第50話 手の中まで
朝食が終わっても、名札はその子の膝の上にあった。
皿を返す時は、名札を先に胸元へ寄せた。
もう片方の手で皿を持つ。
文字のある面は、周りからは見えなかった。
その子が食堂を出てから、ましろは澄のそばへ行った。
「院長先生」
「はい」
「今朝、名前を呼ばなかったのは、名札を外したからですか」
澄は、集めたコップを一つずつ重ねた。
「いいえ」
手を止めて、ましろを見る。
「預かった一度は、もう使いました。今朝は、新しい一度を預かっていません」
窓際にいたねむが、食堂の入口を見た。
「外したから、呼ばないでほしい、とは決めない?」
「ええ。呼んでいい、とも決めません」
名札を外した。
今、分かっているのはそこまでだった。
しばらくして、食堂の入口にその子が戻ってきた。
名札を持っている。
そのまま、三人の前まで歩いてきた。
今度は、文字の面がましろたちの方を向いていた。
ましろは、すぐには近づかなかった。
「見てもいい?」
その子は、ましろとねむ、澄を順番に見た。
それから、ゆっくりうなずいた。
三人は、動かずに名札を見た。
白くなった部分は、朝と同じように見えた。
「変わってない?」
ましろが聞く。
ねむは首を横に振った。
「分からない」
「同じに見えるけど」
「朝は、ここまで見てない」
その子の指が、白い部分のすぐ隣に残っている一画に触れた。
まだ、端まで見えている一画だった。
指が離れる。
その子は文字の面を自分の方へ戻し、また胸元に抱えた。
誰も、もう一度見せてとは言わなかった。
昼前、ねむは一度だけ自分の部屋へ戻った。
ランタンは、昨夜と同じ向きで机の上にあった。
金色の火は消えていない。
壁の方を向いた跡は、今も見えなかった。
ねむはランタンを回さなかった。
昨夜の一回は、昨夜の一回だった。
今日は、まだ何も聞こえていない。
ねむは、そのまま部屋を出た。
午後。
ましろとねむが廊下を歩いていると、向こうから名札の持ち主が来た。
その子は二人の前で止まった。
手の中の名札を、ゆっくり持ち上げる。
文字の面が、二人の方を向いた。
「もう一度、見てもいい?」
ましろが聞いた。
その子がうなずく。
朝、指が触れた一画があった。
その端が、白い部分の中に入っていた。
消えたわけではない。
けれど、その端は朝と同じようには見えなかった。
「増えた」
ねむが言った。
「扉から外したのに」
「外したあとも、増えた」
ねむは、それ以上を言わなかった。
その子は、朝に触れた一画へもう一度指を置いた。
それから、名札を胸元へ戻した。
ましろは、戻すつもりなのか尋ねなかった。
名札の持ち主は、名札のない扉の前まで歩いた。
そこで止まらず、扉を開ける。
名札を持ったまま、自分の部屋へ入った。
扉から外しても、白い部分は増えた。
それでも、名札は扉へ戻らなかった。
その子の手の中で、名前はまだ読めた。




