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第33話 昨日のしおり

翌朝、出席帳はまだ閉じられていなかった。


学習室の机の上。


厚い表紙を開いたまま、そこに置かれている。


今日の欄には、子どもたちの名前が並んでいた。


久遠ましろ。


棘咲ねむ。


七瀬悠太。


帳ソラ。


黒鐘ヨル。


ほかの子たちの名前も、いつものように。


そして、ソラの名前の横には、昨日ましろたちが作った小さな印がある。


今日、ここにいる。


青灰色の細い文字。


薄いけれど、消えていない。


ましろは、その一行を見て少しだけ息を吐いた。


ソラは、今日ここにいる。


それは大丈夫。


でも、問題はその次だった。


明日の欄。


そこに、ソラの名前はまだない。


白い空白。


けれど昨夜より、そこには別のものが浮かんでいた。


細い栞のような影。


今日と明日のあいだに挟まった、薄い紙。


その上に、昨日浮かんだ文字がまだ残っている。


また明日を言った声は、まだ昨日にいる。


ましろは、その一文を何度も読んだ。


読めば読むほど、胸の奥が不安になる。


明日へ行くために、昨日へ行かなければならない。


言葉としては分かる。


でも、心が追いつかない。


ソラは隣で出席帳を見ていた。


いつもより少しだけ輪郭が濃い。


昨日の「今日、ここにいる」が効いているのだと思う。


それでも、明日の欄を見る時だけ、ソラの瞳は遠くなる。


「ソラ」


ましろが呼ぶと、ソラは顔を上げた。


「うん」


「大丈夫?」


ソラは少し考えた。


それから、ましろの顔を見て、困ったように笑う。


「その質問、罠になってきたね」


「そうかも」


「大丈夫じゃない。でも、今日にはいる」


「うん」


ましろは頷いた。


「それで、今はいい」


ヨルが学習室の入口にもたれながら言った。


「今は、ね」


短い声。


けれど、昨日までより重さが違う。


ヨルは昨日、あかりという名前を棚に置いた。


受け取らず。


返事せず。


でも、なくさない場所へ。


そのヨルが言う「今は」は、ただの先延ばしではない。


落ちないための杭みたいな言葉だった。


ねむは机に突っ伏している。


夢見のランタンを横に置き、半分閉じた目で出席帳を見ていた。


「昨日かあ」


ねむがぼそりと言う。


「嫌な行き先」


「昨日は嫌?」


ましろが聞く。


「嫌。昨日は、終わった顔をして何回も戻ってくる」


「どういう意味?」


「私もたまに分からないことを言う」


ヨルが低く言う。


「たまに?」


「今の質問は減点」


「採点するな」


レムが杖の宝石の中で腕を組んだ。


「採点権の無秩序化が深刻ね」


「レムが最初に広めた」


ねむが言う。


「責任の所在を曖昧にしないで」


「曖昧にして寝たい」


そんなやり取りがあっても、学習室の空気は軽くならなかった。


出席帳の白い欄が、ずっとこちらを見ている。


ソラの明日。


そこだけが空いている。


澄は出席帳の向こう側に立っていた。


けれど、今日はすぐに説明しなかった。


ただ、ねむを見た。


ねむも、それに気づいて顔をしかめる。


「見てる」


「ええ」


「院長先生、説明係を私に渡そうとしてる」


「必要なら」


「ずるい」


「あなたの領分ですから」


ねむはしばらく黙った。


それから、ゆっくり身を起こす。


ランタンの火が、青黒く揺れた。


「昨日の形をしたものは、夢の奥にある」


ましろは聞き返す。


「夢?」


「普通の夢じゃない。記憶でもない。約束が見ている夢」


「約束が夢を見るの?」


「見るんじゃない。たぶん、見せる」


ねむは出席帳の白い栞を見た。


「また明日って言葉が、昨日の中にしおりを挟んでる。そこを開けば、声までは行けると思う」


「声までは」


ソラが小さく繰り返す。


ねむはソラを見た。


その目は眠そうなのに、逃げていなかった。


「でも、勝手には見ない」


学習室が静かになる。


