第37話 次の今日
翌朝。
時計台の針は、止まっていなかった。
一分。
また一分。
急ぐこともなく。
誰かを置き去りにすることもなく。
北棟の白い文字盤の上を、長い針がゆっくり進んでいる。
ましろは、学習室の窓辺でしばらくそれを見ていた。
普通の時計。
昨日までなら、そんなものを特別だとは思わなかった。
けれど今は。
時が進むことそのものが、誰かの許しを得た奇跡みたいに見える。
机の上には、出席帳が開かれていた。
新しい今日の頁。
子どもたちの名前が、朝の光の中に並んでいる。
久遠ましろ。
棘咲ねむ。
七瀬悠太。
黒鐘ヨル。
そして。
帳ソラ。
少し傾いた、鉛筆の文字。
誰かがきれいに書き直したものではない。
昨日、ソラが自分で書いた字が、そのまま頁の上に残っている。
その下には、
今日、ここにいる。
青灰色の文字。
もう、明日の欄から借りてきた言葉ではなかった。
今のソラが立つための一行だった。
「おはよう」
後ろから声がした。
ましろが振り返る。
ソラが学習室の入口に立っていた。
灰色の髪。
薄い色の瞳。
胸元には、白木の席札。
ソラの席。
帳ソラ。
今日、ここにいる。
また明日。
順番は、昨日のままだった。
明日より先に。
今日がある。
「おはよう、ソラ」
ましろが答える。
ソラは出席帳へ近づいた。
自分の名前を見つめる。
それから、ポケットの中へ手を入れた。
取り出したのは、悠太から借りた短い鉛筆だった。
昨日、ソラが自分の名前を書いた鉛筆。
「もう書いてあるよ」
ましろが言うと、ソラは頷いた。
「うん」
「じゃあ、何を書くの?」
ソラは少し考えた。
そして、自分の名前の横へ、小さな丸を一つ書いた。
上手な丸ではない。
少しだけ歪んでいる。
でも、ちゃんと閉じていた。
「これは?」
「確認」
「誰の?」
「僕の」
ソラは丸の中へ、さらに小さな点を打った。
「今日もいるって、自分で見た印」
ましろは、その小さな印を見た。
誰かがソラの存在を保証する印ではない。
誰かに呼んでもらえた証でもない。
ソラ自身が、今日の自分を見つけた印。
「毎日つけるの?」
「分からない」
ソラは鉛筆を見た。
「つけたい日は、つける」
「そっか」
「つけたくない日は、つけない」
「うん」
ましろは笑った。
「それがいいと思う」
ソラは少しだけ笑い返した。
その時。
廊下の向こうから、ばたばたと足音が近づいてきた。
悠太が学習室へ飛び込んでくる。
「ソラくん!」
「うん」
悠太はソラの手元を見る。
短い鉛筆。
目が少しだけ明るくなった。
けれど、すぐに真面目な顔を作る。
「返してくれる?」
「うん」
ソラは鉛筆を差し出した。
悠太は両手で受け取る。
大事なものを確かめるように、鉛筆をくるりと回した。
先端は、昨日より少しだけ丸くなっている。
「短くなった」
悠太が言う。
「ごめん」
「ううん」
悠太は首を横に振る。
「書いたから短くなったんでしょ」
「うん」
「じゃあ、いい」
悠太はスケッチブックを開いた。
そこには、昨日描いた頁がある。
新しい出席帳。
鉛筆を握るソラ。
その下に書かれた言葉。
ソラくんが、じぶんでかいた。
悠太は、その横へ今日の鉛筆を置いた。
「この鉛筆も、覚えてるかな」
ソラが聞く。
「何を?」
「僕の名前を書いたこと」
悠太は少し考えた。
「鉛筆は、覚えてないかも」
「そっか」
「でも、ぼくが覚えてる」
悠太はスケッチブックを抱える。
「それでいい?」
ソラは頷いた。
「うん」
その返事には、少しも寂しさがなかった。
道具が覚えていなくても。
誰かが記録している。
そして、自分も覚えている。
それで十分なこともある。
