第39話 一回ずつ
硝子の内側で音がしたあと、ねむはしばらく動かなかった。
ランタンの火も、動かなかった。
まっすぐ立っている。
風がないからではなく、何かを待っているみたいに。
扉の外から、ましろの声がした。
「入っていい?」
ねむは火を見たまま答えた。
「うん」
扉がゆっくり開く。
ましろは部屋へ入り、後ろ手に扉を閉めた。
鍵はかけなかった。
「指の跡、まだある?」
「ある」
ねむはランタンを少しだけ持ち上げた。
青黒い硝子の内側。
火のすぐそばに、小さな跡が残っている。
指を押しつけて、離した形。
ましろは顔を近づけた。
「触らないの?」
「まだ、向こうからしか触ってないから」
ねむの手は、硝子の手前で止まっていた。
「何だと思う?」
ましろが聞く。
「思わないようにしてる」
「難しくない?」
「難しい」
ねむはランタンを机へ戻した。
「寝るより疲れる」
「ねむがそれを言うと、すごく疲れそう」
「すごく疲れてる」
そう言って、ねむは欠伸をした。
ましろの杖の宝石が淡く光る。
レムは、さっきから起きていたらしい。
「結論から言うと、分からないわ」
ねむが杖を見る。
「珍しい」
「分からないものを分からないと言えるのも知性よ」
「今日は知性的」
「常に、よ」
レムは言い返したが、声にはいつもの勢いがなかった。
宝石の奥から、ランタンの火を見ている。
「少なくとも、開けないで」
「開けない」
ねむは即答した。
「扉も、ランタンも」
レムは何も言わなかった。
ましろも黙っていた。
言わないことが、三人のあいだで同じ形になった。
その夜、ねむは夢を見なかった。
ランタンも、朝まで黙っていた。
朝食は、部屋で食べた。
澄が扉の外へ置いてくれた盆には、パンとスープが二人分あった。
ねむは片手でパンをちぎりながら、もう片方の手をランタンのそばに置いている。
触れないくらいの距離。
遠くもない距離。
「見張ってるの?」
ましろが聞く。
「見てるだけ」
「違うの?」
「見張ると、悪いことをする前提になる」
ねむはパンをひと口食べた。
少し考えてから、眉を寄せる。
「今日のパン、固い」
「今それ言う?」
「返事を待つのと、パンが固いのは別」
「院長先生に言わないでね」
「言わない。パンに罪はない」
ましろは笑いかけて、途中で口元を押さえた。
小さな笑い声が、指の隙間から漏れた。
ランタンの火は揺れなかった。
笑い声に驚いた様子もない。
喜んだようにも見えない。
ただ、燃えている。
昼になっても、内側から音はしなかった。
ねむは机の前に椅子を置いた。
ランタンと向かい合う。
ましろはベッドの端に座った。
「何するの?」
「待つ」
「朝から待ってるよ」
「座り方を変えた」
「意味ある?」
「腰にはある」
ねむは背もたれに身体を預けた。
火の中の指跡を見る。
「聞こえてる?」
返事はなかった。
火も動かない。
ねむは、もう一度聞かなかった。
ましろが小さな声で言う。
「一回なら、はいってことかな」
「決めない」
「じゃあ、二回なら?」
「二回鳴ったってこと」
「それだと、話せなくない?」
「話せるところまで話す」
ねむは頬杖をついた。
眠そうな目のまま、硝子の奥を見ている。
「向こうが決めてないことまで、こっちで決めない」
ましろは膝の上で手を組んだ。
「うん」
窓の外では、洗濯物が風に揺れていた。
廊下を走る子どもたちの足音がする。
誰かが転び、すぐに笑う。
いつもの午後だった。
ランタンの火だけが、朝から同じ場所にいる。
ねむは何度か眠りかけた。
そのたびに顎が落ち、また上がる。
ましろが毛布を持ってくると、ねむは首を横に振った。
「寝ないの?」
「まだ」
「また、まだ?」
「便利だから」
「便利じゃないって言ってなかった?」
「言葉は使い方で変わる」
「ねむが言うと、ずるい」
「だいたいの言葉は、少しずるい」
夕方。
窓の光が薄くなり、ランタンの火が部屋の中で目立ち始めた。
ねむは椅子から立った。
火の前にしゃがむ。
「ひとつ、聞く」
ましろが息を止めた。
ねむは、硝子には触れなかった。
「夢を見てもいい?」
長い沈黙があった。
返事は来なかった。
ねむは立ち上がった。
「今日は見ない」
「昨日は一回、返ってきたのに?」
「あれは、夢を見ていいって意味じゃない」
ましろは少しだけ目を伏せた。
「そっか」
「うん」
ねむはランタンの火に背を向けた。
それ以上、答えを待たなかった。
夜になると、ましろは自分の部屋へ戻った。
「呼んだら来るから」
扉の前で、ましろが言う。
「走らないでね」
「走らない」
「心も」
「……気をつける」
昨日と同じ返事だった。
でも今日は、少しだけ笑っていた。
扉が閉まる。
ねむはランタンを枕元へ置いた。
壁に影が映る。
足元から、きちんと続いている。
まだ少しだけ、顔の向きが遅い。
ねむは布団へ入り、火を見た。
「おやすみ」
返事はなかった。
ねむは、それを返事にしなかった。
しばらくして、指を一本伸ばす。
硝子の外側を、爪の先で軽く叩いた。
コン。
一回だけ。
火が細く揺れる。
硝子の内側で、指の跡が濃くなった。
コン。
向こうからも、一回だけ。
ねむはもう叩かなかった。
内側の指跡へ、外側から指を重ねる。
硝子一枚ぶん、触れないまま。
一回ずつ。
それで、今夜は終わりにした。
ねむが目を閉じる。
壁の影も、今度は遅れなかった。




