第66話 ねむは一人
朝食のパンを配り終えるまでに、ましろは三回ねむを見た。
四回目で、ねむがパンを持ったまま顔を上げた。
「いる」
「まだ何も聞いてないよ」
「今日それ、三回目」
ましろは指を折りかけた。
「数えなくていい」
「でも三回かどうか」
「四回になる」
ましろは手を下ろした。
向かいで、悠太が牛乳を飲んでいる。
「ぼくは四回見たよ」
ねむがそちらを向く。
「何を」
「ましろお姉ちゃんが、ねむ姉ちゃんを見るところ」
「数えてたの?」
「うん」
「暇だね」
悠太は少し考えた。
「パン食べてた」
「忙しかった」
「うん」
ねむは返す言葉をなくしたらしい。
パンを一口かじった。
隣では、名札の持ち主がコップを両手で持っている。
昨日、自分で寄せた椅子だった。
ねむの椅子との間は、手のひら一つ分もない。
ましろは二人を見る。
ねむがパンを噛む。
その子が牛乳を飲む。
どちらもいる。
「ねむ、大丈夫?」
ねむが目を閉じた。
その子が先に動いた。
コップを置く。
人差し指を一本立てる。
その指で、ましろを示した。
「……私?」
うなずく。
もう一度、一本。
ましろは首を傾げた。
「一回?」
うなずいた。
ねむが目を開ける。
「採用」
「何が?」
その子は、もう一度ましろを指した。
次に一本。
「大丈夫って聞くの、一回まで?」
うなずく。
ましろは少し考えた。
「朝に一回?」
その子は止まった。
ねむを見る。
ねむも、その子を見る。
「そこまで決めてないと思う」
ましろは口を閉じた。
「……はい」
悠太がパンを持ったまま言う。
「もう使ったね」
「悠太くん」
「一回」
「分かってる」
ねむが牛乳へ手を伸ばす。
「厚い監視」
「心配なんだよ」
「知ってる」
短く返して、ねむは飲んだ。
食堂の入口からヨルが入ってきた。
黒い鐘の杖を壁際へ置き、空いている席を探す。
昨日運んだ椅子は、まだねむの向かいにあった。
座る。
ましろがねむを見る。
ヨルもねむを見る。
「本人いるだろ」
「いるよ」
「なら見れば分かる」
ねむがパンを置いた。
「今のところ」
ヨルの眉が寄る。
「増えるな」
ねむが瞬きをする。
悠太が笑った。
ましろも、少し遅れて吹き出した。
ヨルだけが笑っていない。
「何」
「いや」
ましろは口元を押さえた。
「増えるなって言われても」
「二人いたら面倒だろ」
ねむが答える。
「私もそう思う」
「そこは同意するんだ」
その子の肩が一度だけ揺れた。
ましろはそちらを見る。
その子はコップへ顔を寄せた。
口元は見えなかった。
「今、笑った?」
その子は顔を上げた。
ましろを見る。
人差し指を一本立てた。
ねむが言う。
「もう使った」
「これも?」
その子がうなずいた。
「厳しい」
ねむはパンを取った。
*
朝食の片づけが始まるころ、澄が廊下から戻ってきた。
ましろの杖を持っている。
「今朝は、声も音もありませんでした」
それだけ伝えた。
茶色いボタンは、昨日と同じ皿の中にある。
場所も変えていない。
名札の持ち主は、澄の話を聞いてから自分の袖口へ触れた。
仮に留めた糸は残っている。
それから、皿のある廊下を見た。
「見に行く?」
ましろが聞きかけた。
その子は、ましろを見る。
一本の指は立てなかった。
代わりに、ねむを見た。
ねむは自分を指す。
「私?」
うなずく。
「一緒に?」
その子は少し待ってから、もう一度うなずいた。
ましろの身体が動く。
ねむが見る。
「ましろも?」
「え」
「行きたい顔」
「顔で決めないでよ」
「さっきから顔しか見てない」
言われて、ましろは止まった。
その子を見る。
「私も一緒に行っていい?」
その子はうなずいた。
「よかった」
「聞けば済んだ」
ねむが立ち上がる。
ましろも立った。
ヨルは皿を重ねていた。
「そっちは?」
ねむが聞く。
「片づけろ」
「聞いただけ」
「じゃあ聞くな」
「朝から元気」
「おまえよりは」
「それはだいたい全員」
