第59話 丸のある頁
ねむは、引いたままだった椅子へ戻ってきた。
座る前に、その子を見る。
「澄、食べてた。レムも向こうにいる」
その子は両手で持っていたコップを下ろした。底に残った水が、一度だけ揺れた。
ましろは卓の上の器を寄せた。ノートのある側を避けて重ねると、悠太が両手を伸ばした。
「これ、持っていく」
椅子が引かれた時、その子の手がノートへ戻った。
悠太は器を抱えたまま、そこを見た。
「器だけだよ」
言ってから、自分の椅子を見た。
「戻ってくる」
悠太が卓を離れる。
その子の指は、表紙の上で動かなかった。
ましろは残ったコップを自分の方へ寄せ、乾いたところまで布巾を滑らせた。
「ノートの下も拭くね」
その子がノートを持ち上げる。
そこには、濡れた跡はなかった。ましろはパンの小さなかけらだけを拾った。
ノートが、同じ場所へ戻る。
その子は今度は肘をつけず、両手を膝へ下ろした。
悠太の席を見ている。
器を返した悠太は、水で濡れた手を拭きながら戻ってきた。座って、卓に置いていた鉛筆を取り上げる。書く場所を探すように先を浮かせ、それから横へ寝かせた。
その子が鉛筆へ手を伸ばした。
悠太が押して渡そうとすると、その指は手前で止まった。
卓の何もないところを、指先で丸くなぞる。
一周して、悠太を見る。
「あの丸?」
うなずく。
その子はノートを自分の方へ引いた。表紙の端に指を掛け、まだ開かずに、もう一度悠太を見た。
「探してくれるの?」
その子がうなずいたので、悠太も顔を上げた。
「ぼくの書いたところ、見ていいよ」
ましろは椅子を少し引いた。
その子は背中を壁へ向けて座り直し、ノートを膝に立てた。開く面は自分へ向けたままだった。
ねむも、悠太も、卓の方へ視線を戻す。
紙を扱う音がした。
悠太は鉛筆を指に挟んだ。転がしかけて、尖った方を自分の手の中へ隠す。
「ぼく、場所はだいたい覚えてるんだけど」
そこで言葉が止まった。
自分なら、どのあたりを開くか分かる。表紙を押さえる手の重さも、頁を送る指の動きも、身体に残っていた。
けれど今は、向かいで紙の音がしている。
悠太は手を膝に置いた。
しばらくして、その子がノートを卓へ近づけた。
悠太が顔を上げる前に、止める形の手が見えた。
待った。
その子は、ましろとねむの方も見た。
「わたしたちも、そのままでいるね」
ましろは水差しの取っ手へ目を置いた。隣にいることはできても、今の頁を見る場所は空けておいた。
その子はノートの向きを変えた。
片側の頁の束を表紙と一緒に立て、もう片側を卓へ下ろす。見せる一頁の根元を、親指で押さえていた。
名前を書いた頁は、開かれていない束の中に残っていた。
その子が空いた手を下ろし、悠太の前の卓を指した。
「今、見ていい?」
うなずいた。
悠太は鉛筆を置いて、身を寄せた。
丸があった。
歌のことを残した頁に、自分で書いた丸が見えた。
「これ」
指が伸びる。
紙に触れる手前で止まって、その子を見た。
その子は頁の余白を指した。悠太の人差し指が、そこへ下りた。
紙は、卓より少しだけ温かい気がした。
悠太は丸を見たまま、笑いかけた。
うまく笑えず、鼻から息だけが出た。
「あった」
それきり、しばらく何も言わなかった。
ましろは水差しを持っていた手を緩めた。悠太の声が聞こえた方を見たくなったが、取っ手に残った水の粒を指で拭った。
「新しい紙に、また書けばいいって、思おうとしたんだ」
悠太の声は、卓の低いところから聞こえた。
「でも、こっちが見たかった」
その子の親指が、頁の根元を押さえ直す。
悠太の指は余白に触れたままだった。
丸のそばを見終えると、いつものように、指が紙の端へ滑った。
端を持ち上げかけて止まる。
その子の指が強く曲がったのが見えた。
悠太は、持ち上げた端を戻した。
「ごめん。いつもの手で、やった」
両手を紙から離す。
その子はノートを閉じなかった。
目を落としたまま、親指を動かさずにいた。
悠太は待った。
その子が息を吐くまで、鉛筆にも手を伸ばさなかった。
やがて、その子の指が余白を指した。
今度は、紙の端から少し離れたところだった。
「そこを押さえる?」
うなずく。
悠太は人差し指を置いた。
頁の反りが、少し平らになった。
「めくらない。ここ、持ってる」
その子の親指は、反対側に残った。
悠太はもう一度、丸を見た。
今度は急がなかった。
食堂の奥で椅子が鳴った。その子が入口へ顔を向ける。
悠太は顔を上げたが、指は動かさなかった。
その子が頁へ目を戻した時も、同じところに置いていた。
ましろのコップへ、ねむが水を足した。
卓の向こうで、悠太が小さく「ありがとう」と言った。
その子の手が、立てていた表紙を少し下げた。見せる頁は変わらず、その下の紙の束も閉じたままだった。
ましろは、まだ頁を見なかった。
ただ、さっきまで紙の音がするたびに動いていた悠太の足が、椅子の下で揃っているのを見た。
窓から入った光が、卓の端まで来ていた。
一冊のノートを、二人が別々の端から押さえていた。




