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第34話 また明日を言った子


翌朝。


ソラは、誰かに「また明日」と言われた。


食堂の窓際。


年少の子たちに絵本を読み終えた時だった。


「ソラくん、続きはまた明日ね」


その子は、何も知らずに笑っていた。


昨日までなら、きっと言い直した。


また明日ではなく。


今日、読んでくれてありがとう、と。


けれど今朝は、言葉がそのまま食堂に残った。


また明日。


ソラの席札が、小さく震えた。


ソラの席。


帳ソラ。


また明日。


今日、ここにいる。


三行目の文字が遠ざかろうとする。


けれど、四行目の青灰色が、ソラの指先の下で淡く光った。


ソラは席札を胸に押し当てる。


息を吸う。


ましろは立ち上がりかけた。


ねむも、夢見のランタンへ手を伸ばす。


けれど、ソラは自分で言った。


「うん」


声は少し震えていた。


それでも続ける。


「でも、今日はここにいる」


席札の揺れが止まった。


ソラの輪郭は、薄くならなかった。


年少の子は首を傾げた。


「今日?」


「うん。今日は一緒に読めた」


ソラは絵本の表紙を撫でる。


「それで、今は大丈夫」


「じゃあ、また読んでね」


「うん」


今度の返事は、明日へ飛んでいかなかった。


食堂の床に。


ソラの席の近くに。


きちんと残った。


ヨルが、棚のそばから短く言った。


「落ちなかった」


ソラは振り返る。


「うん」


「まし」


ねむが片目だけ開けた。


「ヨル語では高評価」


「勝手に訳すな」


「でも合ってる?」


ヨルは答えなかった。


否定しない時の沈黙だった。


ましろは、ゆっくり椅子へ座り直した。


胸の奥に入っていた力を抜く。


「怖くなかった?」


ソラに聞く。


ソラは少し考えた。


「怖かった」


「うん」


「でも、昨日よりは近かった」


「明日が?」


「ううん」


ソラは席札の一番下へ触れる。


「今日が」


その答えに、ましろの胸が温かくなった。


けれど、隣にいるねむは笑わなかった。


ねむは昨夜から、ほとんど眠っていない。


眠っていないのに、いつもより目が遠い。


夢見のランタンを両手で抱え、青黒い火を見つめている。


火の奥には、細い白い影があった。


昨日、青い帳の隙間から落ちた紙。


明日の出席帳。


ソラがまだ見ないと決めた、その先。


ねむだけが見てしまったもの。


「ねむ」


ましろが呼ぶ。


「何」


「寝てないよね」


「寝た」


「どのくらい?」


「まばたき三回分」


「それは寝たって言わない」


「夢見基準では仮眠」


ヨルが言う。


「倒れる」


「今も半分倒れてる」


ねむは机に頬をつけた。


けれど、ソラの方は見なかった。


ソラはそれに気づいていた。


気づいていて、すぐには何も言わなかった。


食堂の朝が終わるまで。


子どもたちが皿を運び。


澄がスープの鍋を片づけ。


悠太がスケッチブックに今日のしおりを描き足すまで。


ソラは待った。


それから、学習室へ向かう廊下で、ねむを呼び止めた。


「ねむ」


ねむが立ち止まる。


「何」


「昨日、見えたもの」


ねむの指が、ランタンの取っ手を強く握った。


「言わない」


「うん」


ソラは頷いた。


「それは分かってる」


ねむが、ようやくソラを見る。


ソラの顔は穏やかだった。


でも、その穏やかさの奥に、怖さがある。


「一つだけ聞いていい?」


「内容以外なら」


「悲しいものだった?」


ねむは黙った。


すぐに答えなかった。


その沈黙だけで、ましろの胸も締めつけられる。


ねむはやがて、視線を逸らした。


「悲しい」


ソラの指が席札に触れる。


「そっか」


「でも」


ねむはそこで言葉を止めた。


希望だった。


明日の側で。


絵本を開かずに。


ソラを待っている子がいた。


言えば、ソラは救われるかもしれない。


怖さより先に、進めるかもしれない。


けれど。


ソラはまだ見ないと言った。


ねむは唇を噛んだ。


「でも?」


ソラが聞く。


ねむは首を横に振る。


「そこから先は、ソラが見るところ」


ソラは長く、ねむを見つめていた。


