第38話 眠りの外の火
三回目のノックのあと、扉の向こうは静かになった。
ねむは目を開けたまま、眠っていた。
ましろを見ているようで、見ていない。
壁に映った影だけが、ねむの足元から離れていた。
影は扉の前に立ち、取っ手には触れずに、じっと向こう側をうかがっている。
ましろは、夢の中には入らなかった。
ねむが「まだ」と言ったからだ。
その一言は、眠っている人の口から出たものにしては、はっきりしていた。
それでも影は戻らなかった。
ましろは何度か、ねむの名前を呼びかけそうになった。
でも、声にしなかった。
呼べば届くことと、呼んでいいことは、同じではない。
朝の鐘が、遠くで一度鳴った。
その音に合わせるように、ねむのまぶたがゆっくり閉じた。
壁の影は、足元へ戻ったように見えた。
ましろは、そこで初めて息を吐いた。
窓の外が少しずつ白くなっていく。
夜の色が、廊下の床からゆっくり退いていく。
しばらくして、扉が開いた。
ねむが顔を出す。
髪は寝癖で片側だけ跳ねていた。
「おはよう」
「おはよう。起きた?」
「たぶん」
「たぶん?」
ねむは自分の目を指でこすった。
「夢の中の私が、まだ寝てる」
「それは、起きたって言わないんじゃないかな」
「じゃあ、半分だけ起きた」
「便利だね」
「便利ではない。寝起きが二回ある」
ねむは部屋の中へ戻り、机の上のランタンを見た。
青黒い硝子の奥で、金色の火が静かに揺れている。
朝になっても、火は消えていなかった。
炎は小さい。
けれど、昨夜よりも濃く見えた。
「まだ燃えてる」
「うん」
「油、入れた?」
「入れてない」
「じゃあ、燃えるものがない」
「そうだね」
ねむは火を見たまま、少し考えた。
「困った」
困ったと言いながら、声にはあまり困った感じがなかった。
「怖くないの?」
「怖いよ」
「そうは見えない」
「怖い時に騒ぐタイプじゃないから」
「じゃあ、どういうタイプ?」
「寝る」
ましろは返事をしなかった。
ねむの影が、わずかに遅れて動いた。
ねむが右手を上げる。
影は一拍遅れて、同じように手を上げる。
けれど、その顔だけは扉の方を向いたままだった。
「影、戻ってない」
ねむが言った。
「戻ってるように見えるけど」
「足だけ」
ねむは影を見下ろした。
「あれは、まだ扉の前にいる」
ましろは、部屋の奥の扉を見た。
普通の扉だった。
木の表面。真鍮の取っ手。ねむの名前が書かれた小さな札。
昨夜、影が立っていた扉と同じものには見えない。
でも、同じなのだろう。
「夢の中にも、孤児院があったの?」
「あった」
ねむはベッドの端に腰を下ろした。
「ただ、部屋の名前が全部裏返しだった」
「裏返し?」
「白い面しか見えない。誰の部屋か、分からない」
ねむは膝の上で指を組んだ。
「子どもたちが寝てた。たぶん、みんな。顔は見えなかったけど、寝息だけはした」
「ねむは?」
「廊下を歩いてた」
「影と一緒に?」
「影が先」
ねむは、少しだけ眉を寄せた。
「私より、あれの方が起きてた」
「影のねむは、何をしようとしてたの?」
「扉を開けようとしてた」
「止めたの?」
「止めてない」
「じゃあ、どうして開かなかったの?」
ねむはランタンに目を戻した。
「私が、まだって言ったから」
「ねむが?」
「たぶん、影が」
「どっち?」
「私の声だった。でも、私の口は動いてなかった」
その言い方は、ねむらしく淡々としていた。
「扉の向こうには、何がいたの?」
ねむはしばらく答えなかった。
ランタンの火が、硝子の中で細く伸びる。
「分からない」
「見えなかった?」
「見なかった」
「どうして?」
「見たら、決めることになりそうだったから」
ましろは、ねむの顔を見た。
「何を?」
