第45話 預けた一度
門の鐘が止まっても、名札の持ち主は喉から手を離さなかった。
澄の言葉に頷いたあとも、扉の前に立っている。
ましろが、その顔を見た。
「まだ、何かある?」
その子は、少しだけ考えた。
「明日、言えなかったら?」
「何を?」
「呼んでほしいって」
廊下に、短い沈黙が落ちた。
澄は、すぐには答えなかった。
「その時は、私が決めて呼ぶことになります」
「今日の私が決めるのは、だめですか」
澄の目が、名札からその子へ戻る。
ねむは壁にもたれたまま、門の方を見ていた。
鐘はもう動いていない。
「いつの分?」
ねむが聞いた。
「明日の朝」
「どこで?」
「この扉の前」
「何回?」
「一度だけ」
ねむは頷かなかった。
代わりに、もうひとつ聞いた。
「明日、呼んでほしくなくなったら?」
その子は片手を上げた。
「こうする」
「手も上がらなかったら?」
上げられた手が、ゆっくり下りる。
返事はなかった。
ましろは、その沈黙を許可に足さなかった。
「そこは、決めないで残そう」
その子は、少し迷ってから頷いた。
「うん」
食堂の入口で、悠太がわすれないノートを開いた。
「書く?」
「書いて」
悠太は、昨日の言葉の下に鉛筆を置いた。
明日の朝。
この扉の前で。
一度だけ、呼んでほしい。
三つの行を書いてから、悠太は顔を上げた。
「これで合ってる?」
名札の持ち主は、一行ずつ指で追った。
最後の行で指を止める。
「合ってる」
「名前は?」
「書かなくていい」
「名札にあるから?」
「うん」
文字は、まだ読めた。
澄は、ノートの三行を見た。
「明日の朝、この扉の前で。一度だけ」
声にして確かめる。
「それ以外は、預かりません」
「はい」
今度の返事は、廊下の端まで届いた。
その夜、ねむの部屋では、ランタンの火だけが燃えていた。
硝子の内側から、音はしなかった。
翌朝。
名札の持ち主は、約束した扉の前に立っていた。
名札の白い部分は、昨日より少し増えている。
名前は、まだ読めた。
澄が廊下の向こうから来る。
ねむは、少し離れた窓際に立っていた。
その子は口を開いた。
唇が動く。
声は、ましろのところまで届かなかった。
もう一度、唇が動いた。
やはり、何も聞こえない。
ましろは「呼んでほしいの?」とは聞かなかった。
聞けば、今の返事を求めることになる。
悠太がノートを開く。
名札の持ち主は、昨日書いた三行へ手を伸ばした。
指先が、最後の行に触れる。
一度だけ、呼んでほしい。
それから、その手を下ろした。
止める時の形にはしなかった。
澄は、ノートを見る。
その子を見る。
最後に、まだ読める名札を見た。
「昨日、預かった一度を使います」
澄は、名札に書かれた名前を呼んだ。
最初の音だけが、また途中で失われた。
残った音は、廊下を通り、その子のところまで届いた。
名札の持ち主の唇が動く。
はい、と言ったように見えた。
けれど、返事は聞こえなかった。
「今度は、返す方が聞こえなかった」
ねむが言った。
ましろは、聞こえなかったものを聞こえたことにはしなかった。
悠太が、ノートの次の行に書く。
口が動いた。
それだけを書いた。
その時、門の方で蔦の葉が揺れた。
風はなかった。
門の鐘が、一度だけ大きく傾いた。
音はしなかった。
ねむが、窓の外を見る。
「一回、動いた」
「うん」
誰も、それを返事にしなかった。
鐘はゆっくり元の位置へ戻った。
悠太が、まだ開いているノートを見る。
「明日の分も、書く?」
名札の持ち主は、鉛筆を見た。
手は伸びなかった。
代わりに、その手が喉へ戻った。
ましろも、代わりには書かなかった。
昨日預けられた一度は、もう使われていた。
明日の分は、空白のままだった。




