第69話 二度目のおかえり
ましろが椅子へ腰を下ろすと、悠太が顔を上げた。
「ましろお姉ちゃん、舟って折れる?」
「紙の?」
「うん。舟なら、橋がないところも渡れる」
ねむはコップを卓へ置いた。
「橋、作ったばっかり」
「橋も使うよ」
「忙しい川だね」
悠太は食堂の棚から紙を一枚持ってきた。
ましろはコップを脇へ寄せ、乾いたところへ紙を広げる。
半分に折る。
折り目を指で押さえ、上の角を真ん中へ合わせた。
ねむがのぞく。
「帽子」
「途中だよ」
「かぶれる?」
悠太が自分の頭へ手を置く。
ましろは折りかけの紙を持ち上げた。
「悠太くんには、小さいかな」
「レムなら?」
向こうの卓で、杖の宝石が動いた。
「誰に何をかぶせる相談?」
ましろは紙を下ろした。
「舟を折ってるの」
レムは返事をしなかった。
ヨルが宝石へ目を落とす。
「帽子らしい」
「舟なのではなくて?」
「途中だと」
「途中から報告しなくていいわ」
ましろは下を向いて笑った。
折り目がずれ、紙の端が片側だけ長くなる。
「笑うから」
ねむが言った。
「聞こえるんだもの」
名札の持ち主は、膝のノートへ片手を残したまま、卓の紙を見ていた。
ましろが紙を広げ直すと、もう片方の手が卓の縁へ上がる。
「ここの角、押さえてもらえる?」
その子はうなずき、指を置いた。
ましろが反対側を折る。
紙が逃げなくなった。
悠太は二人の手の間をのぞき込んだ。
「今度は?」
「まだ帽子」
ねむが答えた。
「舟になるよ」
ましろは下の隙間へ指を差し入れた。
押し開いて畳むと、さっきまで上にあった角が横へ出る。
その子の指が、新しい角へ移った。
*
「ましろ、水を頼む」
ヨルの声がした。
ましろは紙から顔を上げた。
ヨルは元の卓の脇に座り、ましろの杖を左手で支えている。右手には空のコップがあった。
「持っていくね」
ましろが指を離すと、悠太が紙を受け取った。
「ここから、引っ張っていい?」
「両方の端を、少しずつね」
その子は紙から手を引き、ノートを両手で抱え直した。
悠太はねむへ片方の端を向ける。
ましろは水差しを取りに行った。
ヨルは、ランタンを挟んで、椅子を運び去った場所とは反対側にいた。
ましろはそちらの卓の端へ回る。
「ここでいい?」
ヨルがコップを卓へ置いた。
ましろはその中へ水を注ぐ。
レムのいる宝石は、ランタンへ向いていた。
硝子の奥には金色の火が見える。ましろは屈まず、水差しを水平へ戻した。
「腕、疲れない?」
「疲れる」
「じゃあ、私が――」
「先に飲ませろ」
ましろは水差しを卓へ下ろした。
「そうだった」
「休ませたいなら、まずその一口を待ちなさい」
レムが言った。
「心配しただけだよ」
「それは腕の疲れに効く?」
ましろはヨルを見る。
ヨルはコップを持ち上げた。
「水の方が効く」
「……どうぞ」
ましろが一歩脇へ退くと、ヨルは口元へコップを運んだ。
その時、声がした。
「おかえり。持て」
ましろは、ヨルを見ていた。
コップの縁が、口に当たっている。
声は、そちらからではなかった。
卓の向こう、椅子を運び去った床の方から聞こえた。
ヨルに、よく似ていた。
ましろの目が床へ動く。
板の継ぎ目がある。
椅子はない。
誰も、そこに立っていなかった。
ヨルがコップを下ろす。
水が内側で揺れた。
「今の、私じゃない」
レムの顔が、宝石の中で上がった。
「二人とも、そこから離れて」
ヨルはコップを卓へ戻し、立った。
「ましろ。窓際のみんなを、中庭へ」
レムはそれだけ言った。
ましろは水差しから手を離した。
卓を回り、窓際へ戻る。
ねむは、もう顔を上げていた。
「今の声?」
「うん。いったん外へ出よう」
ねむが立つ。
隣で、名札の持ち主も椅子を引いた。
ノートを胸へ寄せ、その子は食堂の出口を見た。
悠太が紙を取り上げる。
舟になりかけた片側が、折り目から開いた。
押し戻そうとする指へ、ましろは声を掛けた。
「そのままでいいから、来て」
悠太は紙を両手で持ち、ねむの後ろへついた。
ましろは三人が中庭へ出るのを見届けた。
ヨルも、壁際を回って来た。
左手にはましろの杖、右手には壁に立てかけていた黒い鐘の杖がある。
戸口で、ヨルが左手を差し出した。
