第36話 今日をめくる
一刻は、思っていたより短かった。
北棟の時計台。
止まっていたはずの長い針は、もう終わりの刻のすぐ手前まで来ている。
ごり。
ごり。
遠いはずの歯車の音が、学習室の壁を通して聞こえていた。
机の上には、開かれたままの出席帳。
今日の頁。
帳ソラ。
今日、ここにいる。
焦げた青灰色のしおり。
その隣には、まだ白い明日の頁。
そして、頁と頁の綴じ目には。
ソラの名前そのものになった青い糸が、かすかに脈打っている。
出席帳の表紙には、燐灯堂の黒い紐が何本も絡みついていた。
一本。
二本。
三本。
細い紐なのに、ひどく重い。
紐の先で、小さな質札が揺れている。
本日分、終了。
明日未着。
査定準備。
ヨルは黒い鐘の杖を、表紙と机の隙間へ差し込んでいた。
「重くなってる」
短い声だった。
腕には力が入り、指先が白くなっている。
ねむは夢見のランタンを開き、青黒い火で今日と明日の境界を支えていた。
「世界、本を閉じることに熱心すぎ」
「一日を終わらせるための帳だからよ」
レムが星律の杖の宝石の中から答える。
「知ってる。役目に忠実なものほど面倒」
「今回は否定しないわ」
星守澄は、出席帳の上へ両手を置いていた。
昨日から、ほとんど場所を動いていない。
腕は震えている。
それでも、表紙を押さえる手を離さなかった。
悠太は机の横に立ち、スケッチブックを抱えている。
その手には、何度も削られて短くなった鉛筆。
名前を。
絵を。
忘れたくない言葉を。
何度も紙の上へ残してきた鉛筆だった。
ましろは星律の杖を握り、ソラの青い名前の線を白金の光で支えていた。
糸を引かない。
動かさない。
ただ、今いる位置から落ちないように。
ソラは出席帳の前に立っている。
胸元には席札。
ソラの席。
帳ソラ。
また明日。
今日、ここにいる。
その四つを、一度ずつ指先でなぞった。
「ソラ」
ましろが呼ぶ。
ソラは顔を上げた。
「うん」
「本当に、今やる?」
ソラは時計台を見る。
針は待ってくれない。
でも、誰かに急かされたから決めるのではない。
それだけは、もう違う。
「今やる」
声は震えていた。
けれど、逃げてはいなかった。
ねむがランタンを持ち直す。
「確認するよ」
「うん」
「今日は、青い糸を解く」
「うん」
「古い追記札から、名前を外す」
「うん」
「外した瞬間、名前はどの頁にもいなくなる」
ソラの喉が小さく動いた。
それでも頷く。
「うん」
「そのあと、明日の頁へ自分で書く」
「次の今日へ」
ソラが言い直した。
ねむの目が、少しだけやわらかくなる。
「うん。次の今日へ」
「そこまで、僕が決める」
「分かった」
ましろはソラを見る。
「手は?」
ソラは少し考えた。
それから、ましろへ右手を差し出す。
「綴じ目までは、つないでて」
「うん」
「糸を解く時は、離す」
「分かった」
「一人でやるって意味じゃない」
「うん」
「僕の手でやるって意味」
ましろは、その手を握った。
冷たい。
けれど、前より重い。
今日にいる人の手だった。
ヨルが黒い鐘の杖を押さえたまま言う。
「怖くなったら言え」
「うん」
「無理なら戻れ」
「うん」
「失敗しても」
ヨルは、そこで一度言葉を止めた。
「名前が悪いわけじゃない」
ソラがヨルを見る。
ヨルは出席帳から目を離さない。
「先に言っとく」
「何を?」
「たぶん、途中で自分のせいにするから」
ソラの目が揺れた。
「しないかもしれない」
「する顔」
「顔って、そんなにしゃべる?」
「しゃべる」
悠太が真剣に頷く。
「顔、けっこうしゃべるよ」
ソラは少しだけ笑った。
「分かった」
ねむがランタンを出席帳の綴じ目へ向ける。
