第31話 なくさない名前
赤い屋根の家は、朝の坂の下で待っていた。
待っていた。
そう思った瞬間、ましろは胸の奥が少し痛くなった。
待つことは、人を壊すことがある。
そのことを、もう知っている。
待っていた人がいる。
待つことをやめた人がいる。
帰れなかった人がいる。
ただいまを言えなかった人がいる。
ごめんねを預けた人がいる。
返事を隠した人がいる。
そして、その全部を抱えたまま、まだ玄関に残っている言葉がある。
おかえり。
玄関の敷物に残った文字は、昨日より濃くなっていた。
完全ではない。
けれど、もう消えかけてはいない。
家は、まだ誰かを迎える形を覚えている。
ましろは、その文字を見つめた。
嬉しいはずなのに、少し怖かった。
思い出すことは、救いだけではない。
思い出すことで、もう一度痛むものもある。
ヨルは、敷物を見ていなかった。
いつものように。
けれど、ましろには分かった。
見ないようにしているだけだ。
ヨルの手には、白い布で包まれた銀匙がある。
黒い鐘の杖は肩に担いでいる。
布の中の銀匙は、時々かすかに鳴った。
かちん。
赤い缶は、孤児院の名札箱に置いてきた。
返事待ちの輪の中で。
けれど、ヨルは何度も振り返りそうになっていた。
振り返らないようにしているのだと、ましろには分かった。
「入る」
ヨルが言った。
短い声だった。
「うん」
ましろは頷いた。
ねむは夢見のランタンを抱え、半分だけ目を開けている。
「ねむ、大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
「うん」
「即納得しないで」
「昨日より顔色が床に近い」
「床に謝って」
ソラは玄関の表札を見上げていた。
表札はまだ白い。
でも、木目の奥に、昨日より細い線が増えている。
名前の跡。
伏せ名の跡。
呼ばれかけて、しまわれたものの跡。
「今日は、家がこっちじゃなくて、窓の方を見てる」
ソラが言った。
ヨルが白い布を握り直す。
「家まで見るな」
「家の方が見てるんだよ」
「なお悪い」
ましろは扉の前に立った。
「入ってもいい?」
返事はなかった。
けれど、食卓の方で、ことん、と音がした。
カップを置く音。
昨日よりも、はっきりしている。
ヨルが扉を開ける。
中は、いつものように綺麗だった。
小さな玄関。
棚の上の鍵。
壁にかかった帽子。
大人の靴。
小さな靴。
食卓には、三つのカップ。
大きいカップ。
中くらいのカップ。
小さいカップ。
ましろの目は、やはり中くらいのカップへ吸い寄せられた。
昨日、呼んだ人の声が半分だけ残っていたカップ。
呼んだ人。
返事を隠した人。
ごめんねと泣いた人。
そして、おそらく。
待つことをやめた人。
ヨルはカップを見なかった。
見ないようにしている。
けれど、白い布の中の銀匙が、かちん、と鳴った。
「うるさい」
ヨルが低く言う。
銀匙はもう一度だけ鳴った。
かちん。
今度は食卓ではなく、窓の方を向くように、布の中で小さく動いた。
ねむがランタンを掲げる。
青黒い火が、家の中を薄く照らした。
食卓。
カップ。
子ども部屋へ続く廊下。
そして窓。
窓ガラスの向こうに、星見坂孤児院の食堂が映っていた。
本当なら、ここからは見えないはずの場所。
孤児院の食堂の窓辺。
茶色の木箱。
窓辺のあかり。
名札箱。
その中にある赤い缶。
ましろは息を呑んだ。
「つながってる」
ソラが頷く。
「呼んだ声の半分は、この家にある。もう半分は、灯りにある」
ヨルが低く言った。
「じゃあ、合わせるの」
「たぶん」
「簡単に言うな」
「ソラ、まだ何も簡単って言ってない」
ましろが言うと、ヨルは目を逸らした。
「空気が言った」
ねむがぼそりと言う。
「ついに空気にも怒り始めた」
「怒ってない」
「怒ってる」
「うるさい」
銀匙が小さく鳴る。
かちん。
ヨルは布の中の匙を睨んだ。
「お前も黙れ」
匙は黙った。
ねむが少しだけ目を細めた。
「従うんだ」
「従ったんじゃない」
ヨルは言った。
「聞いただけ」
ましろはその言葉を覚えておこうと思った。
