第49話 名前の置き場所
その朝、点呼が始まる前に、名札の持ち主は自分の扉の前に立っていた。
名札へ両手を伸ばす。
留められていた札が、扉から静かに外れた。
ましろは、廊下の少し離れた場所から見ていた。
止めなかった。
手伝おうともしなかった。
名札の文字は、まだ読める。
白くなった部分も残っている。
その子は、文字のある面を自分の方へ向けた。
両手で持ち、胸元へ寄せる。
扉は、名札のない扉になった。
「外した」
窓際にいたねむが言った。
「うん」
ましろは、扉と名札を交互に見た。
「名前がなくなったわけじゃない」
「札を外しただけ」
ねむの声は、いつもと同じように平らだった。
名札の持ち主は、何も言わなかった。
片手も上げなかった。
ただ、札を持っていた。
やがて、澄が廊下へ来た。
点呼が始まる。
名前が順番に呼ばれていく。
返事が、ひとつずつ戻る。
澄は、名札のない扉の前で口を閉じた。
それから、札を持つその子を見る。
文字の面は、澄から見えなかった。
澄は名前を呼ばなかった。
名札を戻すようにも言わなかった。
次の名前を呼ぶ。
列の中で、悠太が振り返った。
胸に抱えられた札を見る。
わすれないノートは、閉じたままだった。
点呼が終わる。
子どもたちは、食堂へ歩き始めた。
名札の持ち主も、列の後ろへ続く。
札は、まだ両手の中にある。
ましろは隣へ並ばず、一歩ぶん後ろを歩いた。
ねむは、ましろの横を歩いた。
食堂の入口で、名札の持ち主が止まった。
ましろも止まる。
その子は、手の中の札を見る。
それから、食堂の中を見た。
「持っていくの?」
ましろが聞いた。
名札の持ち主は、ゆっくりうなずいた。
ましろは、それ以上聞かなかった。
食堂へ入る。
いつもの席まで歩き、椅子に座る。
名札は膝の上に置かれた。
文字のある面は、まだその子の方を向いている。
隣の年少の子が、膝の上の札に気づいた。
「それ、どうして——」
名札の持ち主は答えず、札を胸元へ少し寄せた。
年少の子は、言葉の残りを口にしなかった。
誰も名前を呼ばなかった。
誰も札をのぞき込まなかった。
皿が配られる。
パンの匂いがする。
いつもの朝食が始まった。
その子は片手を名札に置いたまま、もう片方でパンを取った。
悠太の指が、わすれないノートの端に触れた。
そこで止まり、やがて離れた。
ノートは開かなかった。
澄も、名札を預かろうとはしなかった。
扉には、名札がなかった。
その子の手には、まだ読める名前があった。
誰も、元の場所へ戻さなかった。




