第58話 袖のしわ
袖を掴んだ手は、ましろが少し膝を動かしても離れなかった。
肘の内側で、布が張る。
ましろは動かしかけた膝を戻した。
閉じた扉を見る。白い札は、さっきと同じ向きに掛かっていた。
その向こうで鳴ったものを、誰も見ていない。
「少し、離れましょう」
澄が言った。
扉に背を向けず、廊下の途中まで下がる。
「私はここにいます。他の子にも、この扉には近づかないよう伝えます」
ポケットの紙は、取り出さなかった。
レムの声が続いた。
「何か変わったら知らせるわ。今、分からないものを確かめるために、ここへ残る必要はない」
ねむは食堂の方を見た。
「向こうなら、椅子がある」
名札の持ち主は、ましろの袖を掴んだまま、扉を見ていた。
ましろには、その横顔しか見えなかった。
「わたし、ここで待ってるの、ちょっと怖い」
言ってから、唇を閉じた。
掴まれている方の腕まで、強くしていなければいけない気がしていた。
その子が、ましろを見る。
「一緒に食堂へ行かない?」
袖が、わずかに引かれた。
その子はうなずき、膝のノートを片腕に抱えた。
ましろは、脇に置いていた杖を空いている手で持ち上げた。
「レム、ここをお願いしてもいい?」
「ええ。そっちは任せるわ」
澄が近づき、差し出された杖を受け取った。
ましろは、澄の手に重さが移ってから指を離した。
ましろは空いている手を床についた。
二人で立つには、思ったより時間がかかった。
先に立ったましろの肘が上がり、その子の手も引かれる。
「ごめん」
ましろは腰を屈め直した。
その子が立ち上がるまで、腕を低くして待つ。
悠太は鉛筆を持って立った。
ねむが先に歩き、廊下の角で足を止めた。
ましろたちは、一歩ずつその後を追った。
角を曲がる前に、その子が振り返った。
ましろも止まる。
白い札のある扉と、そこから離れて立つ澄が見えた。
澄は手を振らなかった。
その子がこちらを向くまで、同じ場所にいた。
食堂には、温めた汁物の匂いが残っていた。
ねむが、入口に近い椅子を引く。
その子は座らず、椅子の背に手を置いた。
まだ、袖を掴んでいる方の手だった。
ましろの腕が、椅子の背へ寄る。
その子は椅子を少し回した。
座ると、開いた食堂の入口が斜め前に来た。
廊下の角までは見える。部屋の扉は見えない。
その子はその向きで、腰を下ろした。
ましろも隣の椅子を引いた。
悠太が卓上の匙を数えている。
「ぼくのぶんも、持ってくる」
そう言った時、悠太の腹が鳴った。
本人がいちばん驚いた顔をした。
ましろの口から、短く息が漏れた。
「わたしも、お腹すいた」
悠太は腹を押さえたまま、うなずいた。
ねむと悠太が、器を運んできた。
ましろの前にも、湯気の細くなった一杯が置かれる。
その子の前には、悠太が器を置きかけていた。
けれど、その子は膝のノートを持ち上げ、卓の端を見た。
器とノートのあいだに、置ける場所が少なかった。
悠太は器を持ったまま立っていた。
その子の腕の中で、ノートの角が少し下がる。
悠太の指が器から浮きかけて、戻った。
「そっち、空けるね」
ねむが、何も置かれていない側を示した。
その子はそちらへノートを置いた。
表紙は閉じたまま。背の端が、自分の肘に触れている。
悠太は離れたところへ器を下ろした。
それから、その向かいに座った。
「熱かった」
器を持っていた指を、膝の上で開いた。
ましろは匙を取ろうとした。
袖が張った。
その子の手は、まだそこにあった。
「こっちで食べるね」
ましろは反対の手で匙を持った。
ひと口すくったつもりが、器の縁に当たる。
汁が少し、卓へ落ちた。
「あ」
向かいから、悠太が布巾を寄せた。
その子が、ましろの手元を見ている。
ましろは濡れたところを拭いた。
「難しい。こっちだと」
笑おうとしたが、匙の持ち方を直す方が先になった。
袖を掴む指が、ゆっくり開いた。
ましろは匙を止めた。
その子の手は、布から離れても、すぐには自分の方へ戻らなかった。
卓の上で、一度握られる。
ましろは、器を少し自分へ寄せた。
「食べたら、わたしはここで少し休む」
その子を見た。
「まだ、足が変な感じする」
床に長く座っていた膝を、卓の下で伸ばす。
その子の視線が、ましろの膝の方へ下がった。
少しして、自分の匙を取った。
ましろも、いつもの手へ匙を持ち替えた。
二人が食べ始めると、悠太も器を引き寄せた。
誰かが水を注ぐ音がする。
遠い卓で、パンをもう一つ欲しいと言う声がした。
入口の向こうは、静かだった。
その子は何度か匙を止め、廊下の角を見た。
ましろも一緒に見たが、ここから澄の姿は見えなかった。
やがて、ねむが立った。
その子の匙が止まる。
「澄のところへ、器を持っていく。戻ってきたら、ここに座る」
ねむは自分の椅子を、卓へしまわずに行った。
ましろは器の底に残った汁をすくった。
食べ終わっても、椅子から立たなかった。
その子の器には、まだ少し残っていた。
ましろは卓へ肘を置く。
袖に、細かいしわが寄っていた。
空いた手で伸ばしかける。
その子が最後のひと口をすくったので、ましろは水差しへ手を変えた。
器の隣にあるコップを、その子が少し前へ出した。
ましろは水を注いだ。
廊下から、ねむの足音が戻ってくる。
その子はコップを両手で持った。
ましろの袖は、もう引かれていなかった。
しわの残った腕は、まだ隣にあった。