怒ってはいない。


傷ついてもいない。


ただ、考えている。


自分の昨日へ進むかどうか。


そして、小さく頷いた。


「今日、見る」


ましろが息を呑む。


「ソラ」


ソラはましろを見る。


「昨日の先を」


声は震えていた。


けれど、目を逸らさなかった。


「僕が見たい」


ねむは、ランタンを持ち直す。


「どこまで?」


前と同じ質問。


でも、今度のソラはすぐには迷わなかった。


「青い帳の向こうに、誰がいるか」


「それから?」


「その人が、僕を待っているかどうか」


ねむの目が揺れた。


ソラは気づかなかった。


あるいは、気づいても言わなかった。


「その先は?」


ソラは一度、席札を見た。


また明日。


今日、ここにいる。


二つの言葉を、指先で順番に触れる。


「どうして僕が帳を越えられなかったのかは、まだ見ない」


ねむが頷く。


「分かった」


「待ってる人がいるかどうかまで」


「うん」


「そこから先は、閉じて」


「分かった」


ソラは少しだけ息を吐いた。


「一緒に来てほしいのは」


ましろは言葉を挟まずに待った。


誰と行くのかも、ソラが決めることだから。


「ねむと、ましろ」


「うん」


ましろは頷く。


ソラはヨルを見る。


「ヨルは、外にいて」


ヨルの眉がわずかに動く。


「命令?」


「お願い」


「理由」


「戻る場所を守ってほしい」


ヨルは短く息を吐いた。


「分かった」


悠太がスケッチブックを抱えて、そわそわとソラを見る。


ソラは先に言った。


「悠太は、今日を描いてて」


「昨日じゃなくて?」


「うん」


「何で?」


「帰ってきた時、今日がなくなってないように」


悠太は真剣な顔で頷いた。


「分かった」


「澄さんは」


ソラは少し迷った。


澄は、静かに待っていた。


「出席帳を持っていて」


「ええ」


「閉じないで」


澄の目が、ほんの少しだけ揺れた。


「分かりました」


準備は学習室で行われた。


机の中央に、出席帳。


今日の欄に、帳ソラ。


その横に、青灰色のしおり。


今日、ここにいる。


明日の欄は白いまま。


出席帳の隣に、ソラの席札。


悠太のスケッチブック。


そして、青い布張りの古い絵本。


ソラが自分で、本棚の一番下から見つけたものだった。


表紙には星も文字もない。


ただ、何度も手で触れられた跡がある。


角は丸く擦れている。


背の布は少しほどけている。


ソラは、その絵本を両手で持っていた。


「これ」


「覚えてるの?」


ましろが聞く。


「手が覚えてる」


ソラは表紙を撫でた。


「中身は、まだ分からない」


ねむが夢見のランタンを机へ置く。


青黒い火が、絵本と出席帳の間で揺れた。


「前より深いところまで行く」


「うん」


「戻る声が聞こえなくなるかもしれない」


ソラの顔が少し強張る。


ヨルが入口から言った。


「呼ぶ」


ソラが振り向く。


ヨルは黒い鐘の杖を床へついていた。


「聞こえなくても呼ぶ」


「うん」


「勝手に遠くへ行くな」


「うん」


「怖くなったら」


「言う」


ヨルは小さく頷いた。


レムが宝石の中で言う。


「今日のしおりを基点にするわ。明日へは渡らない。昨日の向こうを覗くだけ」


「覗くって言い方、嫌」


ねむが言う。


「では、訪ねる」


「それなら、少しまし」


レムは目を細めた。


「言葉の監査が厳しいわね」


「必要」


ねむはランタンへ手をかざす。


「ソラ」


「うん」


「最後に確認」


「待っている人がいるかどうかまで」


「そこから先は?」


「まだ見ない」


「分かった」


ねむの青黒い火が、絵本の表紙へ触れた。


火は燃え移らない。


代わりに、絵本の中から紙をめくる音がした。


ぱら。


ぱら。


誰も触れていない。


それでも、閉じた絵本の中でページがめくられていく。


子どもたちの笑い声。


夕方の鐘。


木の椅子を引く音。


そして。


「また明日、読んでね」


あの声。


ソラの肩が震える。


ねむのランタンの火が細長く伸びた。


火の先に、青い帳が現れる。


昨日と明日の間に下りた幕。


ソラを置いていった帳。


ましろは、ソラの名前を呼んだ。


