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第57話 一度のあと

澄は、折った紙をポケットへしまわなかった。


両手で持っていると、真ん中の折り目が少し開いた。


悠太は廊下の壁に背をつけていた。鉛筆はまだ、指のあいだにある。


食堂で、皿の重なる音がした。


ましろはそちらを見て、扉へ目を戻した。


コン。


今度も、扉の向こうから聞こえた。


澄の親指が、紙の折り目を押さえる。


「入っていいですか」


一度だけ尋ねた。


ましろは息を吸った。その先の言葉を、口の中に置いた。


「一つ」


澄の声は、扉のすぐ前に落ちた。


「二つ」


返事はなかった。


「三つ」


澄が紙を左手へ持ち替え、右手で取っ手を下げる。


扉を、ゆっくり押した。


隙間が、手のひら一つぶんになる。


ましろの位置からは、澄の肩と、扉の縁しか見えなかった。


澄の右手が止まる。


細い隙間の内側に、手が上がっていた。


指を開いた、止める時の形。


澄はすぐに扉を引いた。


留め金が、小さく鳴った。


「手が見えました」


澄は、取っ手から指を離す。


「止める形でした。閉じました」


ましろの肩から力が抜けかけた。


「じゃあ、大丈——」


言い終える前に、閉じた扉を見た。


澄は、紙を両手へ戻していた。


「顔までは、見えていません」


ましろはうなずいた。


飲み込んだ言葉のぶんだけ、喉が乾いていた。


ねむが窓際を離れた。


取っ手には近づかず、ましろの隣に立つ。


「一度、使ったね」


澄は、折り目を開いた。


紙には、まだ今日の約束が四行とも残っている。


悠太が壁から背を離した。


「使ったって、書いておく?」


「お願いします」


澄が差し出した紙を、悠太は床に置いた。


四行の下に、小さく書く。


一度、開けた。止める手が見えたので、閉じた。


書いた文を読み上げると、澄がうなずいた。


悠太は鉛筆を止めた。


ノートへ写しておこうと思って、扉を見た。


歌の丸印も、前に書いた言葉も、あの一冊の中にある。


紙の端を揃え直して、澄へ返した。


内側で、取っ手が動いた。


今度は、誰も手を添えなかった。


名札の持ち主が、自分で扉を開けた。


ノートを片腕に抱え、もう一方の手を取っ手に置いている。


ましろは、その顔を見た。


「ここ、空けるね」


扉の前から横へ退く。


その子は廊下へ出てきた。


ノートを持った腕が、ましろの前を通る。


最後に両足が敷居を越えた。


その子は振り返り、自分で扉を閉じた。


澄が、開いたままの紙を差し出す。


「預かった一度を、使いました」


その子は、下に増えた一行を読んだ。


扉を見る。


それから、澄にうなずいた。


「もう一度、預けますか」


その子は首を横に振った。


澄は紙を折った。


今度は、ポケットへしまった。


その子は壁際へ行くと、床に座った。


閉じたノートを膝へ置く。


部屋に戻る様子はなかった。


ましろも膝を曲げかけて、止まる。


「隣に座っていい?」


その子は顔を上げた。


うなずいて、片方の膝を少し引いた。


ましろは、その空いたところへ座った。


床の冷たさが、服を通って届く。


少し離れて、悠太も壁に背をつけた。


その子の指が、ノートの角を撫でる。


悠太の視線に気づくと、指が止まった。


「ぼく、あの丸のところ、また見たい」


悠太は言った。


その子はノートへ目を落とす。


表紙は動かなかった。


「今、開けてってことじゃないよ」


悠太は鉛筆を、自分の膝へ寝かせた。


「見たくなったことだけ、言っておく」


その子はしばらく表紙を見ていた。


それから、悠太を見てうなずいた。


ノートは、その子の膝に残った。


ましろの隣で、小さく息が吐かれた。


ましろも、ようやく背中を壁につけた。


コン。


閉じた扉の向こうで、音がした。


ましろの背中が、壁から離れた。


その子は隣にいる。


両手は、膝の上のノートに重なっていた。


音がした瞬間、指先までは見ていなかった。


悠太が顔を上げる。


ねむは、扉を見ていた。


「今は、こっちにある」


ノートへ目を移す。


「音は、向こうから聞こえた」


レムの声が、低く続いた。


「中で何が鳴ったかは、見えていないわ」


その子の手が、表紙から離れた。


ましろの袖を掴む。


ましろは立ち上がらず、その手のそばへ自分の手を置いた。


澄の右手は、下がったままだった。


ポケットには、使い終えた一度がある。


扉の前にいた全員が、今は廊下にいるその子を見た。


その子は、袖を掴んだ手を離さなかった。


白い札の掛かった扉は、閉じたままだった。


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