青黒い火が、紙の隙間へ細く伸びた。
「入るよ」
「うん」
世界が、縦に開いた。
紙と紙が離れる。
さら。
昨日と明日の間に、細い白い道が現れる。
ましろはソラの手を握ったまま、その道へ踏み込んだ。
右側には、終わろうとしている今日の頁。
左側には、まだ誰も住んでいない明日の頁。
その間。
時間のない綴じ目。
頁の繊維が白い崖となり、三人の左右へそびえている。
音は薄い。
呼吸も。
足音も。
外から聞こえる時計台の歯車さえ、紙を何枚も挟んだ向こう側にある。
けれど。
黒い鐘の低い余韻だけは、足元に残っていた。
ごん。
戻る場所を示す音。
澄の手の温度は、出席帳の紙を通して白い壁の向こうにある。
悠太の鉛筆が紙へ触れる音も、遠くでかすかに続いていた。
ソラは奥を見る。
追記札。
大人の指二本分ほどしかない、小さな紙片。
日付も。
部屋番号も。
正式な印もない。
上端だけを青い糸で仮留めされている。
預かり。
帳ソラ。
その文字から伸びた青い光が、糸と重なり。
頁の綴じ目へ深く巻き込まれていた。
「ここだね」
ソラが言う。
ねむは頷く。
「うん」
「触るよ」
「うん」
「解く」
「うん」
ソラは、ましろとつないでいた手をゆっくり離した。
一人にはならない。
ましろは隣にいる。
ねむもいる。
外にはヨルがいる。
澄が頁を支えている。
悠太が今日を描いている。
レムが道を見ている。
けれど。
糸へ触れるのは、ソラの手だった。
ソラは両手を伸ばす。
青い糸へ指先が触れた。
その瞬間。
胸の奥を、冷たい光が貫いた。
「っ……」
ソラの身体が揺れる。
ましろは手を伸ばしかけた。
けれど、触れなかった。
ソラが自分で支え直したからだ。
「大丈夫じゃない」
ソラは先に言った。
ねむが頷く。
「学習してる」
「うん」
「やめる?」
ソラは首を横に振った。
「続ける」
青い糸は、きつく結ばれているわけではなかった。
むしろ、結び目らしい結び目がない。
紙を貫いた糸。
名前を運びかけた光。
閉じた頁の圧力。
何年でも、何十年でもない時間のなさ。
それらが重なり、ひとつの絡まりになっている。
切ることはできる。
けれど、切れば名前も傷つく。
ソラは、糸を少しずつ緩め始めた。
紙の繊維から一本。
頁の背から一本。
自分の名前へ食い込んだ光から、もう一本。
急がない。
時計台は進んでいる。
燐灯堂は待っている。
それでも、急いで名前を傷つけることはしない。
「ソラ」
ましろが呼ぶ。
「うん」
「ゆっくりでいい」
「でも、時間が」
「時間がなくても」
ましろは言った。
「ソラの名前を雑に扱う理由にはならないよ」
ソラは一度だけ、ましろを見る。
「うん」
その返事のあと、指の震えが少しだけ収まった。
青い糸が、一本分だけ緩んだ。
追記札が小さく揺れる。
預かり。
帳ソラ。
その文字が、淡く浮かび上がる。
同時に。
白い頁の向こうで、何かが動いた。
何も書かれていない名札。
白い名札が、一枚。
綴じ目の外側へ浮かぶ。
次に、二枚。
三枚。
白い名札は、露出し始めたソラの名前の線を見つめている。
名前を空白へ変えるために。
ソラの手が止まった。
「あれは」
声が細くなる。
「僕の名前を見つけて来たんだよね」
レムが宝石の中で目を細める。
「ええ」
「僕の名前が書かれたから」
ソラは追記札を見る。
「僕が、ここへ来たから」
「狙われた側のせいにするな」
黒い鐘の余韻に乗って、ヨルの声が届いた。
短く。
強く。
ソラは息を止める。
ヨルは続ける。
「来たことも」
ごん。
黒い鐘が鳴る。
「名前を書かれたことも」
もう一度。
ごん。
「お前の罪じゃない」
