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第32話 明日が遠い

翌朝、ソラの席はあった。


食堂の窓際。


いつもの場所。


少し古い椅子。


白い木の席札。


そこには、いつも通りの文字が書かれている。


ソラの席。


帳ソラ。


また明日。


けれど、ましろはその席札を見て、すぐに気づいた。


文字は消えていない。


でも、遠い。


紙の上にあるはずなのに、窓の向こうの霧の中へ沈んでいるみたいだった。


特に最後の一行。


また明日。


その「明日」だけが、昨日より薄い。


薄いというより、遠い。


手を伸ばしても、少しだけ届かない場所に置かれているような文字だった。


ソラは、席に座っていた。


ちゃんとそこにいる。


灰色の髪。


薄い瞳。


胸元の席札。


けれど、今日はいつもより少しだけ輪郭が淡い。


朝の光に溶けかけているのではない。


明日の方へ、少しずつ引かれているように見えた。


「ソラ」


ましろが呼ぶ。


ソラは顔を上げた。


「うん」


返事はある。


それだけで、ましろは少し息を吐いた。


「大丈夫?」


ソラは少し考えた。


「大丈夫、って言うと怒られる気がする」


「誰に?」


「ねむと、レムと、ヨル」


「正解」


ねむが隣の椅子に沈みながら言った。


今日も眠そうだった。


いや、今日のねむは眠そうというより、昨日の疲れがまだ布団から追いかけてきている顔だった。


夢見のランタンは、膝の上にある。


青黒い火は、食堂の空気をぼんやり照らしていた。


「じゃあ」


ソラは少し困ったように笑う。


「大丈夫じゃない。でも、今は席にいる」


「よろしい」


ねむは目を閉じた。


「生存報告としては八十点」


レムが杖の宝石の中で、すぐに眉を上げる。


「採点権の拡張が進んでいるわね」


「時代は共有採点」


「嫌な時代ね」


ヨルは食堂の端にいた。


棚の近く。


名札箱の横に置かれた、小さな棚の近く。


その棚の上には、まだ呼ばれない名前がある。


あかり。


文字は淡く光っている。


呼ばれていない。


返事もしていない。


けれど、消えてはいない。


赤い缶は名札箱の中で静かにしている。


銀匙は白い布に包まれ、棚の下に置かれている。


白木の箱は、未許しの輪の中で眠っている。


ヨルはそれらを見張っているように見えた。


本人に言えば、たぶん違うと言う。


ましろは言わなかった。


ヨルはソラの席札をちらりと見た。


「薄い」


短い声。


ソラは頷いた。


「うん」


「いつから」


「昨日の夜から」


「言え」


「今言った」


ヨルは少し眉を寄せる。


「遅い」


ソラは困ったように笑った。


「ごめん」


「謝るな」


ねむが片目だけ開ける。


「ヨル、朝から会話が刃物」


「刃物の方が分かりやすい」


「それはそう」


レムが低く言った。


「笑っている場合ではないわ」


宝石の中の少女は、ソラの席札を見ている。


「また明日、の文字が揺れている」


ましろは杖を握った。


「どういうこと?」


「席札は、ただ名前を書く札ではない。ソラにとっては、今日から明日へ渡るための細い橋でもある」


ソラが、自分の席札に指を触れた。


「橋」


「ええ」


レムは静かに言う。


「名前は“今ここにいる”ためのもの。けれど、約束は“次もここにいる”ためのものになる」


「また明日が、約束?」


ましろが聞くと、ソラは少しだけ目を伏せた。


「たぶん」


食堂の奥で、子どもたちが朝食を食べ始めていた。


スープの匂い。


焼いたパン。


ミルクのカップ。


いつもの朝。


けれど、今日はその「いつもの朝」が少しだけ不安定だった。


子どもの一人が、ソラの方を向いて言った。


「ソラくん、今日もあとで絵本読む?」


ソラは頷いた。


「うん」


「じゃあ、また明日も読もうね」


その瞬間。


ソラの席札が、かすかに白く揺れた。


「明日」の文字が、ほんの少し遠ざかる。


ソラの輪郭も、同じだけ薄くなった。


ましろは立ち上がる。


「ソラ!」


ソラは手を胸元に当てた。


「大丈夫」


「信用しない」


ねむが言う。


「今のは、言葉が引っかかった」


「また明日?」


ましろが聞く。


ねむはランタンを掲げた。


青黒い火が、席札を照らす。


「うん。約束の形が変」


「変?」


