第60話 いつもの枕
頁を押さえていた親指が、少し浮いた。
悠太は、その子の顔を見た。
「閉じる?」
うなずく。
悠太が指を引くと、その子はノートを自分へ向け直し、表紙を重ねた。丸は、その下へ隠れた。
その子は両手を表紙に置いたまま、長く目を伏せた。
ましろが水差しを持ち上げかける。
ねむが、その手元へ顔を向けた。
「眠いのかも」
ましろは水差しを戻した。
その子の背中が、椅子から少し離れては戻る。目を閉じかけるたび、入口の方へ顔が上がった。
「ここだと、首が痛くなるよね」
ましろが言うと、その子は首の後ろへ手を当てた。
「澄に、横になれるところ、聞いてくる?」
その子はうなずいた。
ねむが立った。ましろと悠太は、卓に残った。
しばらくして、ねむが澄を連れて戻ってきた。
「レムが廊下を見ています」
澄は、ましろにも顔を向けた。
「預かった杖は、扉から離れた廊下の壁に立てかけてあります」
澄は、その子の椅子の隣で膝を折った。
「食堂の奥に、寝具を運べます。休んでいる間、私もここにいます」
その子は食堂の奥を見た。離れた卓では、まだ器を片づけている子がいる。
ましろは、しわの残った袖口を指でつまんだ。
「わたしも、向こうへ行く」
その子は小さくうなずいた。
澄が立ち上がろうとすると、その手が袖の方へ伸びた。
触れる前に止まり、卓へ戻る。
悠太の鉛筆を指した。
「紙もいる?」
うなずいた。
悠太は食堂に置かれた白い紙を一枚持ってきた。閉じたノートの隣へ置くと、その子は鉛筆を受け取った。
書く面を自分へ寄せる。
悠太は、紙の端から手を離した。
書き終えるまで、澄は膝を折ったまま待っていた。
その子が紙を澄へ差し出す。
澄は受け取って、読んだ。
「枕ですね。新しいものもありますよ」
その子の指が、紙の端に掛かった。
澄が返すと、もう少し書き足した。
今度は、卓の真ん中へ置いた。
まくら
へやの
悠太が、その二行を見た。
ましろも見た。
澄は、紙を手に取らなかった。
「いつも使っているものが、いいのですね」
その子はうなずいた。
両手で、閉じたノートを膝へ下ろした。
「寝台の上にありますか」
うなずく。
「私が部屋へ入って、その枕を取ってきてもいいですか」
その子は入口を見た。
澄は、次の言葉を足さずに待った。
やがて、その子がうなずく。
「枕を取りに行きます。それ以外のものは動かしません」
その子は、紙に書いた下の行へ指を置いたまま、もう一度うなずいた。
澄は立った。
ましろも立ちかけたが、その子の膝からノートが傾いたので、腰を戻した。その子は自分で抱え直し、閉じた表紙へ顎を寄せた。
「ここで待ってる」
ましろが言うと、澄は二人を見てうなずいた。
ねむと一緒に、食堂を出た。
*
廊下の角を曲がると、白い札が見えた。
杖は、澄が立てかけた壁際にあった。
澄は近づく前に、レムへ枕を取りに入ることを伝えた。
「中で何か起きたら、枕より先に戻ってきて」
杖の宝石から、レムが言った。
澄はうなずいた。
「ねむは、ここにいてください」
ねむは、他の子が通ってこないか廊下を見渡した。
澄が取っ手へ手を掛ける。
ポケットの紙には触れなかった。
扉を押し、身体が通るだけ開けた。
室内には、窓から光が入っていた。
寝台がある。
その上に、枕が一つあった。
澄は入口から、そこまでの床を見た。足を置く場所を確かめて入り、寝台の脇に立つ。
枕の真ん中は、縁より少し低くなっていた。
澄は両手を差し入れた。
持ち上げると、下にあった敷布のしわが見えた。
枕を腕に収め、身体を入口へ向けた時だった。
コン。
澄の足が止まった。
音は、寝台の下の方から聞こえた。
枕は腕の中にある。
寝台の下には、ここからでは見えない暗がりがあった。
澄は膝を曲げなかった。
枕を抱え直し、そのまま入口へ歩いた。
廊下に出ると、レムの声がした。
「今、音がしたわね」
「寝台の下の方から聞こえました。何が鳴ったかは、見ていません」
澄は扉を閉じた。
ねむが枕と、その顔を順に見る。
「次に見るなら、そこも候補だね」
澄はうなずいた。
「今は、これを届けます」
*
食堂へ戻ると、その子はまだ椅子にいた。
澄の腕を見て、背中が椅子から離れた。
ましろが立ち、受け取れる場所を空けた。
「寝台の上にありました」
澄が差し出すと、その子はノートを卓へ置き、枕を両手で受け取った。
そのまま顔を埋めかけたところで、澄が続けた。
「持ち上げたあと、寝台の下の方から音が聞こえました。中は確かめずに出てきました」
その子は顔を上げた。
枕の端を握ったまま、廊下の方を見る。
「また入って確かめるかどうかは、休んでから話しましょう。何か変われば、レムが知らせてくれます」
その子はすぐにはうなずかなかった。
枕を膝に立て、片方の角を指で押した。
布が、中の詰め物より少し遅れて戻った。
もう一度押す。
今度は、そこへ頬を当てた。
澄は、その子が顔を上げるまで待っていた。
「最初、新しいものと言ってしまいましたね」
その子が澄を見る。
「取ってくる前に、もう一度聞けてよかったです」
悠太は、卓に残った二行を見ていた。
指先で紙の端を押さえる。
悠太は何も言わず、紙が枕の下へ入らないところまで寄せた。
食堂の奥に、ねむが予備の敷物を広げている。
澄が毛布を運び、ましろは脇の椅子を引いた。
その子は枕を抱えて歩いた。閉じたノートは、枕と胸のあいだに挟んでいた。
敷物のそばで膝をつき、ノートを横へ置く。
枕を置く向きを一度変えた。
横になれば、ましろの座る椅子が見えた。
その子は、そちらを向いて横になった。
澄が毛布を広げると、自分で端を取って肩まで引いた。
ましろは椅子へ座った。
枕に頬が沈む。
その子の手が、一度だけ、ノートの表紙に触れた。
それから、指が毛布の下へ戻った。
食堂の天井の下に、部屋で使っていた枕がある。
ましろは、その子の目が閉じても、椅子の向きを変えなかった。