「夢見は、勝手に見るものじゃない」


ねむは言った。


「勝手に見たら、燐灯堂と同じ側に落ちる」


ヨルが、ほんの少しだけ目を動かした。


銀匙の記憶の前で、ねむがヨルに向けて言った言葉。


あの時は、ヨルの痛みを勝手に覗かないための言葉だった。


今度は、ソラの昨日に入るための言葉になっている。


ソラは自分の席札を両手で持った。


ソラの席。


帳ソラ。


また明日。


今日、ここにいる。


その四行目を、指先でそっとなぞる。


「見る」


少し震えた声だった。


でも、確かにソラ自身の声だった。


「昨日を見る」


ましろは息を呑む。


ねむはすぐに頷かなかった。


「どこまで?」


ソラは戸惑ったようにねむを見る。


「どこまでって?」


「全部見ていいのか、途中までなのか。私が決めることじゃない」


ねむはランタンを持ち上げる。


「ソラが決めて」


ソラは席札を見た。


しばらく黙った。


ましろは待った。


ヨルも、珍しく何も言わなかった。


悠太はスケッチブックを抱え、口を閉じている。


ソラはやがて、小さく言った。


「また明日って言われたところまで」


ねむが頷く。


「その先は?」


ソラの指が、席札の「また明日」に触れる。


「まだ、見ない」


「分かった」


ねむはすぐに言った。


「また明日って言われたところまで。そこから先は、扉が開いても入らない」


「扉?」


ましろが聞くと、ねむは顔をしかめた。


「こういう時は、だいたい扉がある」


ヨルが低く言う。


「雑」


「でも当たる」


「嫌な才能」


悠太が小さく手を挙げた。


「ぼくは?」


ヨルが即答した。


「来るな」


「まだ聞いてない」


「顔が言ってる」


「また?」


「顔はよくしゃべる」


悠太はスケッチブックをぎゅっと抱える。


「記録係?」


澄が頷く。


「ええ。とても重要です」


悠太は少しだけ胸を張った。


「じゃあ、見るのはだめでも描く」


「中は描くな」


ヨルが言う。


「うん。外だけ」


「扉も描くな」


「じゃあ、しおりだけ?」


「しおりだけ」


悠太は頷いた。


「分かった」


ソラは悠太を見て、少しだけ笑った。


「ありがとう」


「うん」


「明日は、まだ描かないで」


悠太は真剣に頷く。


「今日は描く」


「うん」


「昨日は?」


ソラは少しだけ黙った。


それから、ねむを見る。


「昨日は、あとで」


ねむは頷いた。


「いい判断」


レムが宝石の中で言う。


「七十九点」


悠太が反応する。


「ぼく?」


「今のはソラよ」


「ソラくん、七十九点!」


ソラは困ったように笑う。


「高いの?」


ましろが言う。


「レム基準では、けっこう」


「そう」


ソラは小さく頷いた。


「じゃあ、少し安心」


レムは少しだけ顔を逸らす。


「点数を精神安定剤に使わないで」


「使い道が増えた」


ねむが言った。


「嫌な方向にね」


準備は、学習室で行われた。


出席帳を中央に置く。


ソラの席札を、その右に。


悠太のスケッチブックを左に。


ねむの夢見のランタンを、出席帳の上へかざす。


ましろは星律の杖を握った。


ヨルは入口の近くで黒い鐘の杖を持っている。


「私は入らない」


ヨルが言った。


「うん」


ましろは頷く。


「外にいて」


「言われなくても」


「何かあったら」


「壊す」


「壊さないで」


「必要なら壊す」


「殻だけ?」


ヨルは少しだけましろを見る。


「覚えてるんだ」


「忘れないよ」


ヨルは何も言わなかった。


けれど、黒い鐘は鳴らなかった。


ねむがランタンを少し傾ける。


青黒い火が出席帳の白い栞へ落ちる。


白い栞が、ゆっくり浮かび上がった。


紙ではない。


けれど、紙の形をしている。


そこには、まだ何も書かれていなかった。


ましろは息を吸った。


「これが、昨日のしおり?」


ねむが頷く。


「たぶん」


「たぶん?」


「夢の道具は、だいたい後から名前が追いつく」