「普通の“また明日”は、今日を閉じて、明日へ渡す。これは、明日だけを遠くへ投げてる」


「何それ」


「私も言ってて嫌」


ヨルがソラを見る。


「返事した?」


ソラは少し考える。


「うん、心の中で」


「するな」


「え?」


「無理に返事するな」


ヨルの声は短かった。


けれど、昨日までより少しだけ、やわらかい棘だった。


「また明日って言われたからって、明日まで行く必要はない」


ソラは席札に触れたまま、ヨルを見る。


「でも、返事しないと」


「しないと?」


「そこにいられない気がする」


ヨルは黙った。


その沈黙は、怒りではなかった。


たぶん、自分の古い傷に触れたのだ。


ましろはソラの席札を見る。


また明日。


その言葉は、優しい約束のはずだった。


また明日も会おう。


また明日もここにいよう。


また明日も名前を呼ぼう。


けれど、ソラにとっては違うのかもしれない。


明日が来るたびに、もう一度呼ばれなければならない。


明日が来るたびに、もう一度そこにいることを確かめなければならない。


もし、誰も言ってくれなかったら。


また明日が、そこで途切れる。


「ソラ」


ましろは静かに聞いた。


「また明日って言われるの、怖い?」


ソラは少しだけ笑った。


でも、笑えていなかった。


「好きだよ」


「うん」


「でも、怖い」


その答えは、食堂の温かい空気の中で、小さく震えた。


「また明日って言われると、明日まではいていい気がする」


ソラは席札を見つめる。


「でも、明日になった時、また言ってもらえなかったら」


言葉が止まる。


「その明日には、僕はいないのかもしれない」


ましろは何も言えなかった。


ねむも。


ヨルも。


レムも、すぐには言葉を出さなかった。


その時、食堂の壁にかけられていた日めくり暦が、ぱらりと揺れた。


風はない。


それなのに、紙が一枚めくれる。


今日の日付。


その次の紙。


明日の紙。


そこが、真っ白だった。


ましろは息を呑む。


「明日が」


ねむがランタンを向ける。


「消えてるんじゃない」


「じゃあ?」


「まだ、来る場所がない」


ソラが立ち上がろうとして、ふらついた。


ましろが支える。


身体は軽い。


軽すぎる。


まるで、椅子に座っているはずなのに、椅子がソラを覚えきれていないみたいだった。


「ごめん」


ソラが言う。


ヨルが即座に言う。


「謝るな」


「うん」


「返事はしていい」


「難しい」


「難しくしたのは世界」


ねむがぼそりと呟いた。


「世界、本当に面倒を増やしてくる」


「そこは同意するわ」


レムが珍しくすぐに頷く。


澄が食堂へ入ってきた。


彼女は白くなった日めくり暦を見て、表情を引き締めた。


「明日の紙が、白いのですね」


「星守澄さん、これって」


ましろが聞くと、澄はソラの席札を見た。


「席札だけでは足りなくなってきたのかもしれません」


「足りない?」


「ソラの名前は、今ここに留まるための名前です。けれど、“また明日”は、時間を渡る約束です」


澄は静かに言った。


「今日ここにいることと、明日もここにいることは、似ているようで違います」


ねむが低く言う。


「また概念が増えた」


「増えたのではなく、見えるようになっただけです」


「それが面倒」


ソラは食堂の白い暦を見ていた。


「僕の明日、ないの?」


澄はすぐには答えなかった。


ましろは、その沈黙が嫌だった。


嫌だったけれど、澄が簡単に「あります」と言わないことも、今は少し分かる。


あると言っても、ソラがそこへ届かなければ意味がない。


「確認しましょう」


澄は言った。


「出席帳を」


学習室は、食堂の隣にある小さな部屋だった。


子どもたちが文字を覚えたり、絵を描いたり、手紙を書いたりする場所。


棚には古い本。


壁には星の地図。


窓際には小さな机。


その奥の棚に、厚い出席帳が置かれている。


星見坂孤児院の子どもたちの名前が、毎日記される帳面。


澄がそれを開くと、紙の匂いがふわりと立った。


古い紙。


鉛筆。


インク。


少しだけ、星の匂い。


ましろはその匂いをかいで、胸元の宝石に手を当てた。


ヨルは入口の近くに立っている。


「私は関係ない」


「来てる時点で説得力ない」


ねむが言う。


「見張り」


「何を?」


「空気」


「また空気に怒ってる」


ヨルは黙った。