ソラは白い名札を見る。
「でも、僕の名前の道を」
「あなたが来たことが原因ではないわ」
レムが言った。
「正式な頁の守りの外へ、名前へ続く道だけが露出していた。その隙間を、白い札が検知したのよ」
「僕の名前が悪かったんじゃない?」
「名前は悪くない」
ましろは答えた。
「ここへ来たことも」
ソラの目が揺れる。
「でも、みんなを危険に」
「守る場所が足りなかった」
ましろは言う。
「ソラが多すぎたんじゃない」
ねむも、低く続ける。
「追記札が小さすぎた」
外側から、澄の声が紙を通して届いた。
「あなたを正式な頁へ迎える前に、一日を終えようとした」
声は震えていた。
「制度の側が、あなたを待てなかったのです」
ソラは、長い間何も言わなかった。
白い名札は近づいてくる。
時計台の歯車は進んでいる。
それでも。
ソラは急いで答えなかった。
やがて、追記札を見つめたまま言う。
「僕の名前は、悪くない」
「うん」
ましろが答える。
「僕が来たことも」
「うん」
ソラは青い糸を、もう一度指で持つ。
「じゃあ、今度は」
少しずつ、絡まりを緩める。
「ちゃんと置く」
青い糸が、また一本ほどけた。
その時。
学習室の外から、けたたましい金属音が響いた。
ごり。
ごり。
ごり。
時計台の歯車が、急に速く動き始める。
白い名札の出現を、孤児院の防護機構が検知したのだ。
終鐘には、まだ早い。
けれど、時計台は鳴ろうとしている。
過去と同じように。
正式な頁にいる子どもを守るため。
本人の準備より先に、今日を閉じようとしている。
澄の声が響いた。
「待ってください」
歯車は止まらない。
学習室の現実側で、出席帳の表紙が強く下がる。
ヨルの黒い鐘の杖が軋む。
「澄!」
ましろが叫ぶ。
出席帳へ両手を置いていた澄は、時計台の方を見た。
かつて、幼い澄は待っていた。
絵本を開かず。
来なかったソラを。
けれど、待っていた記憶を明日の頁へ残し、大人になった。
制度を守る側になった。
今度は。
澄は出席帳へ、さらに強く両手を押し当てた。
星の線が腕から頁へ走る。
「今度は、待ちます」
その声で、学習室の空気が震えた。
時計台の歯車が、ほんの一瞬だけ遅くなる。
「本人が、自分で名を記すまで」
澄は表紙を支える。
「今度は、先に閉じません」
ごり。
歯車が抵抗する。
古い防護機構は、自分の判断が正しいと信じている。
白い名札が来た。
ならば頁を閉じる。
正式な名前だけを明日へ逃がす。
その規則しか知らない。
「待つことを、一人に押しつけるな」
ヨルが黒い鐘の杖を押し込む。
「今度は、私たちもいる」
ごん。
黒い音が、出席帳の背を支えた。
ねむはランタンを両手で掲げる。
青黒い火が、今日と明日の境界へ広がる。
「閉じるのも、開けるのも」
火が頁の縁を抱く。
「本人が決めるまで、保留」
悠太はスケッチブックへ必死に鉛筆を走らせる。
開いた出席帳。
押さえる澄。
杖を差し込むヨル。
ランタンを掲げるねむ。
名前の線を支えるましろ。
そして、青い糸を解くソラ。
紙の下へ、子どもの字で書く。
まだ、とじない。
その言葉が、現実の出席帳へ淡く移った。
時計台の針が震える。
鳴る。
まだ鳴らない。
鳴ろうとする。
止められている。
ソラは青い糸へ向き直った。
「今なら」
ねむが言う。
「解ける?」
「分からない」
「やめる?」
ソラは首を横に振った。
「解く」
青い糸の最後の絡まりへ、両手を添える。
それは追記札を留める糸であり。
明日へ届かなかった名前の線であり。
ソラを時間のない場所へ留め続けたものだった。
ソラは切らない。
引きちぎらない。
紙の繊維から。
