第43話 鳴らない鐘
翌日になっても、名札の文字は読めた。
朝に見た時と、昼に見た時で、薄さは変わらなかった。
それでも、ましろは何度も扉の前を通った。
名札の持ち主が、そこにいることを確かめるように。
夕食前、澄が廊下でその子を呼び止めた。
「食堂へ行きましょう」
そう言ってから、澄は名札に書かれた名前を呼んだ。
声は聞こえた。
けれど、名前の最初の音だけが、廊下の途中でなくなった。
ましろは、澄の口元を見ていた。
呼んだことは分かる。
何を呼んだのかだけが、聞き取れなかった。
名札の持ち主も、少し遅れて顔を上げた。
「今、呼びましたか」
「ええ」
「名前は、聞こえました?」
澄は、すぐには答えなかった。
「最初の音が、聞こえませんでした」
その子は、自分の名札を見る。
文字は、まだ読める。
「でも、返事はできます」
「そうですね」
澄は、もう一度名前を呼ぼうとした。
けれど、その前に相手へ顔を向ける。
「もう一度、呼んでもいいですか?」
名札の持ち主は、少し考えた。
それから、首を横に振った。
「今は、いいです」
澄は頷いた。
名前を呼ばなかった。
ねむが、廊下の窓際から名札を見ていた。
「音のない名前」
「名前が消えたの?」
ましろが聞く。
「文字はある」
ねむは、名札の白い部分を見た。
「音だけ、聞こえなかった」
杖の宝石の奥で、レムが小さく息を吐いた。
「声が消えたとは言えないわ」
「聞こえなかった」
「そうね。それ以上は、まだ」
ましろは、名札の持ち主を見る。
「返事は、できたんだよね」
「うん」
「じゃあ、今はそれでいい」
その子は、名札に触れなかった。
ましろも、触れなかった。
食堂の入口から、紙をこする音が聞こえた。
悠太が、わすれないノートを抱えて立っている。
「ましろお姉ちゃん、これ」
開かれたページには、悠太が歌を聞きながら描いた丸い印がいくつか並んでいた。
その途中に、一つだけ空白がある。
「昨日の歌?」
ましろが聞く。
悠太は頷いた。
「ここ、まだ歌えない」
「誰の歌かは、分かった?」
「分からない」
悠太は、空白の横を指でなぞった。
「だから、名前は書いてない」
ねむが、ページをのぞき込む。
「書けば、違う歌になるかもしれないし」
悠太は、少し考えてから言った。
「空いてるところは、空いてるままにするの」
ましろは、ノートの端を押さえた。
「うん」
「忘れちゃわない?」
「空いてることを、覚えておけばいいよ」
悠太は安心したように、ノートを閉じた。
その時、食堂の奥から短い歌声が流れてきた。
昨日と同じ旋律かどうかは、分からない。
丸い印の並びと同じところで、音が一つ抜けた。
悠太の指が、閉じたノートの表紙の上で止まる。
誰も、その空白を埋めなかった。
夕方。
門のそばを通った時、風が吹いた。
蔦の葉が揺れる。
門の鐘も、左右に揺れた。
けれど、音はしなかった。
ましろは、門の上を見上げる。
「揺れたね」
「鳴ってない」
ねむが言う。
「うん」
「壊れたのかな」
「分からない」
ましろは、鐘に手を伸ばさなかった。
触れば、確かめられるかもしれない。
でも、確かめることは、決めることに近い気がした。
風が止んだ。
鐘の揺れも止まる。
名札には、名前が残っていた。
ノートには、空白が残っていた。
門には、鐘が残っていた。
音だけが、どこにもなかった。