レムが言う。


「今回はそれでいいわ。正式名にしすぎない方が安全」


ヨルが短く言う。


「売られる」


「ええ」


レムは素直に頷いた。


「役目や呼び名も、燐灯堂は値をつけようとする」


その言葉に、出席帳の端に薄い影が滲んだ。


小さな値札のような影。


ましろは杖を握る手に力を込めた。


けれど、すぐにその影は薄くなった。


今日のしおりが、ソラの名前の横で青灰色に光ったからだ。


今日、ここにいる。


値札の影は、今日には値段をつけられなかった。


ヨルが低く言う。


「今は来るな」


その声に、影は完全に消えた。


ねむがランタンを構える。


「入るよ」


ソラは頷いた。


「うん」


ねむはすぐには動かない。


「ソラ」


「何?」


「本当に、また明日って言われたところまで?」


ソラは少しだけ目を伏せた。


その後、まっすぐねむを見る。


「うん」


「その先は?」


「まだ、見ない」


「分かった」


ねむはランタンの火を、昨日のしおりへ触れさせた。


その瞬間。


学習室の床が、紙のように薄くなった。


ましろは足元を見る。


床板の木目が、文字の行へ変わっていく。


出席帳の紙。


席札の木目。


スケッチブックの白。


それらが一つに重なり、細い道になる。


昨日へ続く道。


道の奥には、青い帳が下りていた。


舞台の幕みたいな布。


夜の色をした薄い幕。


その向こうから、小さな声が聞こえる。


まだ言葉にはならない。


でも、誰かが笑っている。


ソラの手が、席札を握る。


「知ってる」


声が震えていた。


「たぶん、知ってる」


ましろはソラの隣に立つ。


「手、つなぐ?」


ソラは少し迷った。


それから首を横に振る。


「今日は、つながない」


ましろは驚いた。


でも、すぐに頷く。


「分かった」


ソラは自分の足元を見た。


「自分で立って行きたい」


その言葉に、ましろの胸が熱くなった。


「うん」


ねむが小さく言う。


「いいね」


ヨルが入口から言った。


「落ちるな」


ソラは振り向く。


「うん」


「落ちそうになったら言え」


「うん」


「勝手に消えるな」


ソラは少しだけ笑った。


「それは、難しいけど」


「難しくても言え」


「分かった」


ましろは、ヨルの言葉が昨日よりずっと不器用な優しさになっていることに気づいた。


ねむがランタンを掲げる。


「じゃあ、行く」


昨日のしおりが、静かに開いた。


世界がめくれる。


学習室の壁が遠ざかる。


机の匂いが薄れる。


紙の音。


ページをめくる音。


子どもが笑う声。


夕方の光。


ましろたちは、古い学習室に立っていた。


けれど、今の学習室ではない。


床の傷が少ない。


本棚の位置が少し違う。


窓から差す光が、夕焼け色をしている。


外では、子どもたちが中庭で遊んでいる声がする。


「昨日?」


ましろが呟く。


ねむが首を横に振る。


「昨日の形をした場所」


「違うの?」


「たぶん、ソラの中に残った昨日。出席帳の昨日と、席札の昨日が混ざってる」


「それ、大丈夫?」


「大丈夫じゃない」


ねむは言った。


「でも、まだ許可の内側」


ソラは部屋の中央を見ていた。


そこに、小さなソラがいた。


今より幼い。


灰色の髪は少し短く、服も古い。


小さな手に、絵本を持っている。


彼は椅子に座り、何人かの子どもたちへ本を読んでいた。


声は柔らかい。


けれど、ましろにはよく聞こえなかった。


文字が水の中を漂っているみたいに、音がゆがんでいる。


それでも、子どもたちが笑っているのは分かった。


幼いソラは、少し誇らしそうだった。


誰かに聞いてもらえることが嬉しい。


そこにいていいと言われているみたいで嬉しい。


そんな顔をしていた。


ましろは今のソラを見る。


ソラは幼い自分を見て、少しだけ目を伏せていた。


「僕、読んでたんだ」


「覚えてない?」


「少しだけ」


ソラは自分の席札を押さえる。