古い頁から。
自分の名前から。
少しずつ。
少しずつ。
ほどいていく。
最後の輪が、指先を抜けた。
青い糸が自由になった。
追記札が、頁の綴じ目から外れる。
同時に。
帳ソラの文字が、紙から離れた。
青い光となって。
どの頁にも置かれず。
今日と明日のあいだへ浮かぶ。
ソラの輪郭が、透明になる。
ましろは息を呑んだ。
「ソラ!」
「ここにいる」
声は聞こえる。
けれど、姿が薄い。
名前が頁を失った。
追記札から外れ。
新しい頁にはまだ書かれていない。
所有者不在。
その言葉が、綴じ目の闇から浮かんだ。
ちりん。
燐灯堂の呼び鈴が鳴る。
白い頁の下から、黒い質札が何枚も這い上がってくる。
頁外名。
明日未着。
所有者不在。
査定開始。
黒い紐が、浮かんだ帳ソラの光へ伸びる。
丁寧な声が響く。
――ご本人様の所在が未確定。
――帰属する頁も未確定。
――ただいま、高価買取の対象でございます。
「売らない」
ソラが言う。
けれど、質札は止まらない。
――現在、正式な所有者の記録がございません。
「名前に所有者なんていない」
ましろが言う。
――それでは、所有権を取得した者が持ち主となります。
ヨルの黒い鐘が鳴る。
ごん。
値札の紐が一度だけ弾かれる。
けれど、今度は切れない。
名前がどの頁にも属していない。
燐灯堂の理屈が、一瞬だけ通る場所ができてしまった。
「ソラ!」
悠太が叫ぶ。
「書いて!」
悠太は、短い鉛筆をスケッチブックの上へ置いた。
開いた頁には、綴じ目に立つソラの姿が描かれている。
悠太が何度も描き続けてきた、「今日のソラ」。
その絵から、一本の白い線が伸びた。
名前へ向かう道ではない。
今ここにいるソラを記録した場所へ、道具だけを渡すための細い線。
短い鉛筆が、悠太の描いた線の上を滑る。
現実と綴じ目の境界を越え、ソラの手元へ届いた。
「これ、使って!」
ソラは鉛筆を見る。
短い鉛筆。
何度も削られた。
ましろお姉ちゃん。
売らない。
まだ、へんじしない。
今日、ここにいる。
忘れたくないものを、ずっと紙へ残してきた鉛筆。
ソラは手を伸ばしかけ、止まった。
「悠太の、大事なものじゃないの」
「だから使って」
悠太は即答した。
「ソラくんが、自分で書くんでしょ」
ソラの指が、鉛筆を受け取る。
その瞬間、鉛筆の傷が手のひらへ伝わる。
削られた跡。
何度も握られた跡。
失敗して消しゴムをかけた跡。
それでも、また書いた跡。
レムが言う。
「鉛筆が、あなたの名前を作るのではないわ」
「うん」
「悠太の記録は、あなたの手を支えるだけ」
「うん」
「名を選ぶのは、あなたよ」
白い明日の頁が、ソラの前へ開く。
まだ明日と呼ばれている頁。
けれど、次にめくられれば。
新しい今日になる頁。
ソラは鉛筆を握った。
その手は震えている。
「帳は」
澄の声が届く。
表紙を支えながら。
時計台の早鐘を止めながら。
「最初は、預かりの姓でした」
「うん」
「家族名を持たない子を、孤児院の帳へ置くための名です」
澄の声が、少しだけ揺れる。
「けれど、あなたが選ぶなら」
出席帳へ星の光が走る。
「今日からは、あなたの姓になります」
ソラは、白い頁を見る。
「ほかの名前を探してもいい?」
「ええ」
「帳を捨ててもいい?」
澄は一度、目を閉じた。
そして頷く。
「あなたが決めてよいのです」
ソラは席札を見る。
ソラの席。
帳ソラ。
また明日。
今日、ここにいる。
「帳がいい」
声は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
「なぜ?」
ましろが聞く。
ソラは、浮かんでいる自分の名前の光を見る。