返事ではない。
従ったわけでもない。
でも、聞いた。
それは、今のヨルにとって大事な違いなのかもしれない。
ヨルは銀匙を白い布から出した。
朝の光を受けて、銀色が淡く光る。
柄には、ミトの文字。
銀匙ミト。
人の本名ではない。
役目に近い呼び名。
けれど、軽々しく呼んではいけないもの。
ヨルはその匙を、真ん中のカップの隣へ置いた。
昨日と同じように。
しかし、今日はカップだけではなかった。
窓辺のあかりの光が、窓ガラスの向こうから細く伸びてくる。
銀匙。
真ん中のカップ。
窓辺のあかり。
三つが、銀色の線でつながった。
その瞬間、赤い屋根の家の空気が変わる。
壁の色が、少し若返る。
床の傷が減る。
食卓のカップに、湯気が立つ。
昨日見た声の記憶が、再び立ち上がる。
けれど、今日は違った。
ねむが低く言う。
「昨日より、奥まで開いてる」
「見て大丈夫?」
ましろが聞くと、ねむはランタンを握り直した。
「大丈夫じゃない。でも、今なら戻れる」
「それ、大丈夫なの?」
「ねむ基準では上位」
ソラが窓を見る。
「家だけじゃない。灯りも見てる」
ヨルは銀匙を睨み、そしてカップを見た。
「顔を見せろ」
声は低かった。
「泣くくらいなら、顔を見せろ」
銀色の線が震える。
食卓の向こうに、誰かが座っていた。
昨日より輪郭が濃い。
まだ顔は見えない。
けれど、手は見えた。
細い手。
カップを包む手。
冷めたカップを、冷めていないふりで持っている手。
その人は、玄関を見ていた。
玄関には、小さな子どもの影が立っている。
顔は白く隠れている。
でも、ましろにはもう分かっていた。
これは、ヨルそのものではない。
今のヨルではない。
けれど、ヨルの奥に伏せられていた名前の影。
あかり。
まだ呼んではいけない。
まだ返事を強制してはいけない。
けれど、そこにあった名前。
真ん中のカップの人が、口を開く。
今度は、少しだけ声が聞こえた。
「あ……」
そこで声が途切れる。
窓の外に、白い名札が浮かぶ。
一枚。
二枚。
何枚も。
王冠の白に似ている。
けれど、王冠そのものではない。
空白に目印をつけようとするもの。
名前の道ができる瞬間を待っているもの。
呼び声と返事がつながれば、その子の場所を見つけるもの。
真ん中のカップの人は、それに気づいた。
息を呑む。
それでも、名前を呼んだ。
今度は、聞こえた。
「あかり」
ましろの胸が痛いほど熱くなった。
ヨルが、一歩下がる。
「……やめろ」
名前は、家の中で震えた。
窓辺のあかりが、強く光る。
茶色の木箱が、孤児院の食堂の窓辺で揺れているのが見えた。
「あかり」
それは灯りの名ではなかった。
けれど、灯りが守っていた。
それは役目の名ではなかった。
けれど、役目として残されていた。
それは、かつて誰かに呼ばれていた名前だった。
帰ってきてほしいと願われた名前。
返事が返るはずだった名前。
玄関の小さな影が振り向く。
口を開く。
返事をしようとする。
その瞬間、白い名札たちが窓の外で一斉に震えた。
見つけた。
そう言っているみたいだった。
真ん中のカップの人は、銀匙を掴む。
けれど、その手は震えていた。
その人の背後に、もう一つの手が重なる。
細い、小さな手。
けれど、その手つきだけは大人びていた。
大人の手に教え込まれた、子どもの手。
銀匙を扱う役目を知る手。
ミトの手。
けれど、それは今ここにいる人ではない。
過去にこの人へ匙の扱いを教えた、誰かの手の残り。
銀匙ミトの役目だけが、手つきとして残っている。
真ん中のカップの人は、ミトそのものではなかった。
けれど、ミトの銀を借りた人だった。
守るための手つきを、受け取ってしまった人だった。
「返事しないで」
真ん中のカップの人が言った。
名前を呼んだあとに。
返事しないで、と。
あまりにも矛盾している。
呼んだのに。
聞きたかったはずなのに。
けれど、ましろには分かってしまった。
返事を聞きたかった。
でも、返事を聞いたら見つかってしまう。
だから、自分で隠した。
呼んだ本人が。