「絵本を読むと、みんなが僕を見るから。僕がそこにいるって、分かりやすかった」


ねむは何も言わなかった。


ランタンの火だけが、静かに揺れている。


夕方の光が少し濃くなる。


子どもたちが一人ずつ立ち上がる。


「ごはんだ!」


「続き、あとで!」


「今日はここまで?」


幼いソラは絵本を閉じた。


少し残念そうに。


でも、嬉しそうに。


その時、一人の子が振り返った。


顔は、まだぼやけている。


男の子か女の子かも分からない。


でも、その声だけは不思議にはっきりしていた。


「また明日、読んでね」


世界が、止まった。


ましろは息を止める。


ソラの席札が震える。


また明日。


その言葉は、思っていたよりずっと普通だった。


呪いでもない。


命令でもない。


誰かを縛るための言葉ではない。


ただ、明日もあると信じている子どもの声だった。


また明日、読んでね。


明日が来ることを疑っていない。


明日また会えることを疑っていない。


その声の無邪気さが、ましろの胸に刺さった。


幼いソラは、笑った。


嬉しそうに。


本当に嬉しそうに。


そして、口を開く。


「うん」


その返事が、夕方の光に溶ける。


「また明日」


ソラの声だった。


その瞬間、部屋の奥に青い帳が下りた。


ばさり、と。


音は小さい。


けれど、世界を閉じる音だった。


子どもたちは帳の向こうへ歩いていく。


また明日と言った子も。


ほかの子たちも。


みんな、当たり前のように明日へ向かっていく。


幼いソラも立ち上がる。


追いかけようとする。


でも、足が止まった。


帳の手前で。


青い帳が、彼の前だけ重く垂れている。


幼いソラは手を伸ばす。


帳に触れようとする。


けれど、指先が通らない。


向こう側では、子どもたちが笑っている。


夕飯の匂いがする。


誰かが名前を呼んでいる。


でも、ソラの名前は呼ばれない。


幼いソラは、帳の前で立ち尽くした。


今のソラが、息を呑んだ。


「ここまで」


ねむが言った。


ましろは振り向く。


「でも」


「ソラが言った。ここまで」


ねむの声は低かった。


「また明日って言われたところまで。返事したところまで。そこから先は、まだ見ない」


ソラは、青い帳を見つめていた。


幼い自分が、向こうへ行けずに立ち尽くしている。


その先を見れば、何かが分かるかもしれない。


なぜ行けなかったのか。


誰が呼ばなかったのか。


また明日と言った子は、どうなったのか。


でも、ソラは唇を噛んだ。


「まだ」


小さく言った。


「まだ、見ない」


ねむは頷いた。


「分かった」


その時だった。


青い帳の隙間から、白い紙が一枚落ちた。


出席帳のページ。


明日の欄。


そこに、何かが書かれている。


ねむの目がそれを見た。


見えてしまった。


ソラが許可していない、その先。


ねむのランタンの火が強く揺れる。


ましろも、その紙を見そうになった。


けれど、ねむがすぐにランタンを伏せた。


青黒い火が、ふっと小さくなる。


視界が暗くなる。


紙の文字は読めなくなった。


「ねむ?」


ましろが呼ぶ。


ねむは答えなかった。


顔色が悪い。


ソラも、ねむを見る。


「見えた?」


ねむは少しだけ黙った。


その沈黙は長かった。


そして、ねむは首を横に振った。


「言わない」


「見えたんだ」


ソラの声は静かだった。


ねむは目を逸らさない。


「見えた。でも、言わない」


「どうして」


「ソラが、まだ見ないって言ったから」


青い帳の向こうで、ページが風に揺れる音がした。


ねむは歯を食いしばる。


「見えてしまったことは、消せない。でも、勝手に渡さない」


その言葉で、ましろは胸が痛くなった。


ねむの手が震えている。


見てしまったものを言わないのは、簡単ではない。


言えば、助かるかもしれない。


言えば、次に進めるかもしれない。


でも、ソラがまだと言った。


その「まだ」を守るために、ねむは言わない。


