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第40話 聞こえた

朝になっても、ねむの影は遅れなかった。


ねむが起き上がる。


影も、同じ速さで起き上がる。


ねむは壁を見たまま、しばらく動かなかった。


「今日は、ちゃんと一緒」


ましろが言う。


「昨日は?」


「少し遅れてた」


「じゃあ、直ったのかな」


「直ったとは言ってない」


ねむは壁から目を離した。


「今日は、遅れなかっただけ」


ランタンは、枕元で燃えていた。


青黒い硝子の内側に、指の跡が残っている。


昨日と同じ形。


火は、指の跡のそばで静かに燃えていた。


「夢は見た?」


ましろが聞く。


「見なかった」


「覚えてないんじゃなくて?」


「見なかった。たぶん」


「たぶんが付くんだ」


「寝起きだから」


ねむはランタンを見た。


「夢の中の私も、まだ寝てるかもしれない」


「それなら、昨日と同じだね」


「同じではない」


ねむは影を見た。


「今日は、影が起きてる」


朝食は、昨日と同じように部屋で食べた。


澄が置いていった盆には、パンとスープが二人分ある。


ねむはパンをひと口食べた。


「今日は、やわらかい」


「昨日との比較が早いよ」


「昨日は固かった」


「パンにも事情があるんだよ」


「パンの事情は、聞いてない」


ましろが笑った。


ランタンの火は揺れなかった。


その時。


コン。


二人の手は、ランタンに触れていなかった。


ましろのスプーンが、盆の上で止まる。


ねむは火を見た。


「今の、聞こえた?」


「うん」


「返事?」


「決めない」


「そうだった」


杖の宝石の奥で、レムが小さく息を吐いた。


「私にも聞こえたわ」


「レムにも?」


「ええ」


ねむは、ランタンから目を離さなかった。


「誰が鳴らしたの?」


ましろが聞く。


ねむは答えなかった。


「聞こえたことだけ、覚えておく」


「それでいいの?」


「それしか、分からない」


昼になると、ねむは椅子を窓のそばへ移した。


ランタンも、机の端に置く。


近すぎず、遠すぎない場所。


「今日は質問しないの?」


ましろが聞いた。


「しない」


「ランタンに?」


「うん」


「どうして?」


「質問すると、返事を待つから」


ねむは窓の外を見た。


「今日は、返事じゃなくて、聞く」


「何を?」


「分からない音」


「それ、聞けるの?」


「聞こえたら」


廊下を、誰かが走っていった。


遠くで扉が閉まる。


食器の触れ合う音。


子どもの笑い声。


ねむは、そのひとつひとつを聞いていた。


ランタンは黙っていた。


夕方、窓の光が薄くなった。


ねむは火の前に座った。


「今日は、夢を見るか聞かない」


ましろが、少しだけ眉を上げる。


「聞かないで寝るの?」


「うん」


「夢を見たら?」


「見たってこと」


「見なかったら?」


「見なかったってこと」


ねむは布団を整えた。


「夢を見ることと、夢の中で扉を開けることは、同じじゃないから」


「それ以上は、決めない」


「分かった」


ましろは部屋の外へ出た。


「呼んだら来るから」


「走らないでね」


「走らない」


「心も」


「……気をつける」


ねむは、少しだけ笑った。


ましろが扉を閉める。


ねむはランタンを枕元に置いた。


火は、消えなかった。


目を閉じる。


夢の中で、ねむは廊下に立っていた。


手には、ランタンがあった。


昼とも夜ともつかない色。


白い面を向けた名札。


音のない足元。


今回は、影が先にいなかった。


ねむの隣に立っている。


影は、もう遅れなかった。


ねむが一歩進むと、影も一歩進んだ。


廊下の突き当たりに、名札のない扉がある。


取っ手はない。


扉の下から、ランタンと同じ色の光が細く漏れている。


影は、扉へ手を伸ばした。


ねむは手首をつかまなかった。


影の指先が、扉の手前で止まる。


コン。


一回だけ。


ねむは、扉を見た。


「聞こえた」


返事はなかった。


ねむは、もう一度言わなかった。


光の向こうで、かすかな息がした。


吸って。


吐く。


ねむの呼吸より、ほんの少し遅れている。


影が、ねむの方を向いた。


顔はない。


それでも、待っているように見えた。


ねむは名前を呼ばなかった。


扉にも。


影にも。


ただ、ランタンを持ち上げた。


硝子の内側で、指の跡が淡く光る。


火は消えなかった。


ねむが目を開ける。


部屋の天井が見えた。


扉の外に、ましろの気配があった。


名前を呼ぶより先に、音がした。


コン。


ましろが、今度こそ呼ぶ。


「ねむ?」


ねむは、すぐには返事をしなかった。


硝子の内側に残る指の跡を見た。


「聞こえた」


ましろは、何を聞いたのか尋ねなかった。


ねむも、それ以上は言わなかった。


ランタンの火だけが、静かに燃えていた。

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