澄が空いた皿を受け取りながら、ほんの少し笑った。
「廊下へ行くなら、私も一緒に行きます」
悠太が顔を上げる。
「ぼくは?」
名札の持ち主は、閉じたノートを見た。
今朝は卓の上にある。
悠太を見る。
ノートを指す。
「ここで持ってる?」
うなずく。
悠太は両手を伸ばした。
その子がノートを渡す。
「開かない?」
うなずいた。
「分かった」
悠太は胸へ抱えた。
ヨルが皿を持って立つ。
「私も残る」
「聞いてない」
ねむが言った。
「言っただけ」
*
廊下の小卓に、茶色いボタンがあった。
澄はましろへ杖を渡した。
受け取った重さが手に戻る。
宝石の奥で、レムが目を開けた。
「朝から賑やかね」
「聞こえてた?」
「全部ではないわ」
ましろは少し安心した。
「何、その顔」
「別に」
「私の知らないところで何か失点した?」
「採点してないでしょ、最近」
「必要なら再開するわよ」
「必要ない」
ねむが言った。
「満場一致ね」
レムは不満そうだった。
名札の持ち主が、小卓へ近づく。
ボタンを見る。
触れない。
昨日と同じ皿。
短い糸。
その子は袖口を持ち上げ、仮留めのところを見る。
それから皿へ目を戻した。
ねむは白い札の掛かった扉を見なかった。
小卓の横に置かれている椅子を見る。
「昨日の椅子」
「座りますか」
澄が聞く。
「今日はまだ眠くない」
「珍しい」
ましろが言う。
ねむが見る。
「一回に入れる?」
「何の?」
「大丈夫」
「それとは違うよ」
その子が、ましろを見る。
「違うよね?」
うなずかない。
首も振らない。
ねむの口元が少し動いた。
「審議中」
「そんな」
ましろは杖を持ち直した。
その時、ねむの視線が宝石へ移った。
笑いが消えたわけではなかった。
ただ、その先に別のものを見つけた顔だった。
「レム」
「なに」
「前にも、向こうに私がいた」
ましろがねむを見る。
白い札ではなく、ねむを。
ねむは眉を寄せた。
「……違う」
自分で言い直す。
「いた、は言いすぎた」
レムは急かさない。
ねむが続けた。
「夢で、影が私より先を歩いてた。扉の前まで」
ましろは、ランタンの内側に残った指の跡を思い出した。
コン、と鳴った音。
「影のねむ?」
「そう呼んだことはある」
ねむは自分の腕を擦った。
「でも、私だったとは決めてない」
ねむは腕から手を離した。
「息が聞こえたのは、扉の向こう。私と同じ速さだった。そっちは姿を見てない」
「昨日の声と同じものだとも決められないわ」
レムが言った。
「うん」
ねむはうなずく。
「だから、分けた」
澄が尋ねる。
「ランタンを持ってきますか」
ねむはすぐには答えなかった。
名札の持ち主を見る。
その子は小卓の皿から顔を上げている。
ねむは扉を見た。
それから、食堂の方を見る。
「ここで見るだけなら」
澄はその子へも尋ねた。
「この廊下へランタンを持ってきてもいいですか。部屋には入りません」
その子は扉を見た。
白い札。
小卓。
ねむ。
順番に見て、うなずいた。
*
夢見のランタンは、ねむが自室から持ってきた。
青黒い硝子の奥では、金色の火が燃え続けていた。
食堂の前を通ると、悠太が入口からついてきかけた。
「悠太」
ねむが呼ぶ。
「なに?」
「留守番」
悠太は止まった。
「また?」
「今日の重要任務」
「何するの?」
ねむは考えた。
「ノートを開かない」
悠太は胸のノートを見る。
「それ、さっきからしてる」
「優秀」
悠太は少し嬉しそうな顔をした。
ましろが笑う。
「褒め方それでいいの?」
「事実」
悠太は食堂へ戻った。
途中で一度振り返る。
ノートは閉じたままだった。
*
ねむは、白い札の扉から少し離れた床へランタンを置いた。
名札の持ち主が距離を見る。
近づけるようには示さない。
ねむも動かさなかった。
「ここでいい?」
うなずく。
レムが言う。
「ここから扉へは近づけないで。何か起きたら、まず離れるのよ」
ねむはランタンの取っ手を持ったまま聞いた。
