第61話 寝台の下
食堂の奥だけ、午後が少し早く来ていた。
窓から入る光はまだ明るい。けれど、敷物の上まで届くころには、卓や椅子の脚に何度も切られて細くなっていた。
名札の持ち主は眠っている。
部屋から持ってきた枕に頬を沈め、毛布を肩まで掛けていた。閉じたノートは、手を伸ばせば届くところにある。
その上に、二行を書いた紙。
まくら
へやの
ましろは、紙から目を離した。
読むために置かれた二行だった。
その下には何もない。
書きかけなのか、二行で終わりなのか。そこまでは聞いていなかった。
食堂の入口で、澄がねむと話している。声は低く、こちらまでは届かなかった。
やがて、ねむだけが戻ってきた。
ましろの隣に空いている椅子を見る。座らず、背に手を置いた。
「寝てる?」
「うん」
「ちゃんと?」
ましろは敷物を見る。
毛布が、小さく上下している。
「たぶん」
「ましろの『たぶん』は信用が薄い」
「じゃあ、ねむが見て」
ねむは少し屈んだ。顔には近づかず、毛布の端を見る。
上がる。
下がる。
また上がる。
「寝てる」
「同じこと言った」
「私が言うと少し厚い」
「何が?」
「信用」
ましろは言い返しかけて、口を閉じた。
枕の上で、その子の眉がわずかに動いた。
二人とも黙る。
少しして、また呼吸だけになった。
ねむは椅子を引かず、壁際へ行って床に座った。
「レムは?」
「廊下」
「音、またした?」
ねむは首を横に振る。
「今のところは」
「そっか」
ましろは、それ以上聞かなかった。
寝台の下。
澄が聞いた一度。
まだ、何が鳴ったのか見ていない。
そのことは、なくなってはいない。
でも、眠っている子を起こしてまで確かめる理由にもなっていなかった。
*
目を覚ましたのは、食堂の片づけがほとんど終わったころだった。
最初に動いたのは手だった。
毛布の下から出て、枕の端を探る。指が布をつまむ。
それから目が開いた。
ましろは椅子から立たなかった。
「おはよう、でいいのかな」
その子が瞬きをする。
窓を見る。
まだ明るい。
ましろも窓を見る。
「おはようじゃないね」
ねむが壁際から言った。
「おそよう」
「それも違うと思う」
その子の口元が動いた。
声は出ない。
けれど、頬が枕へ少し深く沈んだ。
ましろは笑った。
その子は身体を起こした。毛布が膝へ落ちる。
最初に枕を見る。
片手で中央を押した。
へこんだところが戻る。
もう一度押す。
次に、閉じたノートへ手を伸ばした。
表紙に触れる。
開かない。
その上の紙を取る。
二行をしばらく見ていた。
悠太は少し離れた卓で絵を描いていた。その子が起きたことに気づいたが、鉛筆を置かなかった。
ましろが水を差し出す。
「飲む?」
うなずく。
コップを両手で持ち、半分ほど飲んで卓へ戻した。
澄が食堂へ入ってきた。
その子の目が、澄へ向く。
「起きたのですね」
うなずく。
澄は敷物のそばまで来たが、座らなかった。
「休む前に話した音のこと、覚えていますか」
その子の手が止まる。
しばらくして、うなずいた。
「寝台の下の方から、一度聞こえました」
澄は、それだけ言った。
何をするかは続けなかった。
その子は枕を見る。
また片手で中央を押した。
布が戻る。
閉じたノートへ触れる。
開かない。
二行の紙を裏返し、白い面に鉛筆を置いた。
悠太が顔を上げる。
けれど、近づかなかった。
鉛筆が動く。
その子は短く書いて、紙を澄へ向けた。
みる
澄は読んだ。
「寝台の下を?」
うなずく。
ましろの身体が少し前へ出た。
その子がこちらを見る。
ましろは止まった。
「一緒に行っていい?」
その子は、すぐにはうなずかなかった。
ましろ。
ねむ。
澄。
順番に見る。
それから澄を指した。
次に、ましろ。
ねむには指を向けなかった。
ねむは壁際に座ったままだった。
「私は留守番」
その子がうなずく。
ましろは立った。
「悠太は?」
悠太が自分から聞いた。
その子は悠太を見る。
閉じたノートを見る。
それを両手で持ち上げ、悠太へ差し出した。
悠太は鉛筆を置いた。
「持ってる?」
うなずく。
「開かないで?」
もう一度、うなずく。
悠太は両手で受け取った。
「分かった」
その子は枕を見た。
持っていこうとはしなかった。
毛布の上へ置いたまま立ち上がる。
*
