第46話 ここにいてもいい
翌朝の点呼で、ひとつの名前が呼ばれなかった。
澄は、その順番で一度だけ口を閉じた。
扉の前には、名札の持ち主が立っている。
名札の文字は、まだ読めた。
読めるまま、呼ばれなかった。
澄はその子の姿を見てから、次の名前を呼んだ。
返事が、ひとつずつ廊下へ戻ってくる。
呼ばれなかった場所からは、何も返らなかった。
列の途中で、悠太が一度だけ振り返った。
それでも、そこに誰もいないわけではなかった。
点呼が終わる。
澄は、扉の前をもう一度見てから、食堂へ戻った。
子どもたちが食堂へ向かい始めても、名札の持ち主は扉の前に残っていた。
片手が、喉に触れている。
ましろは、一歩手前で止まった。
ねむは少し離れた窓際にいる。
悠太は、閉じたわすれないノートを胸に抱えていた。
「今日は、名前を呼ばない」
ましろが言った。
その子は、ましろを見る。
「でも、ここにいてもいい?」
返事を急かさないように、ましろはそれ以上続けなかった。
名札の持ち主は、ねむを見る。
悠太を見る。
それから、ましろへ視線を戻した。
ゆっくり頷く。
ましろは、頷いたことだけを受け取った。
「ありがとう」
三人は、扉を塞がない場所に座った。
ましろは廊下の壁際。
ねむは窓の下。
悠太は二人のあいだに座る。
名札の持ち主も、扉の前へ腰を下ろした。
誰も名前を呼ばなかった。
誰も返事を待たなかった。
食堂から、皿の触れ合う音が聞こえる。
廊下の向こうで、誰かが笑った。
朝の光が、床の上を少しずつ移っていく。
悠太が、膝の上のノートに目を落とした。
「開いてもいい?」
名札の持ち主は、ノートを見た。
少し考えてから頷く。
悠太は白い頁を開いた。
昨日の記録の、次の頁だった。
鉛筆は持たなかった。
ただ、開いたまま膝に置く。
ねむが、窓の外を見ながら言った。
「何も書かないなら、開く意味ある?」
悠太は頁を見た。
「書くかもしれないし、書かないかもしれない」
「決めてないの?」
「うん」
ねむは、それ以上聞かなかった。
しばらくして、悠太が鉛筆を取り出した。
白い頁の上で、先を止める。
「今日のこと、書いてもいい?」
名札の持ち主の手が上がった。
高くはなかった。
けれど、昨日決めた止める時の形だった。
悠太は、鉛筆を頁につけなかった。
「分かった」
聞き返さず、鉛筆を床へ置く。
書かないでほしい。
今、分かったのはそこまでだった。
名札の持ち主の手が下りる。
誰も立たなかった。
開かれたノートだけが、四人のあいだにあった。
頁には、何も増えなかった。
それから、どれくらい経ったのか分からない。
ねむが一度だけ欠伸をした。
悠太は、鉛筆を転がさないよう指で押さえている。
ましろは、名札を見ないようにしていた。
見れば、昨日より白いところを数えてしまいそうだった。
名札の持ち主が、ゆっくり立ち上がった。
三人も顔を上げる。
その子は扉を開けた。
振り返らずに部屋へ入る。
扉が閉じるまで、ましろたちはその場にいた。
閉じたあとも、追わなかった。
悠太がノートを閉じる。
「今日は、何も書かなかった」
「うん」
ましろは、扉の名札を見た。
白くなった部分には、薄くなった文字があった。
ノートの白い頁には、書かれなかった時間があった。
二つの白は、同じものには見えなかった。