「仮だったけど」
少し考える。
「名前のないままにはしなかったから」
追記札を見る。
預かり。
帳ソラ。
「今日まで、僕を呼べた名前だから」
それから、白い頁へ視線を戻す。
「でも、今度は預かりじゃない」
鉛筆を握り直す。
「僕が選ぶ」
黒い質札が、さらに近づく。
――ご本人による署名を確認。
――契約成立の準備を――
「違う」
ソラが言った。
鉛筆の先を、白い頁へ置く。
「これは、店に渡す署名じゃない」
最初の線を引く。
普通の黒い鉛筆の線。
魔法の光ではない。
子どもの手が書く、少し震えた線。
「僕が」
次の線。
帳。
複雑な文字。
一画ずつ。
急がず。
「僕の席に」
鉛筆が紙を擦る。
さら。
「書く名前」
帳。
最初の一文字が完成した。
出席帳の頁から、青灰色の光が立ち上がる。
質札の紐が一度止まる。
レムが言った。
「他人が記す名前は、その人へ向かう道になり得る」
白い頁の周りへ、星の線が広がる。
「でも、自分の意思で、自分の居場所へ記す名は違う」
ソラは次の文字を書く。
ソ。
「それは道ではない」
ラ。
「自分の席を、内側から作る印よ」
最後の線が引かれた。
帳ソラ。
ソラ自身の文字。
上手ではない。
少し傾いている。
帳の字は、途中で何度か震えている。
それでも。
誰にも代わってもらわず。
自分の手で。
自分が選んだ名前を。
新しい頁へ書いた。
浮かんでいた青い名前の光が、文字へ吸い込まれる。
ソラの輪郭が戻る。
灰色の髪。
薄い瞳。
冷たい手。
そこにいる身体。
黒い質札が、激しく震えた。
所有者不在。
その文字が白く滲む。
代わりに、頁の上へ青灰色の文字が浮かぶ。
本人自書。
席あり。
売却不可。
燐灯堂の声が歪む。
――自筆署名は契約として――
「違うって言った」
ソラが顔を上げる。
「僕は、僕を売ってない」
質札を見る。
「僕が、僕の今日を選んだ」
星の線が、黒い紐を内側から押し返す。
値札が一枚、燃える。
次に、もう一枚。
黒い紐は名前へ届かない。
外から伸びる道がない。
頁の内側に、ソラ自身が作った席がある。
白い名札も、窓の外で揺れている。
けれど、今度の名前の線は露出していない。
正式な頁の星の守りに包まれている。
空白を書き込む場所を見つけられない。
一枚ずつ。
白い粉となって、夜の中へほどけていく。
その時。
自由になった青い糸のもう一方から、温かな光が流れた。
明日の側へ残っていた記憶。
青い絵本。
幼い澄の笑い声。
「また明日、読んでね」
絵本を開かずに待った朝。
扉を見るたびに顔を上げたこと。
来なかったソラのために、同じ席を空けていたこと。
待つことをやめられなかった時間。
その全部が、青い糸を通って現在へ戻ってくる。
澄の身体が震えた。
出席帳を押さえていた手から、力が抜けかける。
ヨルが杖をさらに押し込む。
「離すな」
「はい」
澄は答える。
けれど、涙が次々に落ちる。
現在の澄の背後に。
白い髪の小さな少女が重なる。
幼い澄。
閉じた絵本を抱いて。
ソラを待っていた子。
小さな澄が、現在の澄へ一歩近づく。
二人の手が重なる。
青い絵本へ触れる仕草が、ひとつになる。
光が、現在の澄の胸へ吸い込まれた。
澄は息を呑んだ。
長い間。
声が出なかった。
ソラは、書き終えた鉛筆を握ったまま待った。
誰も急かさない。
時計台の歯車は、まだ鳴ろうとしている。
燐灯堂の紐も、完全には消えていない。
それでも。
ここだけは、待った。
澄が顔を上げる。
涙に濡れた目で、ソラを見る。
「思い出しました」
声が、幼い澄と重なっていた。
「あなたが、あの夕方に来たこと」
ソラの目が揺れる。