廊下へ出ると、レムのいる杖が壁際にあった。
宝石の奥で目が開く。
「起きたのね」
その子は杖を見る。
「寝台の下を見たいそうです」
澄が言った。
「一緒に入るのは、澄とわたし」
ましろが続けた。
レムは、その子を見る。
「見るだけ?」
その子は少し考えた。
床を指す。
それから、自分の目を二本の指で示した。
「まず、見るだけにする?」
ましろが聞く。
うなずく。
澄が確認する。
「何かあっても、触らない。動かさない。まず見えるところだけを見る。それでいいですか」
うなずく。
「見えなければ?」
ねむが食堂の入口から聞いた。
その子は止まった。
寝台の下をのぞくには、身体を低くしなければならない。物があれば、さらに奥を見るために動かす必要があるかもしれない。
少し考えたあと、片手を上げた。
止める時の形。
「見えないところまでは、今日は見ない」
ねむが言った。
うなずく。
レムは何も足さなかった。
澄が扉を開ける。
白い札が揺れた。
その子が先に入った。
ましろはその後ろ。
澄が最後に入り、扉は閉めなかった。
*
部屋は、さっきと同じだった。
寝台の上だけが違う。
枕がない。
その場所に、敷布のしわが残っている。
名札の持ち主は寝台へ近づいた。
しゃがむ。
ましろも隣へ行こうとして、その子の手を見る。
止める形ではない。
床を指している。
「ここ?」
うなずく。
ましろは少し離れた場所で膝をついた。
澄は入口に残った。
寝台の下は暗い。
窓の光は床までは届いているが、その先で脚に切られていた。
名札の持ち主が身体を低くする。
ましろも同じ高さまで下がった。
木の床。
寝台の脚。
壁際に寄った埃。
奥までは見えない。
何かがある。
ましろは目を細めた。
「……ある」
その子の肩が動いた。
「何かは分からない」
ましろは、すぐに続けた。
寝台の中央より少し奥。
床の上に、小さなものがあった。
黒くは見えない。
白くも見えない。
光が足りず、色は分からなかった。
形も、半分ほどしか見えない。
その子が、もう少し顔を近づける。
ましろは動かなかった。
床へついたその子の手が、少し前へ進む。
指先が寝台の縁を越えた。
止まる。
届かない。
その子は手を戻した。
澄が入口から尋ねる。
「見えますか」
「何かある。でも、奥」
ましろは答えた。
「取るには、手を入れないと届かないと思う」
その子が寝台の下を見たまま、首を横に振った。
ましろはうなずく。
「今日は取らない」
その時だった。
コン。
ましろの肩が跳ねた。
音は近かった。
寝台の下。
見えている小さなものの方から――
そう思いかけて、口を閉じる。
その子も動かなかった。
澄が入口で息を止めている。
もう一度は鳴らない。
ましろは、見えているものから目を離さなかった。
「今、寝台の下から聞こえた」
それだけ言う。
その子の手が床から上がった。
止める時の形。
「出よう」
ましろは先に立たなかった。
その子が身体を起こす。
膝についた埃を、自分で払う。
ましろも立つ。
二人が入口まで戻ると、澄が道を空けた。
その子が廊下へ出る。
ましろも続く。
澄は最後に扉を閉めた。
誰も、寝台の下へ手を入れなかった。
*
食堂へ戻ると、悠太は同じ場所にいた。
閉じたノートを両手で持っている。
その子を見ると立ち上がった。
「返す?」
うなずく。
悠太はノートを渡した。
その子は胸へ抱える。
ねむが尋ねた。
「あった?」
ましろは答える前に、その子を見た。
その子が片手を小さく開いた。
ましろは自分の指で、同じくらいの大きさを作った。
「何か、小さいものが見えた」
「色は?」
「分からない」
「形は?」
「全部は見えなかった」
「音は?」
ましろは一度だけうなずいた。
「寝台の下から、一回」
ねむは、それ以上聞かなかった。
その子は敷物へ戻った。
枕を持ち上げる。
さっきまで頬を置いていたへこみが残っている。
ノートをその横へ置いた。
今度は横にならず、枕を膝に載せた。
片方の手で枕を抱える。
もう片方を、閉じたノートへ置く。
ましろは椅子へ戻った。
部屋の寝台の下には、まだ何かがある。
音も、そこから一度聞こえた。
けれど、二つが同じものだとは、まだ誰も言わなかった。
その子は枕の角を一度押した。
戻ってきた布へ、指を置いたままにした。