聞きたかった返事を。
自分の手で。
銀匙が、返事をすくい取った。
ちん。
どこか遠くで、赤い缶が鳴る。
返事がすくい取られた瞬間、窓の外の白い名札たちは行き場を失った。
呼び声と返事の道は、最後まで結ばれなかった。
白い名札は、窓の外で雪のように散った。
小さな影は、何かを忘れたように立ち尽くす。
真ん中のカップの人は、銀匙を握ったまま泣いていた。
「ごめんね」
その声は、昨日よりはっきり聞こえた。
「ごめんね、あかり」
ヨルの顔から血の気が引いた。
白木の箱の中から漏れていた声。
ごめんね。
その声は、ここにあった。
謝れなかった人の言葉ではない。
謝罪を受け取る前に、待つことをやめた人の言葉。
けれど、その根っこには、返事を隠した人の声も混じっていた。
呼んだのに聞けなかった人。
守るために奪った人。
待ち続けたのに、最後には灯りを売ってしまった人。
真ん中のカップの人は、震える手で一枚の紙を書いていた。
あかりへ。
その字は、見覚えがあった。
子ども部屋の引き出しに残っていた紙片と同じ。
あかりへ。
それは、灯りへの手紙ではなかった。
窓灯りに預けられていた名前への手紙だった。
あかり。
あなたを呼んだ。
あなたの返事を隠した。
あなたを待った。
待てなくなった。
灯りを売った。
道を失わせた。
それでも、名前だけは売れなかった。
窓灯りが、それを隠したから。
真ん中のカップの人の声が、窓の方へ流れていく。
家に残った半分の声。
窓灯りに残った半分の声。
二つが、銀色の線で結ばれる。
銀匙が、かちん、と鳴った。
そして、窓辺のあかりが強く光った。
孤児院の食堂の窓辺。
茶色の木箱。
白い布の下の「あかりへ」の紙片。
名札箱の中の赤い缶。
その蓋に浮かんでいた「り」が、淡く光る。
赤い屋根の家の窓と、孤児院の窓が、完全につながった。
真ん中のカップの人の声が、ひとつになる。
「あかり」
今度は、家の中だけではない。
窓灯りの奥からも、その名が響いた。
けれど、誰も返事をしなかった。
ましろも。
ねむも。
ソラも。
ヨルも。
返事は、呼ばれた人が決めるものだから。
赤い缶が、遠くで鳴った。
ちん。
それは開いた音ではなかった。
蓋が外れた音でもない。
ただ、長い間閉じられていた場所に、ようやく呼んだ声が届いた音だった。
ヨルが震えていた。
黒い鐘の杖を握る手が白い。
「これで」
声がかすれている。
「返事、戻るの」
銀匙が、静かに鳴った。
かちん。
ソラが言う。
「戻れる」
「開ければ?」
ましろが聞くと、ソラは首を横に振った。
「開けなくても、戻る場所はできた」
「返事は、もう隠されたものじゃない」
ねむが小さく言った。
「ヨルのところへ戻ってる。でも、開けるかどうかは別」
ヨルが顔をしかめる。
「言い方が嫌」
「でも、たぶん合ってる」
赤い缶は鳴らなかった。
ヨルが赤い缶の映る窓を見た。
「聞けってこと」
「違う」
ましろは思わず言った。
ヨルがこちらを見る。
ましろの胸元の青い宝石が、服の下でかすかに熱を持った。
けれど、ましろはその熱を今は追わなかった。
今ここで決めるべきなのは、ヨルの返事だった。
「聞くかどうかは、ヨルが決めていい」
その言葉に、ヨルの目が揺れた。
誰かが呼んだ。
返事は戻った。
けれど、それを今聞くかどうか。
今返すかどうか。
それは、ヨルが決めていい。
記憶の中の真ん中のカップの人は、まだ泣いていた。
「あかり」
声が震える。
「ごめんね」
ヨルはその声を聞いていた。
逃げなかった。
でも、受け取らなかった。
「許さない」
ヨルが言った。
記憶の声が揺れる。
「守るためだったとしても、許さない」
黒い鐘が、小さく震える。
「でも」
ヨルの声は低く、けれど確かだった。
「聞かなかったことにはしない」
銀色の線が、静かにほどけた。
真ん中のカップの人の影が、ほんの少しだけ頭を下げたように見えた。
顔は、最後まで見えなかった。
名前も、最後まで分からなかった。
けれど、呼んだ人がいたこと。
待っていた人がいたこと。