「帳ソラ」


ソラの輪郭が濃くなる。


「今日、ここにいる」


悠太の声が、外側から届く。


スケッチブックに向かって言っているのだろう。


「帳ソラ、今日ここにいる!」


ヨルの黒い鐘が、低く鳴った。


ごん。


足元が固まる。


ねむが言う。


「開けるよ」


ソラは頷いた。


「うん」


青い帳が、ゆっくり左右へ分かれた。


世界の向こう側から、朝の光が差し込んだ。


昨日の夕方ではない。


その次の朝。


明日。


ましろは息を呑んだ。


同じ学習室。


けれど、昨日の学習室より少し明るい。


机の上に、青い布張りの絵本が置かれている。


閉じたまま。


その前に、一人の子どもが座っていた。


白い髪。


肩までの短い髪。


小さな星の形をした髪留め。


椅子に座る足は、床へ届いていない。


その子は、絵本を開かなかった。


両手を膝の上へ置き、扉の方を見ている。


待っている。


朝の光の中で。


何度も扉を見る。


誰かの足音がするたび、顔を上げる。


でも、ソラは来ない。


白い髪の子は、小さく呟いた。


「ソラくん、まだかな」


今のソラが息を止めた。


「待ってた」


声が震える。


「僕を」


ねむは何も言わなかった。


ランタンを強く握っている。


白い髪の子は、絵本の表紙へ手を置く。


けれど、開かない。


「続きは、一緒に読むって決めたから」


その声に、ソラの目から涙が落ちた。


本人も気づいていないようだった。


涙は床へ落ちず、青い帳の手前で小さな光になる。


「忘れられたんじゃない」


ましろは言った。


ソラは答えない。


白い髪の子は、まだ待っている。


朝が少し進む。


窓から入る光の角度が変わる。


廊下を子どもたちが走る。


食堂から皿の音が聞こえる。


それでも絵本は閉じたまま。


その子は、何度も扉を見る。


何度も。


何度も。


ねむの顔が青ざめている。


ましろは気づいた。


ねむは、この光景を知っていた。


昨日、白い紙の向こうで見てしまったもの。


希望。


ソラを待っている明日。


ソラがねむを見る。


「知ってた?」


ねむは目を逸らさなかった。


「見えてた」


「この子が待ってること」


「うん」


ソラの涙が、もう一つ落ちる。


「どうして言わなかったの」


ねむの指が、ランタンの金具に食い込む。


「ソラが、まだって言ったから」


長い沈黙。


青い帳が、風もないのに揺れる。


ソラは白い髪の子を見た。


それから、ねむを見る。


「言ってほしかった気もする」


ねむの顔が痛む。


「うん」


「言わないでくれてよかった気もする」


「うん」


「どっちか、分からない」


ねむは小さく頷いた。


「分からなくていい」


ソラは目を伏せた。


そして、もう一度白い髪の子を見る。


「ありがとう」


ねむは唇を噛んだ。


「今言われると、かなり困る」


「何で?」


「泣きそうだから」


「ねむが?」


「かなり不本意」


ソラは、涙をこぼしたまま少し笑った。


その時、廊下の向こうから声がした。


「澄ちゃん」


白い髪の子が振り向く。


ましろの胸が跳ねた。


「朝ごはん、片づけちゃうわよ」


白い髪の子。


澄。


幼い星守澄。


今よりずっと小さい。


けれど、目元は同じだった。


穏やかに見えて、決めたことを簡単には曲げない目。


幼い澄は廊下へ向かって答える。


「あと少しだけ」


「誰か待ってるの?」


「うん」


澄は閉じた絵本を抱く。


「ソラくん」


今のソラが、震える声で言った。


「澄さんだった」


ましろは、外側にいる澄のことを思う。


出席帳を閉じずに持っている澄。


今この声を、聞いているだろうか。


青い帳の向こうで、幼い澄は絵本を机へ戻した。


「ここに置いておくね」


誰もいない席へ言う。


「来たら、勝手に読まないで待ってて」


少し考え、言い直す。


「違う」


絵本の表紙を撫でる。


「私も一緒に読むから」


それから、幼い澄は立ち上がった。


扉の方へ歩く。


けれど、部屋を出る前に振り返る。


「また明日ね、ソラくん」


その言葉は昨日とは違った。


昨日の約束の繰り返しではない。


来なかった相手へ。


それでも明日を置いていく言葉。