反論しないのが、少しだけ面白かった。


澄は出席帳を開く。


今日の欄。


そこには、子どもたちの名前が並んでいた。


ユリ。


カナ。


トウマ。


リオ。


七瀬悠太。


棘咲ねむ。


久遠ましろ。


帳ソラ。


黒鐘ヨル。


ヨルが目を細める。


「勝手に書くな」


澄は少しだけ微笑む。


「門を通って名乗った子は、出席帳にも記されます」


「私は子どもじゃない」


「では、滞在者として」


「余計嫌」


ましろは少し笑いそうになった。


けれど、次のページを見て、笑えなくなった。


明日の欄。


他の子どもたちの名前は、薄く書かれている。


まだ確定していない予定のように。


けれど、ある。


ましろの名前も。


ねむの名前も。


悠太の名前も。


ヨルの名前さえ、薄くそこにあった。


でも、ソラの行だけが白かった。


帳ソラ。


今日の欄にはある。


明日の欄には、ない。


その空白は、名札の白とは少し違っていた。


消されたというより、まだ到着していない。


明日という場所に、ソラの名前だけが届いていない。


ソラは黙ってその行を見ていた。


「やっぱり」


声は小さかった。


「僕、明日にいない」


ましろはすぐに言った。


「そんなことない」


ソラはましろを見る。


責める顔ではない。


むしろ、少し困ったような顔。


「ましろ」


「うん」


「今の、嬉しいけど、少し痛い」


ましろは言葉を失った。


ヨルが低く言う。


「約束を投げるな」


ましろはヨルを見る。


「投げる?」


「明日もいる、って言うのは重い」


ヨルは出席帳を見る。


「届かなかったら、落ちる」


ましろは胸が痛んだ。


また明日。


それは、誰かを安心させる言葉だと思っていた。


でも、届かなかった時、その言葉は崖になる。


ソラは、その崖の縁にいる。


ねむがランタンを出席帳へ向けた。


青黒い光が、白い行を照らす。


すると、白い空白の奥に、薄い線が浮かんだ。


文字ではない。


道でもない。


折りたたまれた紙のようなもの。


「何か挟まってる」


ねむが言った。


「紙?」


悠太がスケッチブックを開く。


出席帳の白い行と同じ形が、ページの上に浮かび始めた。


細い紙。


栞のような形。


悠太の鉛筆が勝手に動く。


「しおり?」


悠太が言う。


「本の途中に挟むやつ?」


ソラがその絵を見た。


「今日と明日の間に、何か挟まってる」


レムが宝石の中で頷いた。


「明日へ渡る前に、ソラの名前が途中で止められている」


「誰に?」


ましろが聞く。


レムは白い行を見た。


「誰か、というより、言葉に」


「言葉?」


「また明日」


その瞬間、席札が小さく震えた。


学習室に持ってきたソラの席札。


ソラの席。


帳ソラ。


また明日。


最後の一行が、少しだけ白くなった。


ソラは席札を両手で持つ。


「これ、僕を残してくれてた言葉なのに」


声が震えている。


「今は、僕を明日から遠ざけてる?」


澄は静かに言った。


「約束は、叶えば橋になります。叶わなければ、閉じた扉になることがあります」


「また扉」


ねむが額を押さえる。


「最近、扉と輪と棚が増えすぎ」


「あなたが一番よく分類しているわ」


レムが言う。


「嫌な才能」


ヨルは出席帳を見ている。


「じゃあ、明日に行かせるな」


ましろは驚く。


「え?」


「今日に置けばいい」


ヨルの声は短い。


けれど、その短さの中に、昨日までの経験が詰まっていた。


「明日が遠いなら、今日に置く」


ましろは、はっとした。


あかり。


赤い缶。


白木の箱。


それらを、無理に戻さなかった。


許させなかった。


返事させなかった。


今は、なくさない場所に置いた。


なら、ソラも。


「明日へ無理に渡さない」


ましろは言った。


「でも、今日から落ちないようにする」


ソラがましろを見る。


「今日から落ちる?」


「うん」


ましろは席札を見た。


「明日が遠いなら、まず今日はここにいるって書こう」


「今日」


ソラは小さく繰り返した。


「でも、また明日は?」


ヨルが言う。


「あとでいい」


その言葉に、ましろは少しだけ笑いそうになった。


ヨルが、また同じ思想を自分の言葉で使っている。


戻すかどうかは、あとでいい。


でも、なくさない。


明日へ行けるかどうかは、あとでいい。


