第62話 なくさないで
翌朝、食堂の敷物はまだ片づけられていなかった。
枕と、畳んだ毛布がある。その子は脇に座り、閉じたノートを膝に載せていた。
ましろが空のコップを受け取ると、その子がもう片方の手を差し出した。
紙を持っている。
昨日の「みる」の下に、文字が増えていた。
もういちど
ましろは、食堂の入口を見た。それから、その子へ顔を戻した。
「寝台の下?」
うなずく。
「今度は、灯りを持っていこうか」
その子は紙を見たまま、少し待ってからうなずいた。
ましろは隣へしゃがんだ。
「昨日、びっくりして、寝台の下から目が離せなかった」
その子が顔を上げる。
「今日は、澄の後ろにいようと思う」
その子はましろを見ていた。それから、自分の膝の横を一度叩いた。
ましろは、そこへ片手を置いた。
澄が灯りを用意するまで、二人は並んでいた。
出かける時、ねむは悠太のいる卓から顔を上げた。
「ここにいるね」
その子は、二人のいる卓を見てうなずいた。
*
廊下の壁際から、ましろは杖を持ち上げた。
「レムも一緒に。今日は、もう少し見えると思う」
宝石の奥で、目が開く。
「見えたら教えて。私にも見える高さにしてね」
澄は食堂で使う小さな灯りを持っていた。もう片方の手には浅い金属の皿があり、その上に細い火ばさみが載っている。
「これは、必要になった時のために」
澄が皿を少し持ち上げると、その子は火ばさみを見た。
手を伸ばさず、抱えたノートを胸へ寄せた。
扉には、白い面を向けた名札が掛かっている。
その子が取っ手へ触れ、澄を見た。
澄が扉を開けた。
*
灯りが床へ置かれると、寝台の下にある脚の影が動いた。
ましろは杖を両手で持ち、宝石を低くした。澄の後ろで膝をつく。その子も隣に座った。
昨日、半分だけ見えていたものがある。
澄が灯りを寄せる。
薄い縁。
丸い面に、小さな穴が二つ。
穴の一つから、短い糸が出ていた。
「ボタンだ」
ましろが言った。
木でできた、茶色いボタンだった。少し欠けた縁をこちらへ向け、床に寝ている。
その子の手が、ノートから離れた。
指先が床へつく。
「指では触らないで」
レムの声がした。
その子の手が止まる。
ましろは、杖の先を寝台へ近づけすぎないところで支え直した。
「黒い粒は?」
「今見える面には、見つからないわ。下になっている方は見えていない」
澄は火ばさみを取らずに、その子を見た。
「これで挟んで、皿へ出すことはできます。そうしますか」
その子はボタンを見た。
それから、澄の膝の脇にある皿へ目を移す。
うなずいた。
澄が火ばさみを持つ。
先が寝台の縁を越えた。
ましろは、灯りと澄の手の間に杖が入らないよう、少し身体をずらした。その子も動きかけたが、膝は同じところに残った。
火ばさみの先が、ボタンの縁へ触れる。
一度、滑った。
ボタンが床をわずかに擦る。
その子の指が、ノートの背を強く押した。
澄は手を引かず、挟む場所を変えた。
今度は持ち上がった。
短い糸が、下へ垂れる。
寝台の縁を抜けたボタンを、澄は皿へ下ろした。
ち、と金属に触れる音がした。
ボタンが裏返る。
二つの穴の間に、切れた糸が少し残っていた。
その子の肩が下がった。
ましろも息を吐きかけた。
コン。
吐きかけた息が、喉で止まった。
澄の手は皿の脇にある。
ボタンも、そこにある。
ましろには、寝台の下の方から聞こえた。
灯りの届く床を、もう一度見そうになる。
「立って。いったん出るわよ」
レムが言った。
ましろは杖を胸へ引き寄せた。
隣で、その子が先に立った。
ましろも立った。その子の背中へ目を移し、あとを歩いた。