「でも」
悠太が言った。
「ソラくん、自分の鉛筆ないの?」
「ない」
「じゃあ、選ぼう」
「今?」
「今」
悠太は、学習室の棚へ走った。
箱の中には、使いかけの鉛筆が何本も入っている。
長いもの。
短いもの。
赤い軸。
黄色い軸。
木の色のままのもの。
星の模様がついたもの。
悠太は箱ごと机へ運んだ。
「好きなの選んで」
ソラは、すぐには手を伸ばさなかった。
鉛筆の箱を、じっと見つめている。
「全部、誰かの?」
「みんなで使うやつ」
「じゃあ、僕が選んでもいい?」
「いいよ」
悠太は当たり前のように言った。
ソラは一本ずつ眺めた。
きれいなものではなく。
一番長いものでもなく。
最後に選んだのは、青灰色の軸をした鉛筆だった。
塗装が少し剥がれ、木の色が見えている。
「これ」
「それでいいの?」
悠太が聞く。
「うん」
「新しくないよ」
「僕も新しくないから」
ソラは言った。
ましろがソラを見る。
ソラは鉛筆を指先で回した。
「でも、今日から使える」
悠太は大きく頷く。
「じゃあ、ソラくんの」
「僕の?」
「選んだんでしょ」
「うん」
ソラは、青灰色の鉛筆を握った。
昨日の短い鉛筆よりも長い。
まだ、これから何度も削れる。
何度も書ける。
失敗したら、消して。
また書ける。
ソラは出席帳の丸の横へ、小さく日付を書いた。
今度は、少しだけ迷いながら。
でも、自分の字で。
「今日の鉛筆」
悠太が言う。
ソラは首を横に振った。
「今日からの鉛筆」
その言葉に、時計台の鐘は鳴らなかった。
何かを証明する必要もなかった。
ただ、針だけが一分進んだ。
*
朝食の食堂は、昨日までと同じようで。
少しだけ違っていた。
子どもたちはパンを取り合い。
ミルクをこぼし。
澄に注意され。
それでも、すぐに笑っていた。
ヨルは棚の近くに座っている。
本人は離れた席を選んだつもりなのだろう。
けれど、あかりの名前を置いた小さな棚から、いちばん近い椅子だった。
棚には、淡い文字が残っている。
あかり。
呼ばれていない。
返事もしていない。
けれど、なくなってはいない。
ソラはミルクのカップを持ちながら、その棚を見た。
それから、自分の胸元の席札を見る。
ヨルが視線に気づく。
「何」
「違うね」
「何が」
「ヨルは置いた」
ソラは棚を見る。
「僕は書いた」
ヨルは少し黙った。
「違う」
「うん」
「でも」
ヨルはパンをちぎる。
「どっちも、勝手に決められなかった」
ソラが少し目を見開く。
ヨルは続けた。
「あかりは、まだ置く」
「うん」
「帳ソラは、書くって決めた」
「うん」
「それだけ」
短い言葉だった。
けれど、ましろには分かった。
受け取らない自由。
引き受け直す自由。
ヨルとソラは、同じ答えを選ばなかった。
でも、どちらも自分で選んだ。
「ヨルは」
ソラが聞く。
「あかりを、いつか戻す?」
ヨルはすぐには答えなかった。
棚の文字を見る。
「分からない」
「そっか」
「でも」
ヨルの視線が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「なくさない」
ソラは頷いた。
「うん」
その時、年少の子がソラの隣へ走ってきた。
「ソラくん!」
「何?」
「今日も絵本読んで!」
「うん」
「明日も!」
ソラの席札は揺れなかった。
ソラは一度、今日の文字へ触れる。
そのうえで答えた。
「明日のことは、明日決める」
年少の子は少し首を傾げた。
「今日は読む?」
「今日は読む」
「じゃあ、いい!」
子どもは満足して走っていった。
ヨルが言う。
「使い分けてる」
ソラは少し笑った。