「開けるか、閉めるか。入れるか、入れないか。誰の夢か、誰の名前か」
ねむは、そこで言葉を切った。
「まだ、どれも決めてない」
ましろは、すぐには返事をしなかった。
窓から差し込んだ朝の光が、ランタンの火と混ざる。
二つの光は、同じ色にはならなかった。
「私も、行こうか」
ましろが言うと、ねむは首を横に振った。
「だめ」
迷いのない返事だった。
「ましろが来ると、あの扉はましろの方を開ける」
「どうして分かるの?」
「夢の中で、ましろの名前を呼びそうになった」
ねむはランタンの柄を握った。
「呼んだら、扉の向こうから返事が来た」
「なんて?」
「聞こえなかった」
「聞こえなかったのに、返事だって分かったの?」
「分かるよ。返事だけが先に来る声だった」
ましろは、ソラの言葉を思い出した。
「名前を呼ばれる前に、返事だけさせられたみたいだった」
胸元の宝石が、かすかに熱を持つ。
ねむはそれに気づいたのか、ましろを見る。
「だから、来ないで」
「うん」
「私が呼んだら来て」
「分かった」
ねむは少しだけ目を細めた。
「ちゃんと待てる?」
「待てるよ」
「ましろの待てるは、たまに走ってる」
「走ってない」
「心が走ってる」
「……気をつける」
ねむは、ようやく少し笑った。
昼過ぎ。
ねむは、自分から布団に入った。
ランタンは枕元に置いた。
「起こさないで」
「危なくなったら?」
「その時は起きる」
「本当に?」
「夢の中の私に聞いて」
それだけ言うと、ねむは目を閉じた。
ましろは部屋の外で待った。
扉は開けなかった。
ランタンの火が、隙間から廊下へ細い光を伸ばしている。
しばらくして、ねむの寝息が深くなった。
隙間の光を、何かが横切った。
夢の中で、ねむはランタンを持っていた。
孤児院の廊下は、昼とも夜ともつかない色をしている。
扉の名札はすべて裏返しで、白い面だけが並んでいた。
影のねむが、先を歩く。
足音はしない。
それでも、どこへ行くのかは分かっているらしかった。
廊下の突き当たりに、扉があった。
名札はない。
取っ手もない。
扉の下から、ランタンの火と同じ色の光が漏れている。
ねむが近づくと、扉の向こうで音がした。
コン。
コン。
コン。
影のねむが手を伸ばす。
ねむは、その手首をつかんだ。
影なのに、触れたところだけが少し温かい。
「まだ」
今度は、ねむ自身の声だった。
扉の向こうの光が、わずかに揺れる。
返事はなかった。
ねむはランタンを床に置いた。
火は消えなかった。
硝子の内側で、何かがこちらへ近づいてくる。
小さな影。
指のようにも見える。
けれど、ねむは名前を呼ばなかった。
「聞くだけにする」
影のねむが、こちらを向いた。
顔はなかった。
それでも、少しだけ安心したように見えた。
扉の向こうから、かすかな息が聞こえる。
ねむと同じ速さで、吸って、吐く。
まるで、扉の向こうにも、もう一人のねむがいるみたいだった。
ねむは耳を澄ました。
すると、硝子の内側から音がした。
コン。
一回だけ。
ねむは目を開けた。
部屋の天井が見えた。
枕元のランタンは、まだ燃えている。
ましろが扉の外から声をかけた。
「ねむ?」
「起きた」
「大丈夫?」
ねむは返事をせず、ランタンを見た。
青黒い硝子の内側に、小さな指の跡が残っている。
外側から触れた跡ではない。
内側から、こちらへ向かって押しつけられた跡だった。
「ねむ?」
ましろが、もう一度呼ぶ。
ねむはようやく顔を上げた。
「火の中に、誰かいる」
「誰?」
ねむは、硝子の奥の小さな光を見つめた。
「まだ、聞いてない」
ランタンの火が、静かに揺れた。
そして、今度は外側からではなく。
硝子の内側から、もう一度だけ叩いた。