待つことをやめた人がいたこと。
返事を隠した人がいたこと。
その事実は、もう白くならなかった。
銀匙が、真ん中のカップの隣で静かに光る。
かちん。
その光が、ましろたちを現実へ戻した。
赤い屋根の家。
朝の光。
三つのカップ。
銀匙。
窓辺。
玄関の「おかえり」。
ましろはゆっくり息を吐いた。
ねむがランタンを下ろす。
「戻った」
「大丈夫?」
ましろが聞くと、ねむは真顔で言った。
「大丈夫じゃない。今、私の魂の一部がこの家の壁紙になりかけた」
「比喩?」
「たぶん」
ソラは、食卓の大きいカップを見た。
「大きいカップの人は、最後まで出てこなかった」
ましろも、そのカップを見る。
湯気はない。
けれど、空っぽではない気がした。
「まだ、この家には残ってるものがあるんだね」
ソラは小さく頷いた。
「うん。でも、今は起きてない」
ヨルは真ん中のカップを見ていた。
「名前は」
ましろは頷く。
「分かった」
「あかり」
ねむがその文字を口にしそうになって、すぐに口を閉じた。
ヨルはそれに気づいた。
けれど怒らなかった。
「呼ぶな」
短く言っただけだった。
「うん」
ねむは頷く。
ソラが静かに言う。
「名前は、戻った。でも、まだ呼ばない」
ヨルは何も言わなかった。
けれど、その沈黙は拒絶だけではなかった。
ヨルは銀匙を白い布に包む。
真ん中のカップには触れない。
その代わり、食卓の上に手をかざした。
「ここに、あった」
ましろが以前言ったように。
ヨルは不器用に、少し言葉を探しながら続けた。
「呼んだ声は、ここにあった」
中くらいのカップがかすかに光る。
「返事を隠したことも、ここにあった」
銀匙が静かに鳴った。
かちん。
ヨルは小さく息を吸う。
「ごめんねも、ここにあった」
その言葉に、白木の箱の気配が遠くで揺れた気がした。
ヨルは歯を食いしばる。
「でも、まだ許さない」
ましろは頷いた。
「うん」
「まだ、受け取らない」
「うん」
「でも、なくさない」
「うん」
その瞬間、玄関の敷物が光った。
おかえり。
その下に、細い線が浮かぶ。
まだ文字ではない。
けれど、家がその言葉を覚えたのだと分かった。
ヨルは敷物を見た。
今度は、ちゃんと見た。
「まだ、帰ってない」
家は答えない。
けれど、おかえりの文字は消えなかった。
「行く」
ヨルが言った。
「孤児院へ?」
ましろが聞く。
「棚がある」
「棚?」
ヨルは目を逸らした。
「見るな」
まだ見ていないのに、そう言った。
ましろは何も聞かなかった。
でも、胸の奥が少し温かくなった。
赤い屋根の家を出ると、朝の光が少し強くなっていた。
坂を上る。
ヨルは銀匙を白い布で包んでいる。
ましろは星律の杖を握る。
ねむはランタンを抱え、歩きながら少し寝ている。
ソラは席札を押さえ、時々振り返る。
赤い屋根の家は、坂の下で静かに立っていた。
ましろは思った。
あの家は、もうただ待っているだけではない。
あの家は、覚え始めている。
誰かがそこにいたことを。
誰かが呼んだことを。
誰かが返事を隠したことを。
そして、まだ帰っていない誰かがいることを。
孤児院の門が見えてくる。
門の鐘が、風もないのに揺れる。
ちりん。
ヨルが立ち止まる。
白い布の中の銀匙が、かちん、と鳴る。
ヨルは低く名乗った。
「黒鐘ヨル」
ちりん。
ごん。
かちん。
門の鐘。
黒い鐘。
銀の匙。
三つの音が重なる。
孤児院の食堂へ戻ると、名札箱の横に小さな棚があった。
ましろは足を止めた。
昨日までは、なかった。
小さな棚。
不器用な棚だった。
板の高さは少しだけずれている。
角も完全には揃っていない。
釘もまっすぐではない。
けれど、丁寧に磨かれていた。
何かを置くためだけに作られた、小さな場所。
悠太のスケッチブックに描かれていた、空っぽの棚に似ていた。
ましろはヨルを見る。
ヨルはすぐに目を逸らした。
「見るな」
その一言で、誰が作ったのか分かった。
ねむがぼそりと言う。
「夜中に何してたの」
「黙れ」
「否定しない」
「黙れ」
ソラが棚を見た。
「ここ、空いてる」
