第63話 ここにいるね
ましろは、椅子から立つたびに片手を空けていた。
水差しを右手で持つ。
左手は、脇へ下がる。
そこに杖はなかった。
「また探した」
ねむが言った。
ましろは自分の手を見た。
「分かってるんだけど」
水を注いで、水差しを置く。空いた手を、今度は椅子の背へ載せた。
その子は両手でコップを持っている。仮に留めた袖口から、指が出ていた。閉じたノートと「なくさないで」の紙は、卓の乾いたところに重なっていた。
ねむは廊下の方を見た。
「私、少し座ってこようか」
「ボタンのところ?」
「うん。レムが見てたことを全部、代われるわけじゃないけど」
その子がコップを下ろした。
ねむは、そちらへ顔を向ける。
「場所は変えない。私は横に座る」
その子はねむの顔を見てから、ましろの空いた手を見た。
澄が裁縫箱を片づけて戻ってきたので、ましろは杖を持って戻りたいと伝えた。
「レムにも聞いてみましょう。私も、子どもたちへの話を済ませたら行きます」
悠太は卓に残った。その子がノートを抱えるのを見て、上に載っていた紙が落ちないよう、端だけを押さえた。
その子は紙を取り、表紙に重ねたまま胸へ向けた。
*
皿の中に、茶色いボタンがあった。
短い糸がついている。
ましろは、小卓の脇に立てかけられた杖へ声を掛けた。
「持っていってもいい?」
宝石の奥で、レムが目を上げた。
「ええ。ねむがここにいる間なら」
ねむは、持ってきた椅子を小卓の脇へ置いた。
「動いたら呼ぶ。触らない」
「音がした時も呼んで。確かめに行かなくていいわ」
ねむが腰を下ろす。
レムの声を聞き終えてから、ましろは杖を持ち上げた。
いつもの重さが手に戻った。
握る場所を少し直す。
その子は、皿とねむが同じ視界に入るところに立っていた。
「ここでいい?」
ねむが椅子の座面を指すと、その子はうなずいた。
ましろは、杖の先を床へついた。
「ずっとじゃなくていいからね。澄が来たら、替わってもらって」
「分かってる」
ねむは膝に両手を置いた。
皿へ目を落とす。
その子も、一度ボタンを見た。
ましろが食堂の方へ身体を向けかけた時、ねむが顔を上げた。ましろも足を止め、ねむへ向き直る。
ねむの唇は閉じていた。
「ここにいるね」
声がした。
ねむを見ているましろの、背中の方からだった。
白い札の掛かった扉。
そちらへ振り向く。
扉は閉まっている。
今朝、食堂で聞いたのと、よく似ていた。
終わりの「ね」が、少しだけ低くなるところも。
「ましろ」
今度は、椅子の方から聞こえた。
振り返ると、ねむの手が膝の上で握られていた。
「今の、私、言ってない」
ましろはうなずこうとして、うまく首が動かなかった。
ねむの顔を見ていた。
唇が閉じていたことも、見ていた。
それなのに、声がした方へ振り向いた。
「見てた。ねむの口」
それだけ言うと、ねむの指が少し緩んだ。
その子はノートを抱えたまま、二人の間に立っている。
扉を見る。
ねむを見る。
もう一度、扉へ顔を向けかける。
「二人とも、ねむのいる方へ寄って」
レムの声は、ましろの手の中からした。
ましろは杖を持って椅子の横へ移った。その子もついてくる。
ねむは座ったまま、二人が近づくのを見ていた。
*
澄が廊下へ来た時、誰も扉に近づいていなかった。
ましろは、聞こえた言葉を伝えた。
「ねむみたいだった。でも、扉の方から」
澄はねむを見た。
「同じ言葉は、朝に言った」
ねむが答える。
「ここでは言ってない」
澄は短くうなずいた。
「声を聞きに、中へは入りません。今はここで、みんなの様子を確かめます」
ねむが手を開いた。膝の布に、指でつかんだしわが残っていた。
ましろは、白い札の方を見ないようにしていた。
見ないようにしていると、かえって背中が気になった。
杖を持つ手が痛い。
指を一本ずつ緩める。
「私の声、あんなふうに聞こえる?」
ねむが尋ねた。
ましろは顔を上げた。
ねむは扉を見ていなかった。ましろを見ている。
「似てた」
ましろは言った。
「ねむが、向こうにもいるみたいで」
そこまで言って、口を閉じた。
ねむは自分の喉へ手を当てた。
「私は、こっちにいた」
「うん」
ましろは今度は、すぐにうなずいた。
「見てた」
その子がノートを片腕へ寄せた。
空いた手をねむへ伸ばす。
袖に触れる。
ねむが目を落とすと、その子は袖をつまんだまま食堂の方を見た。
「戻る?」
うなずく。
ねむは、皿を見た。
ボタンは中にあった。
「私、まだ座ったばっかり」
その子の指は離れなかった。
引っ張りもしなかった。
澄が椅子の背へ手を置く。
「替わります。レムも、ここにいてもらえますか」
「ええ」
ましろは杖を澄へ渡した。澄が受け取ってから、指を離す。
ねむは立った。
立ち上がる途中で、その子の手を見た。
「ゆっくりでいい?」
その子はうなずいた。
ねむの足が前へ出ると、一緒に歩きだした。
ましろも、二人の横へ並んだ。
*
悠太が椅子を引いた。
「どうしたの」
ねむはすぐには答えなかった。
その子が袖を離すのを待ち、椅子に座った。両手を卓へ置く。
「私みたいな声がした」
悠太が廊下を見る。
「部屋の中?」
「扉の方。ましろにも聞こえた」
ましろはうなずいた。
悠太は立ちかけた腰を戻した。何か言おうとしたが、ねむの手を見て、卓の上のコップを取り上げた。
水を入れ、ねむの前へ置く。
ねむは受け取らなかった。
その子は隣の椅子へ座り、ノートと紙を自分の前へ置いた。
なくさないで
紙の文字が、ましろの方へ向いていた。
ねむも、その一行を見た。
「ボタン、見てくるって言ったのに」
その子は首を横に振った。
ねむのコップを、取っ手が手に近くなるように回す。
それから自分のコップを持った。
ねむはしばらく見ていたが、やがて取っ手へ指を掛けた。
一口飲む。
置いた時、小さく息が漏れた。
「水、冷たい」
「今、入れたから」
悠太が言う。
ねむはもう一口飲んだ。
ましろは椅子へ座った。左手を膝に置く。
また空いていた。
けれど今度は、その手を見ている間にも、ねむが隣でコップを持ち直す音が聞こえた。
廊下の角は、ここから見える。
皿も、白い札も、その先にある。
「ここにいるね」と聞こえたのも、そちらだった。
その子は紙をノートの上へ重ね直した。
ねむが飲み終えてコップを置くまで、空いた方の手は、ねむの袖のすぐ横にあった。