ソラは青い帳へ近づいた。


ましろが呼ぶ。


「ソラ」


「うん」


「どこまで行く?」


ソラは帳の向こうの澄を見ている。


「声を届けたい」


ねむが息を呑む。


「身体は?」


ソラは首を横に振った。


「行かない」


答えは、はっきりしていた。


「今日は、ここにいる」


席札の青灰色が光る。


「でも、待ってるって知らなかったことにはしたくない」


ソラは青い帳の前へ立つ。


「僕の声だけ、届けたい」


ねむはランタンを見る。


火が細く揺れている。


「道は、細い」


「うん」


「届くか分からない」


「うん」


「戻らないかもしれない」


「それは嫌」


ソラは即答した。


「今日は戻る」


ヨルの黒い鐘が、外側でごん、と鳴った。


戻れ。


そう言っているみたいだった。


ソラは少し笑う。


「だから、声だけ」


ねむは長くソラを見た。


「分かった」


ランタンの火が、ソラの口元と青い帳をつなぐ。


ましろは杖を握った。


「レム」


「声の道だけを通す。名前の道にはしないわ」


「できる?」


「あなたたちが余計なことをしなければ」


「努力する」


「七十一点」


ソラは帳の向こうへ向かって、息を吸った。


「す――」


言いかけて、止まる。


幼い澄の名前を呼べば、名前の道になる。


ソラは考えた。


そして、言った。


「絵本、開けないで待っててくれて、ありがとう」


声が、青い帳へ触れる。


小さな波紋が広がる。


けれど、向こう側へは抜けない。


帳が声を押し返す。


ソラの輪郭が少し薄くなる。


ましろが呼ぶ。


「帳ソラ!」


ソラの足元が戻る。


「もう一回」


ねむが言う。


「今度は、約束の形で」


ソラは目を閉じる。


また明日。


その言葉は怖い。


好きで。


怖くて。


明日をくれて。


昨日へ残した。


ソラは息を吸った。


「うん」


青い帳が震える。


「また明日」


声が細い光になる。


帳の中央へ、小さな穴が開いた。


針の先ほどの穴。


そこを、ソラの声だけが通り抜ける。


向こう側。


幼い澄が、扉の前で足を止めた。


振り返る。


「ソラくん?」


届いた。


完全ではない。


名前も姿も届いていない。


それでも声が届いた。


幼い澄の顔に、笑顔が浮かぶ。


「うん」


誰もいない部屋へ頷く。


「また明日」


その瞬間。


どこからか、店の呼び鈴が鳴った。


ちりん。


孤児院の鐘ではない。


燐灯堂。


青い帳の下に、黒い影が滲む。


声だけを通した小さな穴へ、細い値札の紐が伸びてくる。


耳元で、丁寧な声がした。


――期限を過ぎた約束。


――明日未着の名。


――査定対象でございます。


ソラの今日のしおりが激しく震えた。


青灰色の文字の端が、黒く焦げる。


ましろは杖を構える。


「ルミナス――」


「鳴らすな!」


ヨルの声が外側から飛んだ。


「道が広がる!」


ましろは杖を止める。


値札の紐が、ソラの声を追って帳の穴を広げようとする。


ねむのランタンが揺れる。


「閉じる!」


「待って」


ソラが言う。


ねむが顔を上げる。


ソラは帳の向こうの澄を見た。


声は届いた。


返事も届いた。


それで十分だ。


ソラは自分で頷いた。


「閉じて」


ねむはランタンを伏せる。


青黒い火が、帳の穴を包む。


けれど値札の紐が絡みつき、閉じきらない。


今日のしおりの端が、さらに焦げる。


ヨルの黒い鐘が鳴った。


ごん。


今度は強く。


破壊の音ではない。


今日の側へ引き戻す音。


悠太の声が外から聞こえる。


「帳ソラ! 今日ここにいる!」


澄の声も。


震えていた。


「帳ソラ。今日、ここにいます」


その声を聞いた瞬間、ソラが息を呑んだ。


現在の澄の声。


幼い澄と同じ声。


長い時間を越えた声。


ソラは振り返らない。


けれど、涙を流した。


「うん」


今日のしおりが、最後に強く光った。


値札の紐が焼ける。


――本日分のみ、保留。


燐灯堂の声が笑った。


――明日が未着なら、いずれ期限は参ります。


黒い影が、帳の下から退いていく。


青い帳が閉じる。


明日の学習室。


幼い澄。


閉じた絵本。