「全部、また明日って言わなくてもいいから」
「うん」
「でも、言っても落ちない」
「うん」
「便利」
「便利って言うと、少し違う」
「じゃあ、まし」
ソラがヨルを見る。
「ヨル語?」
「違う」
ねむの席から、ぼそりと声がした。
「ヨル語」
ヨルが顔をしかめる。
「寝てろ」
ねむは食卓へ突っ伏したままだった。
朝食のスープには、まだ一口も手をつけていない。
目は閉じている。
けれど、眠ってはいなかった。
夢見のランタンを、椅子の横へ置いている。
青黒い火は、朝になっても消えていない。
「ねむ」
ましろが呼ぶ。
「何」
「昨日、寝た?」
「寝た」
「どのくらい?」
「時計台の針が三回動くくらい」
「三分?」
「たぶん」
「それは寝たって言わないよ」
「昨日も聞いた」
ねむは顔を上げない。
声だけが少し掠れている。
澄が鍋を置き、ねむのそばへ来た。
「今日は休んでください」
「休んでる」
「眠ってください」
「それは仕事」
「夢を見ることが?」
「夢を見ないようにすることが」
食堂が少し静かになった。
ましろは、ねむのランタンを見る。
火は小さい。
でも、消えそうには見えない。
むしろ、誰かが中から息を吹きかけているように、一定の間隔で揺れている。
「夢を見ないようにしてるの?」
ましろが聞く。
ねむは、ようやく片目を開けた。
「私が寝ると、ランタンも内側を向く」
「内側?」
「普段は、誰かの夢へ道を作る」
ねむはランタンへ手を伸ばす。
「でも、私が眠ると。道が私の方へ戻る」
レムが宝石の中で腕を組んだ。
「自分の夢を見るのが嫌なの?」
「嫌というか」
ねむは少し考えた。
「知らない」
「自分の夢なのに?」
「夢見は、他人の夢ほどよく見える」
ねむは言った。
「自分の夢は、目が近すぎて見えない」
ヨルが低く言う。
「寝不足の言い訳」
「半分」
「残り半分は」
ねむは、ほんの少しだけ顔を上げた。
「昨日から、火が消えない」
誰もすぐには答えなかった。
夢見のランタン。
青黒い火。
ソラの昨日へ入り。
明日の側を訪ね。
綴じ目の境界を支え。
時間のない場所から、今日へ戻ってきた火。
役目を終えたはずだった。
それなのに、まだ燃えている。
「消そうとした?」
ましろが聞く。
「した」
「どうなった?」
「消した方が、明るくなった」
「何それ」
「私も嫌」
ねむはランタンを持ち上げた。
息を吹きかける。
青黒い火が、一度だけ小さくなる。
次の瞬間。
火は前より少し大きくなった。
食堂の壁へ、ランタンの影が伸びる。
ねむの腕。
ランタンの枠。
細い取っ手。
けれど。
壁に映った影には、もう一つあった。
ねむの隣に。
誰かが座っているような影。
小さな頭。
膝を抱えた身体。
「ねむ」
ましろが立ち上がる。
「分かってる」
ねむの声から、眠気が消えた。
ヨルも黒い鐘の杖へ手を伸ばす。
ソラは席札を押さえた。
悠太はスケッチブックを開く。
けれど、影は動かなかった。
ただ。
ねむと同じように。
食卓へ頬をつけている。
「これ、誰?」
ましろが聞く。
ねむはランタンの火を見た。
「分からない」
「夢?」
「たぶん」
「誰の?」
ねむは答えなかった。
壁の影が、ゆっくり顔を上げた。
顔はない。
目も口も見えない。
それでも、こちらを見たと分かった。
ランタンの中で、時計の音がする。
かち。
かち。
小さな音。
北棟の時計台とは違う。
針が進む音ではない。
同じ場所を、何度も踏んでいる音。
かち。
かち。
かち。
ねむが立ち上がった。
少しふらつく。
ましろが手を伸ばす。
ねむはその手を見る。
そして、避けなかった。
ましろはねむの腕を支える。
「寝よう」