「空けた」
ヨルは言ってから、しまったという顔をした。
ましろは笑わなかった。
笑ったら、たぶんヨルは棚を壊す。
だから、静かに頷いた。
窓辺のあかりが、淡く光る。
茶色の木箱の窓。
その中の小さな灯り。
その光が、白い布の下に挟まれていた紙片へ落ちる。
「あかりへ」と書かれていた紙片。
それが、ふわりと浮いた。
紙片は開かれない。
文字だけが、紙から離れる。
あかりへ。
その最後の「へ」が、静かにほどける。
残ったのは、ひとつの言葉。
あかり。
名前だった。
窓辺のあかりが、その文字を小さく包む。
ましろは息を止めた。
誰も呼ばなかった。
ましろも。
ねむも。
ソラも。
澄も。
悠太も。
誰も、その名を声にはしなかった。
ヨルは長い間、その文字を見ていた。
あかり。
かつて呼ばれていた名前。
灯りに預けられていた名前。
役目として残されていた名前。
帰ってきてほしいと願われた名前。
返事が返るはずだった名前。
ヨルの唇が震えた。
黒い鐘の杖を握る手が白くなる。
赤い缶が、名札箱の中で小さく鳴った。
ちん。
けれど、蓋は開かない。
ヨルは缶を見た。
「開けない」
誰に言ったのか分からなかった。
缶に。
ましろたちに。
自分自身に。
「今は、聞かない」
赤い缶は、それきり鳴らなかった。
窓辺のあかりが、あかりの文字を静かに揺らす。
その瞬間、食堂の窓の端に、薄い紙片が滲んだ。
質札。
燐灯堂の紙。
そこには細い文字が浮かびかけていた。
査定対象。
呼び名。
あかり。
所有権――
ヨルの目が鋭くなる。
「売らない」
その声に、未許しの輪が震えた。
白木の箱の周りに置かれた境界が、青白く光る。
ごめんねは、勝手に許されない。
返事待ちの輪が、名札箱の中で赤い缶を抱えるように光る。
返事は、勝手に使われない。
窓辺のあかりが、あかりの文字を照らす。
待つことは、一人に押しつけられない。
そして、名札箱の横の小さな棚が、静かに光った。
戻すかどうかは、あとでいい。
でも、なくさない。
悠太が描いた場所。
ヨルが作った場所。
売るためではない。
返すためでもない。
今はただ、なくさないための場所。
質札の文字が震えた。
所有権未確定。
その下に、別の文字が浮かびかける。
競売可。
ましろは杖を握った。
でも、鳴らさなかった。
戦う場面ではない。
ここは、場所が答える場面だった。
ヨルが、ゆっくり手を伸ばした。
あかりの文字へ。
受け取るのではない。
胸にしまうのでもない。
名前として呼ばせるのでもない。
彼女はその文字を、両手でそっとすくうように持った。
そして、名札箱の横の小さな棚へ置いた。
あかり。
棚の上に、その文字が静かに座る。
質札の文字が、さらに震える。
競売可。
その文字が白く滲む。
代わりに、棚の上に淡い星の線が走った。
預かり。
売却不可。
本人未応答。
質札が、ぱきりと音を立てた。
紙片の端から、灰のようにほどけていく。
燐灯堂の気配が、食堂の窓の端で薄く揺れた。
遠くで、誰かが笑ったような気がした。
けれど、その声は入ってこられなかった。
値段をつける場所が、どこにもなかった。
所有できるものではない。
返事も、名前も、許しも、待つことも。
まだ決まっていないものに、値段はつけられない。
質札は、完全に消えた。
食堂には、朝の光だけが残った。
ヨルは棚の上の文字を見ていた。
長い時間。
誰も急かさなかった。
やがて、ヨルが小さく言った。
「今はまだ、ヨルでいい」
その声は、とても小さかった。
けれど、逃げてはいなかった。
「黒鐘ヨル」
門の鐘は鳴らない。
黒い鐘も鳴らない。
赤い缶も鳴らない。
けれど、棚の上の「あかり」は消えなかった。
ヨルは続ける。
「でも」
ほんの少しだけ声が震える。
「なくすな」
ましろは頷いた。
「うん」
ねむも言った。
「なくさない」
ソラも。
「ここにある」
悠太はスケッチブックを抱きしめて、真剣に言った。
「描く。でも、中は描かない」
ヨルは悠太を見た。
「外だけ」
「うん」
「棚だけ」
「うん」
「字は描くな」
