。
ましろは皿を下ろした。
笑いそうになったので、重なりを直す方へ顔を向けた。
*
ましろが戻った時、ねむは同じ椅子にいた。
水は半分より減っている。
レムが顔を上げた。
「置いてから、どのくらい見ていたの?」
「ずっとは見てない」
ねむが答える。
「パン食べてた」
「それなら、置いた瞬間から同じだったかは分からないのね」
「うん」
レムは、その返事だけを受け取った。
ましろは隣へ座らず、椅子の背へ手を置いた。
ねむの足が、床の上を動く。
ましろはランタンへ目を落とした。
「まだ立ってないよ」
ねむに言われ、顔を上げる。
「ごめん」
ねむはコップの取っ手から指を抜いた。
「私が動いたら、火も動くのかな」
ましろは答えられなかった。
空いた椅子がある。
そこへ移れば、今とは立つ位置も見る向きも変わる。
ねむは、その椅子を見ていた。
けれど、立たなかった。
ヨルが杖を持ち直す。
「立ちたいのか、調べたいのか」
ねむはヨルを見た。
「……立ちたい」
「なら立て」
ましろは椅子から手を離した。
その子がノートを抱え直す。
自分の椅子を後ろへ引き、ねむが足を出せるところを空けた。
ねむの手が、座面の縁へ掛かる。
「動いたところ、みんなで見ないで」
レムが答えた。
「分かったわ。火はここで見る。あなたは、立ちたいように立ちなさい」
ヨルは杖の宝石を低い位置に保った。
ましろは卓に残ったコップを寄せた。
椅子の脚が床を擦る。
ねむが立った。
膝を伸ばし、片手を腰へ当てる。
「痛い」
ましろが顔を向けた。
「腰?」
「椅子の端に座りすぎた」
ましろは、寄せすぎた三つの椅子を見た。
「……ごめん」
「次から、半分空けて」
その子も自分の椅子を見た。
背もたれを掴み、もう少し下げる。
ねむはその手に顔を向けた。
「今はもう平気」
その子の手が止まった。
ねむは机に手をつき、もう一度腰を伸ばした。
*
「外に行きたい」
ねむが言った。
ましろは窓を見た。
中庭の地面には、昨日の線がまだ残っていた。
靴で踏まれたところだけ、途切れている。
「中庭?」
「うん。ちょっと歩く」
ねむは卓の下へ顔を向けた。
ランタンを取ろうとして、腕が途中で止まる。
手を戻した。
「これは、置いていきたい」
レムは、火からねむへ目を移した。
「ここで見ていてもらっていい?」
「ええ」
「蓋は開けないで。向きを変えて調べるのも、今はやめて」
「触らずに見るわ。何かあれば知らせる」
ねむはすぐには歩きださなかった。
コップの脇にあったパンくずを、指で一つ集める。
「まだ私の方を向いてる、とか」
レムが待った。
「それだけで、何度も呼ばないでほしい」
ヨルが空いている椅子を自分へ寄せた。
「危ない時は呼ぶぞ」
「うん。それは呼んで」
ねむの指がパンくずから離れた。
「中庭にいる。場所を変えるなら言いに来る」
ましろは悠太の方を見た。
「悠太くん、院長先生に伝えてきてくれる? 私も一緒に中庭へ行くって。ランタンとレムは、ここでヨルと待ってる」
「うん」
悠太が椅子から下りた。
走りかけ、卓の脚の手前で歩き直す。
ヨルは座った。
杖の柄を膝へ載せ、宝石を卓の下へ向ける。
レムの顔が下がった。
「もう少し上」
上げる。
「そこ。手元は安定させて」
「注文が多い」
「目がある場所を床へ向けられたら、床しか見えないでしょう」
ヨルは宝石とランタンを見比べた。
自分の肘を膝で支える。
「これでいいか」
「ええ」
レムが火へ目を戻した。
「あなたにも、言っておくことがあるわ」
「一つにしろ」
「まだ数は言っていないでしょう」
「長そうだった」
「その判断の速さを、杖の持ち方に生かしてほしかったわね」
ヨルは肘を動かさなかった。
「今、やってる」
レムは口を閉じた。
ねむが鼻から息を漏らす。
ましろも顔を伏せたが、今度は皿を持っていなかった。
*
悠太が戻ってくるまで、ねむは入口のそばで待った。
名札の持ち主は椅子から立ち、ノートを胸へ抱えた。
ねむのところへ来る。
「一緒に行く?」
うなずいた。
ねむはその子の腕へ目を落とした。
「そのまま持っていくんだね」
その子は閉じたノートを抱え直した。
表紙は開かなかった。
「院長先生、分かったって」
悠太が戻ってきた。
「ぼくも行く」
ましろが顔を見ると、悠太は付け足した。
「それも言ってきた」
「準備がいいね」
「うん」
「走らないでね」
「さっき歩いたよ」
「これからのこと」
悠太は入口へ向き直った。
靴をそろえ、ねむたちが来るまで待った。
ねむがその横へ並ぶ。
ましろも続いた。
廊下の角へ向かう道は通らず、中庭へ出る。
靴の下で、細かな砂が鳴った。
ねむは数歩進んだところで立ち止まった。
ましろも止まる。
ねむの顔が、食堂へ戻りかけた。
窓の向こうは、光を返して中が見えにくい。
ましろは、ランタンの方を確かめに戻ろうかと思った。
言う前に、ねむがこちらを見た。
「向こうのベンチまで行く」
「うん」
ねむは歩きだした。
その子も横に続く。
悠太は地面の線を踏まないように進んでいた。
途中で線が二つに分かれている。
両方を避けようとして、足が止まった。
「道、狭いね」
ねむが言う。
「川だよ」
「じゃあ、入れない」
悠太は細いところを探し、片足ずつ向こうへ移した。
ねむもそこで足を上げた。
名札の持ち主は、ノートを片腕に寄せ、もう片方の手で服の裾を持つ。
線を越えた。
ましろは最後に渡った。
*
食堂では、ヨルが杖を持ったまま座っていた。
卓の下に、ねむの椅子の脚がある。
座面は空いている。
その脇のランタンを、ヨルは見た。
金色の火は、ねむが座っていた側へ傾いていた。
ヨルが窓へ目を向ける。
「外へ行った」
窓の向こうに、ねむの姿がある。火が向いているのは、そちらではなかった。
「ええ」
レムも、空いた椅子を見た。
「今は、誰も座っていない方ね」
「呼ぶか」
レムは火を見たまま、首を横に振った。
「向きだけの報告では、呼ばない」
ヨルは窓から目を戻した。
膝の上で杖の柄を押さえる。
「持ち方、変える」
ヨルが言った。
「先に言うなんて、進歩したわね」
「褒めるのか、止めるのか」
ヨルは膝に載せた柄を持ち直した。
レムがランタンへ顔を向ける。
「そこなら見えるわ」
外で、悠太の声がした。
「ねむ姉ちゃん、そこも川」
レムが口を閉じる。
ヨルは窓を見た。
ねむが、宙へ上げた靴を戻している。
次の一歩は、さっきより大きかった。