「嫌」
「でも」
「寝たら、これが開く」
ねむはランタンを見た。
「何が?」
「分からない」
「分からないから、寝ないの?」
「うん」
「ねむ」
ましろは少し考える。
「一人で見なくていいよ」
ねむの眉が動く。
「夢の中に来る気?」
「勝手には行かない」
ましろは答えた。
「ねむが来てって言うなら」
「言わない」
「じゃあ行かない」
「でも、外にはいて」
「うん」
ねむは、ましろを見た。
眠そうな目。
ひどく疲れた目。
けれど、その奥には。
夢を見ることへの恐れが、はっきりあった。
ソラが静かに言う。
「戻る場所を作ればいい」
ねむがソラを見る。
「夢から?」
「うん」
ソラは自分の席札へ触れる。
「僕には今日のしおりがあった」
「私に席札はない」
「席札じゃなくても」
ソラは考える。
「ねむが、戻るって決めたもの」
悠太が手を挙げる。
「描く?」
ねむはすぐに首を横に振った。
「夢の中は描かないで」
悠太は頷く。
「外だけ?」
「外だけ」
「じゃあ、寝てるねむ?」
「それも少し嫌」
「ランタンだけ?」
ねむはランタンを見る。
「それなら」
少し迷ってから言う。
「いい」
悠太はスケッチブックを開く。
机の上のランタン。
その横に、何も描かない椅子。
椅子の下へ、一行。
ねむのいる場所。
ねむがその文字を見る。
「名前、書いた」
悠太が慌てる。
「だめだった?」
ねむは少し考えた。
「私が見てるから、今はいい」
「消す?」
「消さなくていい」
ヨルが黒い鐘の杖を持ち上げる。
「外を守る」
ねむが言う。
「夢には入らないで」
「入らない」
「呼ばないで」
「必要なら呼ぶ」
「勝手に起こすのも嫌」
ヨルは少し考えた。
「落ちたら呼ぶ」
「基準が雑」
「でも分かるでしょ」
「分かる」
レムが言った。
「私が火を監視するわ」
ねむが宝石を見る。
「自分で言うの、珍しい」
「あなたが眠っている間に、ましろが余計なことをしないように」
「私?」
ましろが声を上げる。
「心当たりが多いでしょう」
「最近は確認してるよ」
「七十三点」
「低くない?」
「成長点込み」
ねむが小さく笑った。
ほんの少し。
仲間にだけ見せる、眠そうな柔らかさ。
「じゃあ」
ねむはランタンを抱き上げた。
「寝る」
澄が頷く。
「客室を整えます」
「自分の部屋でいい」
「一人で?」
「外にいるんでしょ」
ねむはましろを見る。
「うん」
ましろは答えた。
「外にいる」
ソラも言う。
「今日にいる」
ヨルが杖を肩へ担ぐ。
「夢には入らない」
悠太はスケッチブックを抱える。
「外だけ描く」
レムが言った。
「火は私が見る」
ねむは全員を見た。
「多い」
「嫌?」
ましろが聞く。
ねむは少しだけ目を伏せた。
「面倒」
「嫌?」
もう一度聞く。
ねむは長く黙った。
そして。
「嫌じゃない」
小さく答えた。
*
ねむの部屋は、思っていたより何もなかった。
低い寝台。
小さな机。
閉じたカーテン。
読みかけの本が二冊。
どちらも栞が最初の頁に挟まっている。
「読んでない?」
ましろが聞く。
ねむは寝台へ腰を下ろす。
「読む予定を置いてある」
「それ、読んでないってことでは」
「予定は大事」
夢見のランタンを、枕元の小さな台へ置く。
青黒い火は、まだ消えない。
壁へ映る二つ目の影も、ついてきていた。
寝台へ座るねむ。
その隣へ。
影のねむが座る。
同じ姿勢。
けれど、ほんの少しだけずれている。
「やっぱり、いる」
ましろが言う。
「うん」
「怖い?」
ねむは靴を脱いだ。
「かなり」
ましろは答えなかった。
ねむが怖いと言った時。
大丈夫とは言わない。
怖くないとも言わない。