澄が皿と灯りを持って続き、三人が廊下へ出てから扉を閉めた。
*
廊下の明るさの中で見ると、ボタンには細かな傷があった。
澄は火ばさみで向きを変えた。レムが見られるように、ましろも杖を傾ける。
裏にも、二つの穴の間にも、黒い粒は見つからなかった。
その子は自分の袖口を持ち上げた。
片方には、同じくらいの茶色いボタンがある。
もう片方には、糸の切れたところだけが残っていた。
ましろは、そこを見た。
その子は切れた糸を指で押さえ、それから皿のボタンを指した。
「袖のだったの?」
うなずく。
開いた袖口を、自分でつまんで重ねる。
離すと、また開いた。
澄が皿を下げかけ、その手元を見て止まった。
「つけ直したいですね」
その子は皿を見た。
「でも、今すぐ袖へ戻すのは待ってください。あの音と関係があるか、まだ分かりません。もう少し、身体から離して置いておきたいのです」
重ねていた布が、指の間で細くなる。
「取れたのに」
ましろの口から出た。
澄はうなずいた。
「はい。取ってきたのに」
その子は、澄の顔を見た。
しばらく見てから、皿の縁へ手を伸ばす。
触れずに止めた指を、自分の胸元へ戻した。
*
食堂で、悠太が鉛筆を差し出した。
その子はノートを閉じたまま卓へ置き、別の紙に書いた。
澄は皿を持って待っていた。
渡された紙には、一行だけあった。
なくさないで
澄の目が、その行で止まった。
ましろは、自分が皿の中ばかり見ていたことに気づいた。
黒い粒がないか。
何か動かないか。
その子は、皿を持つ澄の手を見ていた。
「はい。どこへ置くか、一緒に決めましょう」
澄は皿を卓へ置き、その隣に紙を並べた。
「場所を変える時にも、伝えます」
その子が、紙の端を押さえた。
澄が廊下へ出ると、その子もついていった。ましろは杖を持って続いた。
扉から離れた壁際を、澄が指す。
「ここへ台を出すのは、どうでしょう」
その子は床を見て、それから食堂へ戻る角を見た。
小さくうなずく。
悠太が澄と一緒に小卓を運び、ましろは食堂に置いた皿を持ってきた。澄が受け取り、台の中央へ下ろす。
その子は皿が置かれるまで見ていた。
ましろは小卓の脇へ杖を立てかけた。宝石から皿が見える向きに直すと、レムの声がした。
「ええ。ここなら見えるわ」
澄は皿から手を離した。
「他の子が触らないように、私から話します」
ボタンには、まだ糸がついていた。
その子は一度だけ皿へ顔を寄せ、それから食堂へ戻った。
*
澄が裁縫箱を持ってくると、その子はすぐに廊下を見た。
「ボタンは、さっきの場所です」
澄は箱を開いた。
針と糸を取り出す。
「今日は、袖口だけ仮に留めませんか。あとでほどけるようにします」
その子は、箱の中のボタンを見た。
取ろうとはしなかった。
代わりに、開いた方の袖を差し出す。
澄は布の重なりを確かめた。その子が袖口から手を引っ込めると、端へ針を通す。
ましろは隣に座り、垂れた袖を支えた。
糸が引かれる。
その子の指先が、布の中で動いた。
「きつくないですか」
首を横に振る。
澄がもう一針通すあいだ、その子は袖を引かなかった。
糸が切られる。
出てきた手を、ましろは下から見ていた。
その子は手首を返し、仮に留めたところへ指を置いた。片方の袖にはボタンがあり、こちらには糸がある。
悠太が、残っていた紙を差し出した。
なくさないで
その子は受け取り、閉じたノートの上へ重ねた。
廊下へ目をやる。
小卓までは、ここから見えない。
その子は立ち上がりかけ、腰を戻した。
しばらくして、コップを持った。
袖口が、今度は手の甲まで落ちてこなかった。