ましろは柄を両手で受け取る。
レムを食堂の方へ向けてから、ヨルの指が離れた。
「私が澄に伝える」
ましろはうなずいた。
「お願い。私たちは、ここにいる」
ヨルは自分の杖を持ち、廊下へ向かった。
*
ねむたちは、中庭へ出て数歩のところで待っていた。
ましろは戸口からその顔を見た。
悠太の手には、開きかけた紙がある。
名札の持ち主はノートを抱え、ねむの横に立っていた。
「ヨルが、院長先生に話しに行ったよ」
ねむがうなずく。
ましろは宝石へ目を落とした。
「さっきの言葉……」
レムはましろを見た。
「私たちが、中庭から戻った時に」
ましろはそこで息を吸い直した。
「ヨルが、言った」
「ええ。私も聞いたわ」
レムは食堂の奥へ顔を向けた。
元の卓がある。
その脇の、椅子を取り去った場所も見える。
「椅子を運んだあと、火が向いていた方から聞こえたわね。火と声がつながっているかは、まだ分からないわ」
ましろは、さっき聞こえた声を思い出した。
短い「おかえり」のあと、ほとんど間を置かずに「持て」。
戻ってきた時のヨルは、杖をこちらへ差し出していた。
ましろはそれを受け取った。
今、その杖はましろの手にある。
「もう一度言わせようとはしないで」
レムの声に、ましろは顔を上げた。
「呼びかけるつもりはなかったよ」
「なら、そのままでいて」
ましろは食堂へ踏み出しかけていた足を、戸口へ戻した。
ねむが近づいてくる。
中へ入らず、ましろの横で止まった。
「ヨルに似てた」
ましろはうなずいた。
「私は、ヨルを見てた。水を飲もうとしてた」
ねむは、元の卓を見た。
それから、自分の手へ目を落とす。
「そう」
声は、それだけだった。
悠太が紙を持ち直す音がした。
ねむはそちらへ振り向いた。
片側だけ開いた舟を、悠太が両手で支えている。
「ねむ姉ちゃん、こっち」
ねむは悠太のそばへ戻った。
しゃがんで、差し出された紙を見る。
「ここ、折れてない」
「急いだから」
ねむはその角を、指で押さえた。
「今は急がなくていい」
名札の持ち主も屈んだ。
ノートは膝と腕の間に抱えたままだった。
紙の向こうへ、顔を寄せる。
*
ヨルが廊下から戻った。
「澄には伝えた。私に似た声で、同じ言葉が聞こえたって」
ましろはヨルを見た。
「院長先生は?」
「ボタンのところにいる。食堂へ、子どもだけで入らせるなと」
ヨルは戸口に立ち、元の卓へ目を向けた。
ましろは杖を支え直した。
「ヨル」
「何」
ましろは一度、口を閉じた。
「今の声も、もう一度言って確かめたりはしなくていいから」
ヨルの目が、ましろへ戻る。
「言わない」
「うん」
ヨルは自分の杖を、身体の横へ立てた。
「私は、あの時、帰ってきたおまえに言った」
ましろは、食堂へ戻ってきた時のことを思い出した。
杖を差し出されて、「ただいま」と返した。
ヨルは挨拶を言い直した。
「うん。受け取ったよ」
ましろが柄を持ち上げると、宝石が揺れた。
「挨拶と一緒に、私まで振らないで」
ましろは杖を下ろした。
「ごめん」
ヨルが鼻から息を吐いた。
笑ったのかどうか、ましろには分からなかった。
「見える?」
ましろが宝石へ尋ねる。
「ええ。ここからなら、卓の下の一部は」
レムは答えた。
「全体は見えないけれど、中へは入らないで。今はそこから」
ましろは戸口の脇へ寄り、杖を支える手を替えた。
ヨルが中庭へ向き直る。
悠太は舟を持ち、立ち上がっていた。
ねむもその横で膝を伸ばす。
「こっち、押すと、反対が開く」
悠太が言った。
ヨルは紙を見た。
「両方持てばいいだろ」
「持ったら、押す手がない」
ヨルは黒い鐘の杖を片手へ寄せた。
空いた手を出す。
悠太が、その手のひらへ舟を載せた。
「ここ持ってて。こっち、押すから」
ヨルの指が、紙の縁へ掛かる。
「そこじゃない。もうちょっと下」
指が下りた。
「ここか」
「うん。つぶさないでね」
「注文が多い」
戸口から、レムの声がした。
「今度は、ちゃんと聞けているわね」
ヨルは宝石を見た。
「横から増やすな」
悠太が折り目を押した。
舟の両側が開いた。
手を離しても、もう片方が倒れてこない。
「できた」
悠太が両手を伸ばす。
ヨルは舟を返す前に、潰れかけていた先を爪で起こした。