「外にいる」
それだけ言った。
ねむは頷く。
横になる。
毛布を胸元まで引き上げる。
夢見のランタンへ背を向けた。
「ましろ」
「何?」
「呼んでも返事しなかったら」
ましろは息を止める。
ねむは目を閉じたまま続ける。
「すぐに入ってこないで」
「うん」
「まず、三回呼んで」
「うん」
「それでも返事しなかったら」
ねむの指が、毛布を少し握る。
「ヨルに鐘を鳴らしてもらって」
「うん」
「それでも戻らなかったら」
ましろは待った。
ねむが自分で続けるのを。
「その時は」
ランタンの火が揺れる。
壁の影が、ゆっくり顔を上げる。
「その時は、来て」
ましろは頷いた。
「分かった」
「勝手に先へ行かないで」
「行かない」
「見えても、全部言わないで」
「ねむが決めるまで言わない」
「私が、見ないって言ったら」
「閉じる」
ねむは、ようやく少しだけ力を抜いた。
「満点」
「レムじゃなくて、ねむが採点するの?」
「採点権の無秩序化」
廊下からレムの声がした。
「聞こえてる」
ねむが言う。
「聞かせたのよ」
ましろは寝台の横へ椅子を置いた。
「おやすみ、ねむ」
ねむは目を閉じている。
「おやすみは、少し嫌」
「じゃあ」
ましろは考えた。
「今日、ここで待ってる」
ねむの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「それでいい」
呼吸が、少しずつ深くなる。
一度。
二度。
三度。
ねむの身体から力が抜けていく。
夢見のランタンの火は、逆に少しずつ大きくなった。
青黒い光が部屋の天井へ伸びる。
壁に映る二つ目の影が立ち上がる。
寝台のねむは眠っている。
けれど、影のねむは眠らない。
ランタンを持っている。
本物のランタンは枕元にあるのに。
影の手の中にも、もう一つ。
火の消えたランタンがあった。
ましろは息を呑む。
呼ばない。
まだ。
ねむは眠ったばかりだ。
約束した。
まず、待つ。
影のねむは、部屋の壁へ歩いていく。
そこには扉などない。
けれど、影が手を触れると。
壁の中に、細い縦線が生まれた。
扉の形。
ランタンの火が、低く揺れる。
かち。
かち。
あの時計の音。
同じ場所を踏み続ける音。
ねむの唇が動いた。
眠ったまま。
声は出ていない。
けれど、ましろには読めた。
まだ。
呼ばない。
ましろは動かなかった。
扉の隙間から、白い光が漏れる。
朝の光ではない。
夜明け前。
夜でも朝でもない色。
未明の白。
影のねむが、その扉へ耳を当てる。
向こう側から。
誰かが、扉を三回叩いた。
とん。
とん。
とん。
ねむの呼吸が止まった。
ましろは椅子から立ち上がる。
「ねむ」
一回目。
返事はない。
扉の向こうでもう一度。
とん。
「ねむ」
二回目。
ランタンの青黒い火が、白く変わり始める。
影のねむが、ゆっくり振り返る。
顔は見えない。
けれど。
その口元だけが、笑ったように見えた。
ましろは胸元の宝石へ触れた。
三回目を呼ぶ前に。
眠っているねむの指が、毛布の上で小さく動いた。
そして。
かすかな声がした。
「まだ」
ましろは止まる。
呼ばない。
鐘も鳴らさない。
夢へも入らない。
ねむが、まだと言ったから。
扉の向こうの音も止まった。
とん。
その一度だけを最後に。
影のねむは、扉の前で立ち尽くしている。
本物のねむは眠っている。
夢を見ているのか。
夢に見られているのか。
ましろには、まだ分からなかった。
夢見のランタンの火は。
朝になっても消えなかった。
そして、その白くなりかけた火の奥で。
眠っているはずのねむだけが。
ずっと、目を開けていた。