でも、今日いることはなくさない。


悠太がスケッチブックを抱え直した。


「じゃあ、今日のしおり?」


レムがすぐに言う。


「悪くないわ」


「何点?」


「八十二点」


「やった!」


ヨルがぼそりと言う。


「点数に弱い」


「ヨルも百点って言った」


「忘れろ」


「忘れない」


「だと思った」


ましろは悠太のスケッチブックを見た。


ページには、細い栞が描かれている。


その栞には、まだ何も書かれていない。


でも、空白ではなかった。


何かを書くのを待っている白。


王冠の白とは違う。


燐灯堂の空白とも違う。


まだ書いていないだけの白。


ましろは言った。


「今日ここにいる」


ソラの席札が、小さく震えた。


「帳ソラ」


ねむが続く。


「今日ここにいる」


「帳ソラ」


悠太も大きく言う。


「今日ここにいる!」


ヨルは少しだけ黙った。


それから、低く言う。


「ソラ」


ソラが振り向く。


ヨルは目を逸らした。


「今日、いる」


それだけだった。


でも、ソラの輪郭が少しだけ濃くなる。


ソラは、息を吸った。


「うん」


返事は小さかった。


けれど、ちゃんとそこにあった。


ましろは星律の杖を握る。


「レム、できる?」


「できるかどうかではなく、やるのでしょう」


「うん」


「最近、確認が雑になっているわ」


「でも、やる」


「六十八点」


「下がった」


「でも開始点としては悪くない」


レムは宝石の中で手をかざす。


星律の杖から、細い光の線が伸びた。


出席帳の今日の欄。


ソラの席札。


悠太のスケッチブック。


三つが、淡い光で結ばれる。


ねむのランタンが境界を照らす。


青黒い火が、今日と明日の間に挟まっていた白い栞の形を浮かび上がらせる。


ヨルは黒い鐘の杖を床に軽くついた。


ごん。


小さな音。


破壊ではない。


落ちないように、足元を固める音。


ソラは席札を両手で持っていた。


ましろは静かに言う。


「今日は、ここにいる」


星の光が、出席帳の今日の欄から浮かび上がる。


「帳ソラは、今日ここにいる」


席札の上に、新しい線が現れた。


ソラの席。


帳ソラ。


また明日。


その下に、もう一行。


今日、ここにいる。


文字は黒くはなかった。


青灰色だった。


ソラの瞳と同じ色。


薄いけれど、消えない。


出席帳の白い行が、少しだけ落ち着く。


明日の欄は、まだ白い。


けれど、今日の欄からソラの名前が剥がれなくなった。


ソラは席札を見つめていた。


「増えた」


「うん」


ましろは頷く。


「明日はまだ遠いけど、今日はここにいる」


ソラの目が揺れる。


「それでいいのかな」


ヨルが言った。


「今は」


短い。


でも、強かった。


「今は、それでいい」


ソラはヨルを見た。


「ヨルがそれ言うんだ」


「悪い?」


「ううん」


ソラは少しだけ笑った。


「うれしい」


ヨルは顔をしかめた。


「喜ぶな」


「無理」


「面倒」


ねむが椅子に座り込む。


「これ、応急処置?」


レムが答える。


「ええ。明日そのものは戻っていない」


「やっぱり」


「でも、今日から落ちることは防いだ」


澄は出席帳を閉じずに見つめていた。


「この先は、私の記録だけでは届かないかもしれません」


ねむのランタンが、低く揺れる。


「夢の奥だね」


ソラの指が、席札を押さえる。


「僕の?」


ねむは頷いた。


「たぶん」


「思い出せない」


「今は、思い出さなくていい」


ましろは言った。


ヨルを見る。


ヨルは少しだけ目を逸らした。


ましろは続ける。


「なくさなければいい」


ソラは席札を見る。


今日、ここにいる。


その文字に、指先をそっと置く。


「うん」


その返事は、朝の学習室に静かに残った。


その日の午後。


ソラの輪郭は、朝より少しだけ濃くなっていた。


完全ではない。


けれど、椅子から滑り落ちそうな感じは消えている。


食堂の窓際の席に座り、ミルクのカップを両手で持っている。


その隣では、悠太がスケッチブックに今日のしおりを描いていた。


「字、書いていい?」


悠太が聞く。


ソラは少し考えた。


「うん。でも、明日は書かないで」


「今日だけ?」


「うん」


「じゃあ、こう」


悠太は栞の下に、ひらがなで書いた。