その全部が、細くなっていく。


最後に幼い澄が言った。


「待ってるね」


ソラは答えた。


「待たせたままにはしない」


帳が閉じた。


学習室へ戻った瞬間、ソラは膝をついた。


ましろが駆け寄る。


「ソラ!」


「大丈夫じゃない」


ソラは先に言った。


ねむが隣へ座り込む。


「学習した」


「うん」


ソラは息を整える。


席札の「今日、ここにいる」は残っている。


けれど、右端が少しだけ黒く焦げていた。


今日のしおりも同じ。


防げた。


でも、無傷ではない。


ヨルが黒い鐘の杖を持って近づく。


「声は」


「届いた」


ソラは頷いた。


「返事も」


「何て」


「また明日」


ヨルは顔をしかめた。


「そっか」


短い声。


けれど、その一言には、嫌悪も否定もなかった。


ソラは澄を見た。


澄は出席帳を抱えたまま立っている。


顔が青ざめていた。


「澄さん」


澄の指が、帳の縁で震えている。


「私だったのですね」


「うん」


「また明日と言ったのは」


「澄さんだった」


澄は目を閉じた。


涙が一筋、頬を伝う。


「思い出せません」


「うん」


「声は、聞こえました。でも、あなたと絵本を読んだ記憶が」


言葉が途切れる。


ソラは少しだけ考えた。


それから、静かに言う。


「今は、思い出さなくていい」


澄が目を開ける。


「でも」


「なくさないで」


ヨルが棚へあかりを置いた時と同じ言葉。


澄は涙を拭わなかった。


「はい」


小さく頷く。


「なくしません」


ねむはランタンを抱え、床へ座り込んでいた。


ソラが彼女を見る。


「ねむ」


「何」


「見えてたの、これ?」


ねむは少し黙った。


「待ってたところまで」


「知ってたんだ」


「うん」


「僕が来なかったことも?」


「うん」


「澄さんだったことも?」


ねむは首を横に振る。


「そこまでは見えてなかった」


ソラは頷いた。


「そっか」


ねむが目を伏せる。


「怒ってる?」


ソラは考えた。


長く。


「少し」


ねむの肩が固くなる。


「でも」


ソラは続ける。


「言わないでくれて、よかった」


「どっち」


「両方」


ねむは小さく息を吐いた。


「それ、一番困る」


「ごめん」


「謝るな」


ヨルが即座に言った。


ソラとねむが同時にヨルを見る。


ヨルは目を逸らす。


「今のは違う?」


ソラが聞く。


「今のは」


ヨルは少し考えた。


「言ってもいい」


ねむがぼそりと言う。


「謝罪規則、複雑化」


「うるさい」


ましろは、焦げた今日のしおりを見る。


ソラの声は、明日へ届いた。


待っている子へ。


けれど、ソラ自身は今日へ戻ってきた。


明日へ渡ってはいない。


でも。


「また明日」はもう、一方通行ではない。


昨日から明日へ。


明日から今日へ。


声が一度ずつ行き来した。


崖だった言葉に、細い橋が一本かかった。


まだ渡れない。


でも、声は届く。


ソラは自分の席札を見た。


「また明日」


三行目は、まだ遠い。


けれど、昨日までとは違って見えた。


遠い場所にある。


でも、誰もいない場所ではない。


澄が、そこで待っていた。


「次は」


ましろが言いかける。


ソラは首を横に振った。


「今日は、ここまで」


自分から言った。


ましろは頷く。


「うん」


「次は、どうして帳を越えられなかったのかを見る」


「怖い?」


「怖い」


ソラは素直に言った。


「でも、自分で見る」


ねむがランタンを持ち直す。


「範囲は?」


「帳が下りたところから」


「その先は?」


「僕の名前が、どこに挟まったのかまで」


「分かった」


ヨルが焦げた今日のしおりを見る。


「今すぐは行くな」


「うん」


「直してから」


「直る?」


レムが宝石の中で言った。


「完全には戻らないわ。けれど補強はできる」


「何で?」


悠太が聞く。


レムはスケッチブックを見る。


「今日の記録で」


悠太はすぐにページを開いた。


そこには学習室。


開いた出席帳。


青い帳。


帳のこちら側に立つソラ。


向こう側にいる白い髪の子。


けれど、顔は描かれていない。