「絵本を、一緒に読んだこと」
澄は青い布張りの絵本を見る。
「あなたが、少しだけ誇らしそうに笑ったこと」
ソラは唇を噛んだ。
「そして」
澄の声が震える。
「私は、あなたを待っていた」
学習室が静かになる。
ソラは小さく頷いた。
「うん」
「毎朝、絵本を開かずに」
「うん」
「あなたが来ると思って」
「うん」
澄は、ようやく呼吸を取り戻す。
「私は、あなたを忘れたのではありませんでした」
「うん」
ソラは青い糸を見る。
もう、綴じ目へ巻き込まれてはいない。
「記憶が、明日に残ってた」
「はい」
「僕は、綴じ目にいた」
「はい」
ソラは少しだけ笑った。
泣いているようにも見えた。
「今は」
澄を見る。
「同じ今日にいる」
澄は口元を押さえた。
それでも、頷く。
「はい」
ごめんなさい。
その言葉が、澄の目に浮かぶ。
ソラには分かった。
けれど、澄はまだ言わない。
ソラが、いつ聞くかを決めるまで。
ソラは少し考えた。
「澄さん」
「はい」
「今なら」
澄の肩が震える。
「謝ってもいい」
澄は目を閉じた。
涙が落ちる。
「ごめんなさい」
短い言葉だった。
言い訳はなかった。
守るためだったとも。
自分のせいではなかったとも言わなかった。
ただ。
「あなたを、仮の場所へ置いたままにして」
澄は言う。
「待っていたことさえ、忘れたまま、大人になってしまって」
ソラは黙って聞いた。
怒っているのか。
許しているのか。
まだ分からない。
分からないまま、聞いた。
「うん」
それだけ答えた。
澄は、もう一度頭を下げる。
ソラは許すとは言わなかった。
許さないとも言わなかった。
でも。
謝罪は、今度は同じ今日へ届いた。
その時。
時計台の歯車が、再び大きく動いた。
ごり。
ごり。
終鐘が鳴ろうとしている。
出席帳は、まだ開いている。
今日の頁。
次の今日になる頁。
その両方が、ソラの前にある。
ヨルの腕が限界に近い。
ねむのランタンの火も細い。
ましろの杖から伸びる光が震えている。
悠太の鉛筆は、ソラの手の中。
燐灯堂の最後の黒い紐が、表紙へ絡みついている。
澄がソラを見る。
「どうしますか」
決めるのは、ソラだ。
かつては。
本人が何も知らないまま。
何も選べないまま。
早すぎる鐘が鳴った。
今度は違う。
ソラは、書き終えた頁を見る。
帳ソラ。
自分の字。
自分で選んだ姓。
自分で作った席。
その下へ。
もう一行、鉛筆を走らせる。
今日、ここにいる。
青灰色の文字が、黒い鉛筆の線へ重なる。
明日の頁だったものが。
次の今日になる準備を終える。
ソラは、澄を見る。
ましろを見る。
ねむを見る。
ヨルを見る。
悠太を見る。
レムを見る。
そして。
時計台を見た。
「閉じていい」
澄はすぐには動かなかった。
「本当に?」
ソラは頷く。
「うん」
「怖くありませんか」
「怖い」
ソラは正直に答える。
「でも」
新しい頁へ、自分で書いた名前を見る。
「今度は、僕が決めたから」
澄は涙を拭い、両手の力をゆっくり緩めた。
ヨルも、黒い鐘の杖を表紙から抜く。
ねむはランタンの境界を少しずつ閉じる。
ましろは、ソラの名前の線から光を離す。
支える手を放す。
手放すのではない。
自分で立てるようになった場所から、退く。
出席帳の表紙が、ゆっくり下りる。
黒い値札の紐が、最後に締めつけようとする。
けれど、ソラの頁から伸びた星の線が、それを弾いた。
黒い紐が焼ける。
燐灯堂の声が、遠くで歪んだ。
――本人帰属、確認。
――自筆記名、確認。
――査定不能。
質札が、灰になった。
出席帳が閉じる。
ぱたん。
小さな音。
その直後。
北棟の時計台の鐘が鳴った。