勝手に呼ばない。


勝手に開けない。


勝手に見ない。


あの日から続いている約束が、今ここでねむを支えている。


ソラはねむを見ていた。


しばらくして、小さく言う。


「ありがとう」


ねむは少し顔をしかめた。


「感謝されると眠くなる」


「それ、どういう体質?」


「人間性の問題」


ましろは笑いそうになった。


けれど、すぐに足元が揺れた。


昨日のしおりが閉じようとしている。


青い帳が遠ざかる。


幼いソラの姿も、夕方の学習室も、子どもたちの声も、紙の音の向こうへ戻っていく。


最後に、また明日と言った声だけが、もう一度聞こえた。


また明日、読んでね。


普通の声。


優しい声。


何も知らない声。


その声が、昨日の中で小さく光っていた。


学習室に戻ると、出席帳のページが静かに揺れていた。


ましろは机に手をつく。


息が少し荒い。


ねむは椅子に座り込んだ。


ランタンを抱え、目を閉じている。


ソラは立っていた。


席札を両手で持ったまま。


「また明日って」


ソラが言った。


「普通だった」


ましろは頷いた。


「うん」


「嬉しかった」


「うん」


「だから、怖かった」


その言葉は、小さく、でもはっきりしていた。


ヨルが入口で腕を組んでいる。


「見たの」


ソラは頷いた。


「見た」


「その先は」


「見なかった」


ヨルはねむを見る。


ねむは目を閉じたまま言う。


「見えてしまった。でも、言ってない」


ヨルはしばらく黙った。


「まし」


「褒めた?」


ねむが片目を開ける。


「ましって言った」


「ヨル語では高評価?」


「たぶん」


ソラは出席帳を見る。


今日の欄。


帳ソラ。


今日、ここにいる。


そこは濃くなっている。


明日の欄は、まだ白い。


けれど、白い栞の形が少しだけ変わっていた。


昨日のしおり。


そこに、薄い文字が浮かぶ。


また明日を言った声は、昨日に残っている。


その下に、新しい一行。


声は、悪くなかった。


ソラはその文字を見て、少しだけ笑った。


「悪くなかった」


「うん」


ましろは言う。


「悪くなかった」


でも、悪くない言葉でも、届かなければ痛みになる。


明日をくれた声が、ソラを昨日に置いていった。


誰も悪くない。


だからこそ、どう怒ればいいのか分からない。


ヨルが低く言った。


「怒る相手がいないの、嫌だね」


ソラはヨルを見る。


「うん」


「それでも、嫌って言っていい」


「うん」


ソラは席札を握る。


「嫌だ」


その一言で、席札の「今日、ここにいる」が、少しだけ濃くなった。


ねむがぼそりと言う。


「それ、大事」


レムも頷いた。


「ええ。今のは大事よ」


ソラは少しだけ照れたように目を伏せた。


「嫌って、言っていいんだね」


ヨルが言う。


「言える時は」


「言えない時は?」


「あとで」


「あとでいい?」


ヨルは短く頷いた。


「いい」


それは、ヨルが誰かに渡せるようになった言葉だった。


ましろは胸の奥が温かくなる。


終わった出来事が、こうして次の誰かを支えている。


その日の午後。


ソラはまた絵本を読んだ。


今度は自分から。


食堂の窓際で、年少の子たちに囲まれて、少しだけ緊張しながら。


ましろは遠くから見ていた。


ねむは隣で寝ていた。


ヨルは棚の近くで黒い鐘の紐を直している。


悠太はスケッチブックを開いて、ソラの席と今日のしおりを描いていた。


ソラは絵本を閉じると、少し考えた。


子どもたちが期待した顔で見る。


「続き、明日?」


誰かが言いかける。


けれど、その子は口を閉じた。


昨日の夕方と同じように。


少し考えて、別の言葉にする。


「今日、読んでくれてありがとう」


ソラは、目を丸くした。


それから、ゆっくり笑った。


「うん」


そして、少しだけ自分から言った。


「今日は、ここまで」


その言葉に、席札の「今日、ここにいる」が淡く光った。


今日を閉じる言葉。


