第65話 隣の椅子
最初に入ってきたトウマが、靴の先で椅子の脚を押した。
地面で遊んでいた時の土が、食堂の床へ落ちる。
ねむはその後ろで立ち止まった。
「靴は脱がなくていいよ」
片足を持ち上げかけたトウマが、下ろした。
ヨルが入口の脇へ寄る。最後の子が通り過ぎるまで、黒い鐘の杖を身体の横に立てていた。
ましろは、引いておいた椅子を一つ押し出す。
「澄、まだ廊下?」
「交代する」
ヨルは杖を持ち直した。
「ねむ。こっちは頼む」
「座らせる方?」
「今、立ってるやつらを」
ねむが食堂を見渡す。
「椅子より多くはない」
「なら足りる」
ヨルは廊下へ向かった。
ましろもついていく。角を曲がる前に振り返ると、ねむは卓の端に手を掛け、椅子をもう一つ引いていた。
*
澄は、ヨルを見ると腰を上げた。
「話が終わるまで、お願いできますか」
ヨルは小卓の脇の椅子へ座った。自分の杖を壁へ立てかけ、澄からましろの杖を受け取る。
宝石が皿の方を向いた。
「声や音がしても、扉には触らず、私を呼んでください」
「分かった」
レムが、宝石の中からヨルを見た。
「眠るには落ち着かない椅子でしょうけれど」
「寝に来てない」
「それは助かるわ」
ヨルは椅子の脚を少し引き、両足を床へ置いた。
茶色いボタンは、皿の中に残っている。
澄はましろへうなずき、一緒に食堂へ戻った。
*
ねむの隣の椅子に、ユリが膝を抱えて座っていた。
悠太は窓側へ移っている。その子はノートを膝へ載せ、表紙の上に紙を重ねたままだった。
澄が卓の端へ立つと、枝で地面に描いていたものの話が途切れた。
「来てくれて、ありがとうございます」
ましろは入口に近い椅子へ座る。
「今日、あの部屋の扉の方から、ねむさんに似た声が聞こえました」
ユリが、ねむを見た。
ねむは手を卓の下へ下ろした。
「その時、ねむさんは廊下で、ましろさんと一緒にいました。誰が声を出したのかは、まだ分かっていません」
「部屋に、誰かいたの?」
卓の向こうで、カナが尋ねた。
「中へ入って確かめてはいません」
澄は答えた。
「だから、声だけを聞いて、一人であちらへ行かないでください。私か、ましろさんたちに知らせてください」
「呼ばれたら?」
リオが尋ねる。
「呼ばれても、です。今そばにいる人と、一緒に確かめましょう」
ユリが、足を床へ下ろした。
「ねむの声だったら、ねむに聞けばいい?」
ねむが顔を上げる。
答える前に、澄が言った。
「ねむさんが遠くにいる時は、探しに行かなくていいですよ。そばにいる人へ伝えてください」
ユリの靴が、ねむの椅子の脚に触れた。
すぐに引っ込む。
ましろには、その動きが見えた。
ねむも、その靴へ目を落とした。
「私、こっちで喋ってたら」
言いかけて、ねむは卓へ目を落とした。
「……ごめん。今の、やめる」
澄は続きを促さなかった。
カナが、ノートを持っているその子を見た。
「あそこ、その子の部屋だよね」
その子の手が、表紙を押さえた。
ほかの顔も、そちらへ向く。
椅子の脚が一つ、床を擦った。
ましろは立ち上がりかけた。膝が卓へ当たり、水差しが揺れる。
「わたしも、あそこにいた」
思ったより大きな声になった。
みんながましろを見る。
ましろは卓へ手をつき、水差しが倒れないのを確かめた。
「声を聞いたの、わたしも」
そこから先が、うまく出なかった。
何を言えば、表紙を押さえているその子の指が緩むのか、分からない。
澄が水差しを卓の真ん中へ寄せた。
「あの扉の方から聞こえた声を、その子が出したと決めることはできません」
ゆっくり言う。
「怖かったら、私に話してください。誰かを問い詰めて、答えを出そうとしなくていいです」
カナは、膝の上で両手を握った。
「聞いただけ」
「ええ。声がしたらどうすればいいか、知っておいてほしかったんです」
澄は、ノートを持っているその子にも、ねむにも答えを求めなかった。
ましろは椅子へ戻る。
膝の当たったところが、少し痛かった。
ユリは、今度は椅子ごと少しずれた。
床の土を、靴底で擦っている。
ねむはその空いたところを一度見た。
卓の下で、指を組み直した。
*
澄の話が終わっても、誰もすぐには遊びの続きを話さなかった。
窓際のトウマが、外の枝を取りに行っていいかと尋ねた。澄は一緒に行く子がいるかを聞き、二人が手を上げた。
ユリも立った。
椅子が空く。
ねむは背もたれへ身体を預けた。
「椅子、余った」
ましろは、何も返せなかった。
その子がノートを卓へ載せた。
紙を表紙の下へ差し込み、悠太の方へ押す。
悠太が表紙へ手を置き、その子を見る。
「ここで、持ってる?」
うなずいた。
その子は立ち上がった。
ねむの隣の椅子へ手を掛ける。少し持ち上げたが、後ろの脚が床に残り、椅子は斜めになった。
ましろが立つ。
その前に、ねむが背もたれを掴んだ。
「こっち?」
その子は、ねむのすぐ横の床を指した。
ねむが椅子を寄せる。
二つの座面が並んだ。
その子はそこへ座った。仮に留めた袖口が、膝へ置いた手の上で止まる。
ねむは、その子の顔を見た。
「近いよ」
その子はうなずいた。
動かなかった。
ねむの手が、卓の下から出てきた。
しばらく二人の椅子の間に置かれ、それから、自分の膝へ下りる。
澄は二人を見ていたが、何も言わずに、床へ落ちた土を布で集めた。
ましろは自分のコップを持ち上げた。
水はまだ、底に少し残っていた。
*
枝を取りに行った子たちが戻ると、澄はヨルと交代するために廊下へ向かった。
ましろは食堂に残り、入口の近くへ座り直した。
悠太はノートを胸へ引き寄せている。開こうとはしなかった。
ねむは、その子と並んだままだった。
カナが二人の方を見ようとして、途中で窓へ顔を向ける。
誰も、さっきの問いを繰り返さない。
ヨルが戻ってきた時、ねむが顔を上げた。
ましろの杖は持っていない。廊下で澄へ返したのだと、ヨルがましろに伝えた。
自分の杖を壁へ立てかけると、ヨルは卓の間を見た。
ねむの隣にあった椅子は、もう使われている。
「座るところ、なくなった」
ねむが言った。
ヨルは窓側の椅子を指す。
「あるだろ」
「遠い」
ヨルはそちらへ歩いた。
片手で背もたれを持ち、床から持ち上げる。
ねむの向かいへ置くと、椅子の脚から乾いた土が落ちた。
「土も連れてきた」
「あとで掃く」
ヨルが座る。
ましろは、手元のコップへ目を戻した。
ねむが何か言い、ヨルが短く返した。今度は、窓越しではなく、同じ卓の声だった。
ねむの椅子は動かなかった。
その隣の椅子も。