きょう、ここにいる。


その文字を見たソラは、少しだけ泣きそうな顔をした。


「どうしたの?」


ましろが聞くと、ソラは首を振った。


「今日だけでも、こんなに安心するんだね」


その言葉で、ましろの胸も少し痛くなる。


今日だけ。


今だけ。


まだ。


あとで。


この孤児院には、そういう言葉が増えてきた。


完全な解決ではない。


でも、誰かを今日から落とさないための言葉。


ヨルは棚の近くで、あかりの文字を見ていた。


それから、ソラの席札を見た。


「明日が遠いの、嫌?」


ソラは頷いた。


「嫌」


「そっか」


ヨルはそれだけ言った。


けれど、そのあと小さく付け足す。


「私も、遠いのは嫌い」


何が、とソラは聞かなかった。


たぶん聞かない方がいいこともある。


ねむは机に突っ伏していた。


「私は布団が遠いの嫌い」


「それは近いと思う」


ましろが言う。


「近いのに行けないのが一番つらい」


「深いようで浅い」


「浅くていい。睡眠は浅瀬で浴びたい」


レムが宝石の中で言う。


「意味が分からないわ」


「分からなくていい」


そんなやり取りの中で、ソラは少しだけ笑った。


笑ったまま、席札を見る。


また明日。


その文字は、まだ遠い。


けれど、その下にある。


今日、ここにいる。


その一行が、ソラの足元に小さな重さをくれていた。


夕方になり、子どもたちが中庭から戻ってきた。


「また明日遊ぼうね」


誰かがそう言いかけた。


ましろは息を止める。


でも、その子は途中で言葉を止めた。


ソラの顔を見る。


それから、少し考えて言い直した。


「今日、一緒に遊べて楽しかった」


ソラは目を丸くした。


それから、静かに笑った。


「うん」


返事は、それだけだった。


けれど、席札の「今日、ここにいる」が、ほんの少し濃くなった。


ましろは、その光を見て胸が温かくなった。


また明日を言わない優しさもある。


明日を約束しないことで、今日をちゃんと渡せることもある。


ヨルがぼそりと言った。


「悪くない」


「誰に言ったの?」


ましろが聞く。


「空気」


「空気と仲直りした?」


「してない」


夜。


食堂の灯りが落とされる前、ましろはもう一度出席帳を見た。


今日の欄。


帳ソラ。


ちゃんとある。


その横に、青灰色の小さな栞の印がついていた。


今日、ここにいる。


明日の欄は、まだ白い。


けれど、朝より少しだけ違う。


白いだけではない。


そこに、細い文字が浮かびかけていた。


ましろは目を凝らす。


まだ読めない。


けれど、ソラが隣で息を呑んだ。


「見える?」


ましろが聞く。


ソラは頷いた。


「少し」


「何て?」


ソラは席札を胸に当てる。


「また明日を言った声は」


文字はそこで止まっていた。


そして、少し間を置いて、もう一行が浮かぶ。


まだ、昨日にいる。


ましろは言葉を失った。


昨日。


明日が遠いのに。


探すべき声は、昨日にいる。


ねむが眠そうな顔で出席帳を覗き込む。


「時制が迷子」


レムが低く言う。


「迷子ではないわ。閉じ込められている」


「どこに?」


ましろが聞く。


レムは答えなかった。


代わりに、出席帳の白いページを見つめる。


その紙の奥に、暗い青色の線が一本走っていた。


まるで、帳が下りた舞台の向こう側へ続く細い道みたいに。


ソラが小さく言った。


「昨日に、行くの?」


ヨルが即答する。


「今日は行かない」


ソラは少し驚いて、ヨルを見る。


ヨルは目を逸らした。


「今日、ここにいるんでしょ」


その言葉で、ソラの席札が静かに光った。


ソラは、ゆっくり頷く。


「うん」


ましろは出席帳を閉じなかった。


閉じたら、何かが消えてしまいそうだったから。


そのまま、ページに手を添える。


「今日は、ここにいよう」


ソラは頷いた。


「うん」


窓の外で、夜が降りていく。


棚の上のあかりが、遠くで小さく光っている。


名札箱の赤い缶は眠っている。


白木の箱は沈黙している。


そして、ソラの席札には、新しい一行がある。


今日、ここにいる。


けれど、その下で。


また明日、という言葉は、まだ遠くで揺れていた。


まるで、昨日の向こうから誰かが手を振っているみたいに。

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