ごん。
ソラの身体が、ほんの少し震えた。
かつて、自分だけを置き去りにした音。
けれど今度は。
誰より先に。
ソラ自身が、その音を受け取った。
「うん」
小さく返事をする。
ごん。
二度目の鐘。
今日の頁が終わる。
新しい頁が開く。
出席帳が、誰の手も触れていないのに、ゆっくりと表紙を持ち上げた。
次の頁。
新しい今日。
そこには、すでに名前があった。
帳ソラ。
少し傾いた、子どもの字。
その下に。
今日、ここにいる。
文字は薄くならない。
遠ざからない。
頁の上に、きちんと座っている。
時計台の止まっていた針が、最後の一分を進んだ。
そして。
今度は止まらなかった。
一分。
また一分。
普通の時計のように。
ゆっくり。
当たり前に。
時を刻み始めた。
ソラは、開いた頁を見ていた。
「僕」
声が小さい。
「明日に来た?」
レムが答える。
「いいえ」
ソラの目が揺れる。
レムは薄く笑う。
「明日だった頁が、あなたの今日になったのよ」
ソラは、もう一度自分の名前を見る。
「そっか」
「不満?」
「ううん」
ソラは少しだけ笑った。
「その方がいい」
悠太が、ソラの手の中の鉛筆を見る。
「返してくれる?」
「うん」
ソラは鉛筆を差し出しかける。
けれど、悠太は首を横に振った。
「やっぱり、今日は持ってていいよ」
「大事なんでしょ」
「大事だから」
悠太は笑った。
「今日、ソラくんが書いた鉛筆だから」
ソラは短い鉛筆を見つめた。
「じゃあ、今日だけ」
「うん」
ねむが机へ突っ伏す。
「終わった?」
「終わったわ」
レムが答える。
「じゃあ寝る」
「ここで?」
「今日にいるから、どこで寝ても今日」
「理屈が雑」
ヨルが言う。
「ヨルに言われたくない」
「私の理屈は短いだけ」
ソラが笑った。
小さな笑い声。
けれど、学習室の床にちゃんと残った。
澄は、青い布張りの絵本を持っていた。
記憶が戻った今も、開いてはいない。
ソラがその絵本を見る。
「読む?」
澄が聞く。
ソラは少し考えた。
「今日は読まない」
「はい」
「でも」
ソラは絵本の表紙へ手を置く。
澄の手も、その隣へ置かれる。
「いつか、一緒に読む」
「はい」
今度の約束で、ソラの輪郭は薄くならなかった。
約束に自分を預けたのではない。
今日に立ったまま、未来を選んだから。
ましろは胸元の青い宝石に触れた。
与えられた名前でも。
誰かが守るために置いた名前でも。
自分で選び直せば、自分の名前になる。
本当の名前とは。
最初から決められている、たった一つのものなのだろうか。
それとも。
自分で選び、自分で返事をすることで。
本当になっていくものもあるのだろうか。
その問いは、まだ声にはしなかった。
今は、ソラの頁だったから。
学習室の窓の外。
夜が静かに深くなっている。
時計台は、普通に時を刻んでいた。
もう、ソラだけの時間を止めてはいない。
出席帳の新しい頁には。
帳ソラ。
今日、ここにいる。
そして、ソラの席札にも変化があった。
ソラの席。
帳ソラ。
今日、ここにいる。
また明日。
順番が変わっていた。
明日より先に。
今日がある。
ソラはその文字を、指先でゆっくりなぞった。
悠太が聞く。
「ソラくん」
「何?」
「明日も、絵本読んでくれる?」
学習室が一瞬だけ静かになる。
けれど、ソラの席札は揺れなかった。
明日が遠ざかることも。
輪郭が薄くなることもない。
ソラは、今の頁へ立っている。
そのうえで、自分で答えた。
「うん」
少し笑う。
「じゃあ、また明日」
それは。
明日に自分を預ける言葉ではなかった。
今日を終えて。
次の今日へ進むことを。
自分で選んだ声だった。




