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第44話 呼んでほしい

翌朝、名札の白い部分は、一画ぶん増えていた。


文字は、まだ読めた。


ましろが廊下を通ると、名札の持ち主が扉の前に立っていた。


昨日と同じ場所。


けれど、今日はましろの方を見た。


「ましろ」


呼ばれて、ましろは足を止める。


「どうしたの?」


その子は、名札を見た。


「昨日は、呼ばなくていいって言ったけど」


「うん」


「今日は、呼んでほしい」


ましろは、すぐには答えなかった。


「名前を?」


「うん。聞こえるか、確かめたい」


その声を聞いて、ましろは廊下の先を見た。


澄が、門の方から戻ってくるところだった。


「院長先生に、呼んでもらってもいい?」


名札の持ち主が聞く。


澄は、名札を見る。


それから、相手の顔を見た。


「一度だけで、いいですか?」


「うん」


澄は、名札に書かれた名前を呼んだ。


声は、廊下まで届いた。


けれど、名前の最初の音だけが、途中で失われた。


その子は、少し目を細めた。


「聞こえなかった」


「最初の音が?」


「うん」


「でも、呼んでくれたことは分かった」


澄の手が、名札へ伸びかける。


途中で止まった。


「もう一度、呼びましょうか」


名札の持ち主は、首を横に振った。


「今は、いい」


澄は、呼ばなかった。


ねむが、廊下の壁にもたれていた。


「待ってる間に、先に減ることもある」


ましろは、ねむを見る。


「うん」


「でも、勝手には呼べない」


澄が言った。


その声には、昨日までよりもはっきりとした迷いがあった。


「呼ばないでいる間に、返事まで届かなくなったら」


「だから、今日、呼んでほしいって言いました」


名札の持ち主は、自分の喉に触れた。


「呼ばれないままの方が、怖いから」


ましろは、返す言葉を探した。


けれど、先に澄が頷いた。


「分かりました」


それだけ言って、もう一度は呼ばなかった。


杖の宝石の奥で、レムが小さく息を吐く。


「一度、届かなかったからといって、全部が失われたとは限らないわ」


ねむが名札を見る。


「届かなかったことは、残る」


「そうね」


「それも、覚えておく?」


ましろは、名札の白い部分を見た。


「うん。聞こえなかったことも」


食堂の入口から、紙をこする音がした。


悠太が、わすれないノートを持って立っていた。


「昨日の空白の下、書いていい?」


「何を?」


「呼んでほしいって言ったこと」


悠太は、名札の持ち主を見る。


「名前は、書かない」


その子は、少し考えてから頷いた。


「名前は、名札にあるから」


悠太は、ノートを開いた。


昨日の歌の空白の下に、ゆっくりと文字を書く。


呼んでほしい、と言った。


書き終えると、鉛筆を置いた。


「これで、忘れない?」


ましろが聞く。


「全部は無理かもしれないけど」


悠太は、空白の残るページを見た。


「言ったことは、書いた」


「うん」


その時、門の方で蔦の葉が揺れた。


風はなかった。


門の鐘が、左右に揺れている。


音は、しなかった。


ねむが、窓の外を見る。


「今度は、風がない」


ましろは、鐘に近づかなかった。


澄も、手を伸ばさなかった。


名札の持ち主は、自分の喉に触れたまま、門を見ている。


「明日も、呼んでほしい時は言ってください」


澄が言った。


その子は、頷いた。


門の鐘は、風のないところで揺れていた。


音は、まだしなかった。

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