二人の間を、細い声の線だけがつないでいる。


悠太は絵の下へ書いた。


きょう、ソラくんのこえが、あしたにとどいた。


その文字が、焦げた今日のしおりへ淡く移る。


黒い縁は消えない。


けれど、それ以上広がらなくなった。


レムが頷く。


「記録は傷を消さない。でも、傷があったことごと支えられる」


ソラは焦げた端を指で撫でた。


「これでいい」


「焦げてるよ?」


悠太が言う。


「うん」


ソラは少しだけ笑った。


「届いた跡だから」


夕方。


ソラは食堂の窓際で、青い布張りの絵本を膝に置いていた。


開かない。


まだ、続きは読まない。


でも、もう怖くて閉じているわけではなかった。


向こう側に、一緒に読むと約束した人がいる。


その人は今、この孤児院にいる。


記憶はまだ戻っていない。


でも、声は届いた。


澄が少し離れた場所から、ソラを見ていた。


何度か近づこうとして。


そのたびに足を止めている。


ソラが顔を上げる。


「澄さん」


澄が立ち止まる。


「はい」


「ここ、座る?」


ソラは隣の椅子を指した。


澄の目が揺れる。


「よいのですか」


「今日は」


その言葉に、澄は少しだけ笑った。


「では、今日だけ」


澄は隣へ座る。


二人の間に、閉じた絵本。


澄は表紙へ触れない。


ソラも開かない。


ただ、同じ机の上に置いておく。


長い沈黙。


けれど、気まずくはなかった。


澄が小さく言う。


「待たせてしまったのですね」


ソラは首を横に振る。


「待ってたのは、澄さん」


「けれど、私は進みました」


「うん」


「あなたを残して」


ソラは、すぐには答えなかった。


窓の外を見る。


夕方の空。


今日が終わろうとしている。


「まだ分からない」


ソラは言った。


「何が起きたのか」


「はい」


「だから、今は謝らないで」


澄は息を止める。


それから、静かに頷いた。


「分かりました」


「でも」


ソラは絵本を見る。


「待ってたことは、なくさないで」


澄の声が震える。


「はい」


「僕も、なくさない」


二人の間で、青い布張りの絵本が夕日の光を受けた。


開かれないまま。


でも、閉じ込められてはいない。


夜。


学習室の出席帳には、まだソラの明日はなかった。


今日の欄。


帳ソラ。


今日、ここにいる。


その横に、焦げたしおり。


けれど、焦げた縁の内側に、細い光が一本通っている。


昨日から明日へ届いた声の跡。


ましろは、その光を見つめた。


「明日、少し近くなった?」


ソラは隣で考えた。


「近くはなってない」


「そっか」


「でも」


ソラは明日の白い欄を見る。


「向こうに誰かがいるって分かった」


ましろは頷いた。


「うん」


「だから、遠いだけ」


「怖くない?」


「怖い」


ソラは笑った。


「でも、空っぽじゃない」


その答えに、ましろも少し笑った。


食堂の方から、棚の上のあかりが淡く光っている。


呼ばれないまま、なくならない名前。


名札箱の中では、赤い缶が眠っている。


聞かれないまま、持ち主へ戻った返事。


そして、出席帳にはソラの今日。


明日は、まだ遠い。


でも。


その遠い場所で、誰かが待っている。


ましろが出席帳を閉じようとした時。


綴じ目の奥で、青い糸が動いた。


細い糸。


ソラの席札と同じ青灰色。


その糸は、今日のページから伸び。


明日のページへは届かず。


分厚い帳面の綴じ目に、強く挟まっていた。


ましろは手を止める。


「ソラ」


「何?」


ましろは、綴じ目を指差した。


ソラが覗き込む。


青い糸が、かすかに脈打っている。


まるで、誰かの名前が。


ページの間で、まだ息をしているみたいに。


ソラは、その糸へ手を伸ばしかけた。


けれど、触れなかった。


「今日は、触らない」


ましろは頷く。


「うん」


ソラは出席帳を見つめる。


「次は、ここだね」


青い糸は、綴じ目の奥で小さく揺れた。


帳が下りた夜。


ソラの名前が、明日へめくられなかった理由。


その答えは。


昨日と明日のあいだに、まだ挟まっていた。

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