「分かった」
ねむは取っ手から指を離した。
金色の火は、硝子の中で揺れていた。
誰も喋らなかった。
火の先が、右へ寄る。
戻る。
左へ。
また戻る。
白い札は動かない。
皿のボタンも動かない。
音もしない。
ましろは、ねむの口を見なかった。
代わりに、ランタンを見ていた。
長く待った。
何も起きなかった。
名札の持ち主が、ねむを見る。
ねむもその子を見る。
「何もない」
その子がうなずく。
ましろは息を吐いた。
「よかった、でいいのかな」
「分からない」
ねむが言った。
「でも、何もないのも一個」
「何の一個?」
「今日の分」
レムが宝石の中で腕を組んだ。
「観測結果と言いたいなら、条件を書いておきなさい」
「今、紙ない」
「そういうところよ」
「何点?」
ましろが聞いた。
レムが目を細める。
「再開してほしいの?」
「やっぱりいいです」
ねむがランタンを持ち上げた。
「戻ろう」
その子がうなずく。
ねむは取っ手を右手に持った。
一歩。
止まる。
ましろも止まった。
「どうしたの?」
ねむは答えず、ランタンを見た。
火が傾いている。
歩みを止めても、先が片側へ寄っていた。
白い札の扉へではない。
取っ手を持つ、ねむの身体の方へ。
ねむは右手を少し外へ離した。
火は、硝子の中で斜めに立つ。
ねむへ向いたまま。
「動かさないで」
レムが言った。
ねむが止まる。
澄も近づかない。
ましろは、自分の呼吸が浅くなるのを感じた。
「風?」
「可能性はあるわ」
レムが答える。
「持ち方も。傾きも。硝子の温度も」
ねむはランタンを床へ戻した。
火が立つ。
まっすぐ。
しばらく待つ。
何も起きない。
ねむは左手で取っ手を持った。
持ち上げる。
火が揺れた。
一度、扉の方へ傾く。
戻る。
それから。
ねむの方へ寄った。
誰も言葉を出さなかった。
ねむが自分の胸元を見る。
「……私?」
ましろの口が先に動いた。
「ねむの中に――」
ねむが片手を上げた。
ましろは止まる。
ねむは、ましろを見た。
「まだ入れないで」
「うん」
ましろはそれ以上言わなかった。
何が。
どこに。
いるのか。
それすら、まだ分からない。
名札の持ち主がねむへ近づいた。
腕には触れない。
ランタンにも触れない。
ただ、ねむの隣へ立った。
ねむは横を見る。
「近いよ」
その子はうなずいた。
昨日と同じだった。
ねむは、今度は何も言わなかった。
澄は小卓のそばに残り、ましろから杖を受け取った。
宝石を皿の方へ向ける。
ねむはランタンを持ち直した。
*
食堂へ戻ると、悠太がすぐにノートを持ち上げた。
「開けてない」
「知ってる」
ねむが答える。
「見てたの?」
「見てない」
悠太が首を傾げる。
「じゃあ、なんで?」
ねむはランタンを床へ置き、椅子を引いた。
「信用が厚い」
ましろが吹き出した。
「それ便利に使いすぎじゃない?」
「育った」
「信用って育つんだ」
「たぶん」
「ねむ姉ちゃんの『たぶん』は?」
悠太が聞く。
ましろが答える。
「信用が薄い」
ねむがましろを見る。
「返された」
名札の持ち主が、ねむの隣の椅子へ座った。
ましろも反対側の椅子を引く。
ねむが左右を見る。
「狭い」
「嫌?」
ましろが聞く。
その子もねむを見る。
ねむは卓のパン籠へ手を伸ばした。
届く。
「パンが取れるから、まだ平気」
悠太が籠をもっと近くへ寄せた。
「これなら?」
ねむの肘が、ましろの腕に当たった。
「もっと狭い」
「でもパン近いよ」
ねむは籠を見る。
少し考える。
「それはいい」
ヨルが向かいからパンを一つ取った。
「食べるなら文句言うな」
「文句は別」
「面倒」
「昨日より解説が短い」
「食え」
ねむはパンをちぎった。
その子の肩が、また一度だけ揺れた。
今度はましろも聞かなかった。
卓の下。
ねむの足元に置かれた夢見のランタンでは、小さな火が燃えていた。
椅子を動かしてもいないのに。
火の先だけが、ねむの方へ寄っていた。




