第64話 文句は歩きながら
ねむがコップを置いた。
ましろは顔を上げた。
ねむが息を吸うと、また見た。
「……見すぎ」
「ごめん」
ましろは卓へ目を落とした。
ねむの口が動くたび、確かめようとしていた。さっきは閉じているところを見ていたから、言っていないと伝えられた。
でも、今は何か言いかけるたびに、ましろが待ち構えている。
その子は、ねむの袖の横に置いていた手を自分の方へ戻した。ノートの表紙に重なった紙を押さえる。
ねむは、空になったコップを両手で包んだままだった。
食堂の入口で、毛布が揺れた。
抱えているヨルの顔は、上半分しか見えなかった。
「ヨル。来てくれたんだ」
ましろが声を掛けると、毛布の向こうで目が合った。
「どこへ置く」
ましろが立ち、敷物の横を指した。
「そこ。枕には重ねないで」
ヨルは壁へ黒い鐘の杖を立てかけ、毛布を下ろした。二枚のうち、上の一枚がほどけて椅子の脚へ引っ掛かる。
「澄に頼まれた。今夜の分も出しておけって」
持ち上げ直すと、今度は反対側が床へついた。
ねむがそれを見た。
「角、四つあるよ」
「知ってる」
「二つしか連れてこられてない」
ヨルが振り向く。
「知ってるなら持て」
ねむはコップを置いた。
立ち上がって、垂れた端を拾う。二人が離れると、毛布が卓と敷物の間に広がった。
その子が椅子を引き、通れる場所を空けた。
「そっちを寄せろ」
「そっちって、そっち?」
「おまえの右」
「最初からそう言えばいい」
「動かせ」
ねむは右手を寄せた。ヨルが端を受け取り、重なった布を腕へ掛ける。
揃いかけた角が、また一つ落ちた。
「逃げた」
「離したんだろ」
悠太が鼻から短く息を漏らした。
ねむの口元も動いた。
そのあと、廊下の入口を見た。
ヨルが毛布を引きかけ、止める。
「ねむ」
返事はなかった。
ねむは入口を見たまま、唇を閉じた。
ヨルは毛布を腕で支え直した。引っ張らずに待っている。
少しして、ねむが顔を戻した。
「今のも、あっちから聞こえたら嫌だなって」
ましろは入口へ顔を向けかけた。
止めた。
「声のこと、聞いた?」
ねむがヨルに尋ねる。
「澄から、少し」
「私みたいだったって」
「聞いた」
ヨルは、自分が持っている端を一度持ち上げた。
「こっちは、どうする」
ねむが毛布を見る。
端を持ち直す。
二人はもう一度、角を合わせた。
今度は揃った。
*
毛布を置き終えると、ヨルは空いている盆を取った。
「澄に水を持っていく」
悠太がコップを一つ載せ、水差しを傾けた。
ねむはそれを見ていた。
「私も行く」
ましろが顔を上げる。
「レムに、聞きたいことがある」
その子の指が、紙の端から浮いた。
ねむはそちらを見る。
「部屋には入らない。澄のところまで」
その子はねむを見たまま、うなずいた。ノートは持ち上げず、悠太のいる卓に残る。
ましろも二人についていった。
ヨルは黒い鐘の杖を持ち、もう片方の手で盆を運んだ。歩くたびに水がコップの縁へ寄る。
ねむが盆へ手を添えた。
「毛布よりこぼれる」
「分かってる」
二人の歩幅が揃った。
*
澄は小卓の脇に座っていた。
ましろの杖を片手で支え、宝石を皿の方へ向けている。
茶色いボタンは皿の中にあった。
ヨルが近づくと、澄は顔を上げた。
「ありがとうございます。毛布も、助かりました」
差し出されたコップを受け取り、一口飲む。
その間、ねむは宝石を見ていた。
レムが目を向ける。
「何か聞きたい顔ね」
ねむは自分の喉へ触れた。
「喋らない方がいい?」
ましろの手が、服の脇で止まった。
「また使われるなら」
レムはすぐには答えなかった。
ねむの顔を見て、それから言った。
「黙れば防げるとは、まだ言えないわ。何が、どうやってあの声を出したのか、分かっていないもの」
ねむの手が喉から下りた。
「そっか」
「話したくない時は、休んでいい」
レムが続けた。
「ただ、あなたを黙らせるために、ここで見張っているわけではないわ」
ねむは宝石を見た。
しばらくして、口の端を上げた。
「文句は、いつもどおり?」
「内容を吟味してからどうぞ。量には困っていないから」
「減らせってことだ」
ヨルが言う。
ねむはそちらを見た。
「解説が増えた」
「二人分になったわね」
レムが言った。
澄がコップを口元から離した。笑った拍子に飲み込みそこね、小さく咳をする。
ヨルが盆を差し出す。
「飲んでから笑え」
「はい。そうします」
ねむも息を漏らした。
すぐに扉の方へ目が動いたが、今度は、そこで顔を止めなかった。
ましろはねむの隣に立ったまま、澄がコップを盆へ戻すのを見た。
*
「中庭にいる子たちにも、声のことを伝えます」
澄は言った。
「こちらへ呼んでもらえますか。食堂で待っていてください、と。私も見張りの交代を頼んでから、話しに行きます」
ヨルがうなずく。
「連れてくる」
ねむは、廊下の角へ目を向けた。
「私も」
ヨルの足が止まる。
ねむはコップの載った盆を受け取った。
「先に、これ返す」
食堂へ戻ると、その子が二人を見た。
悠太の隣に座ったまま、顔が上がっている。
ねむは盆を卓へ置いた。
「中庭の子たちを呼んでくる」
その子は入口へ目をやった。
「ヨルと一緒に」
ねむが付け足すと、その子はヨルを見た。それからねむへ顔を戻し、うなずいた。
ましろは卓の脇へ立った。
「わたしは、ここにいる」
言ってから、ねむを見る。
ねむはましろを見返した。頬に力が入ったが、やがて、短くうなずいた。
ヨルが入口で待っている。
「行くぞ」
「足、速いから」
「まだ歩いてない」
「先に言った」
ヨルは入口を抜け、そこでねむが並ぶのを待った。
*
ましろは食堂の窓から中庭を見た。
子どもたちが、地面に枝で線を引いている。
ヨルはその手前で止まった。ねむが横へ並ぶ。
口を開きかけ、閉じた。
ヨルは代わりに呼ばなかった。
黒い鐘の杖を持ったまま、ねむの横に立っている。
ねむが一歩進んだ。
枝を持っている子の顔が上がる。
「澄が、食堂で話すって」
ましろのところにも、その声が届いた。
子どもが何か聞き返した。
ねむが答える。
遠くて、今度の言葉までは聞こえなかった。
ヨルが後ろの子にも手で来るように示した。枝が地面へ置かれ、何人かが立ち上がる。
ねむは最後の一人が靴を履き直すのを待った。
歩きだしたヨルの袖を、指先でつつく。
ヨルが振り返った。
ねむが何か言い、ヨルの眉が寄る。
それでも、歩く速さは少し落ちた。
ましろの隣で、その子が窓の縁へ手を掛けた。
仮に留めた袖口が、手首のところに収まっている。
ましろは、ねむの口元を追うのをやめた。
窓から離れ、戻ってくる子どもたちの分の椅子を、卓から引いた。
二人は、子どもたちを連れて戻ってきた。