明日へ投げない言葉。


今ここにあるものを、ちゃんと手渡す言葉。


ましろは、胸が少し熱くなるのを感じた。


夕方になって、出席帳の明日の欄にはまだ名前がなかった。


けれど、昨日のしおりには、もう一行増えていた。


また明日の声は、悪くなかった。


でも、届かなかった。


そして、その下に、さらに小さな文字。


届かなかった明日は、どこへ行った。


ましろは、その文字を見つめた。


ねむは隣で、ランタンを抱えたまま黙っていた。


「見えてる?」


ましろが聞く。


「少し」


「何が?」


「昨日の向こうに、明日の影がある」


「昨日なのに?」


「そういうの、ほんと嫌」


ねむは眉を寄せる。


「時制が悪夢の編み物になってる」


レムが静かに言う。


「昨日と明日の境界に何かがあるのね」


ソラは席札を胸に押し当てた。


「また見る?」


ましろが聞くと、ソラはすぐには答えなかった。


長い沈黙。


それから、彼は言った。


「見る」


ましろは頷きかける。


けれど、ソラは続けた。


「でも、今日は見ない」


ねむが少しだけ目を開ける。


ソラは自分の席札を見る。


「今日は、ここにいるって決めたから」


ヨルが、棚の方から短く言う。


「よし」


ソラは少し笑った。


「ヨルに言われると、ちょっと変」


「黙れ」


「うん」


その返事は、少し軽かった。


夜。


学習室の出席帳は、まだ開かれていた。


今日の欄に、帳ソラ。


その横に、青灰色のしおりの印。


今日、ここにいる。


明日の欄はまだ白い。


昨日のしおりには、薄い文字。


届かなかった明日は、どこへ行った。


ましろは、そっとページに手を置いた。


「明日を探すんだね」


ソラは隣で頷く。


「うん。でも、明日へ行く前に」


「前に?」


「昨日の先を、ちゃんと見るかどうかを決める」


ましろはソラを見る。


ソラの輪郭は、昨日より少しだけ濃い。


でも、明日へ続く線はまだない。


それでも、彼は立っている。


今日に。


自分で決めた今日に。


「明日が遠い」


ソラが言った。


「でも、昨日に戻るのも怖い」


ましろは頷く。


「うん」


「だから」


ソラは席札を握る。


「明日は、まだ遠くていい」


その言葉に、出席帳の今日の欄が静かに光った。


遠くの食堂では、棚の上のあかりが淡く光っている。


誰かの名前を、まだ呼ばずに守っている。


名札箱の赤い缶は眠っている。


返事を、まだ聞かずに守っている。


そして、出席帳の今日のしおりは、ソラの名前を抱えている。


明日へ無理に渡さず。


昨日へ勝手に戻さず。


今日から落ちないように。


ましろは思った。


この孤児院には、また一つ、場所が増えたのかもしれない。


棚。


輪。


窓灯り。


名札箱。


そして、しおり。


まだ決まらないものを、なくさないための小さな場所。


その時、出席帳のページの端に、ほんの少しだけ黒い影が滲んだ。


値札の形に似ていた。


けれど、すぐに今日のしおりが光る。


影は、ソラの名前まで届かずに消える。


今日にいる名前には、まだ値段がつかなかった。


けれど、ましろには分かった。


燐灯堂は、もう気づいている。


明日が遠い名前。


昨日に声を置いた名前。


そういうものに、値段をつけようとする店があることを、ましろたちはもう知っている。


ソラは気づいていないようだった。


それでいい。


今は。


ましろは出席帳を見つめる。


届かなかった明日は、どこへ行った。


その問いは、まだ答えを持たない。


けれど、ソラは今日ここにいる。


その一行だけは、確かにあった。


ねむは、誰にも見えないようにランタンの火を少しだけ伏せた。


火の奥には、さっき見えてしまった白いページの影が、まだ残っている。


窓の外で、夜の星がひとつ瞬く。


まるで、遠い明日から、まだ届かない返事を待っているみたいに。

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