「うん」
悠太は頷いた。
けれど、少しだけ笑った。
「でも、あるって分かるように描く」
ヨルは何か言い返そうとして、やめた。
「勝手にしろ」
「うん!」
それは、許可だった。
たぶん。
ヨルなりの。
レムが宝石の中で静かに言った。
「ミレアの白は、名前を残すための白だった」
ましろはレムを見る。
レムは棚の上のあかりと、銀匙を見ていた。
「ミトの銀は、名前を隠すための銀。向いている方向は違うけれど、どちらも名前を守ろうとしたものよ」
「守るって」
ヨルが言った。
「やっぱり嫌な言葉」
レムは頷いた。
「ええ。だから、正しいかどうかは別」
ヨルは少しだけレムを見た。
「今のは、少しだけまし」
「光栄ね」
「調子に乗るな」
レムは薄く笑った。
ましろは、胸元の青い宝石に触れた。
あの朝、赤い缶の前で飲み込んだ怖さが、また喉の奥に戻ってくる。
いつか、自分の本当の名前も、こんなふうに目の前に置かれる日が来るのかもしれない。
その時、自分は返事をするのだろうか。
それとも、まだできないと言うのだろうか。
ましろには、まだ分からない。
でも、一つだけ分かった。
誰かに呼ばれたからではなく。
誰かに決められたからでもなく。
自分で返事をするかどうかを決めたい。
ヨルが今、そうしたように。
ヨルは棚の前から一歩下がった。
赤い缶は名札箱の中で静かにしている。
あかりは棚の上にある。
窓辺のあかりは、少しだけ強く光っている。
白木の箱は、未許しの輪の中で沈黙している。
ごめんねは、まだ許されていない。
ただいまは、まだ言われていない。
あかりは、まだ呼ばれていない。
けれど、どれも消えていない。
それで今は、十分だった。
「ヨル」
ましろが呼ぶ。
ヨルは、ほんの少し遅れて振り向いた。
「何」
「帰ってきた?」
言ってから、ましろは少しだけ後悔した。
早すぎたかもしれない。
でも、ヨルは怒らなかった。
棚の上のあかりを見て。
名札箱の赤い缶を見て。
窓辺の灯りを見て。
それから、小さく言った。
「まだ」
ましろは頷いた。
「うん」
ヨルは続ける。
「でも、戻ってきた」
それは、たぶん初めてだった。
ヨルが自分で、戻ってきたと言ったのは。
ましろの胸がいっぱいになった。
ねむが目を逸らす。
「今のは、かなり」
「何」
ヨルが睨む。
「何でもない」
「言え」
「言うと怒る」
「もう怒ってる」
「じゃあ言わない」
ソラが静かに笑った。
悠太はスケッチブックを開いた。
そこには、名札箱。
小さな棚。
窓辺のあかり。
白木の箱。
赤い缶。
銀の匙。
そして、少し離れたところに黒い鐘。
棚の上には何も書かれていない。
でも、そこには光があった。
悠太は絵の下に、ひらがなで書いた。
まだ、へんじしない。
でも、なくならない。
ヨルはその文字を見た。
しばらくして、小さく言った。
「百点」
食堂が止まった。
ましろも、ねむも、ソラも、レムも、澄も、悠太も、全員がヨルを見た。
ヨルはすぐに顔をしかめる。
「何」
レムが言った。
「採点権の侵害ね」
「うるさい」
悠太は目を輝かせた。
「百点?」
「一回だけ」
「やった!」
「騒ぐな」
けれど、ヨルの声に本気の棘はなかった。
昼が近づくころ、赤い屋根の家の窓が、食堂のガラスから消えた。
茶色の木箱は、ただの茶色の木箱に戻った。
けれど、窓辺のあかりは消えなかった。
棚の上の「あかり」も、消えなかった。
赤い缶は静かだった。
銀匙は白い布に包まれ、棚の下に置かれている。
ヨルが決めた。
「ここに置く」
ましろは聞いた。
「銀匙も?」
「持ってると壊したくなる」
「うん」
「でも、なくすな」
「うん」
「必要なら、また持つ」
「うん」
ヨルはましろを見る。
「返事が早い」
「大事だから」
「本当に面倒」
でも、ヨルは少しだけ笑ったように見えた。
ほんの少し。
見間違いかもしれないくらい。
その日の夜。
孤児院が静かになったあと、ましろは食堂へ降りた。
棚の上のあかりは、淡く光っていた。
名札ではない。
まだ名乗られていない名前。
今はまだ、呼ばれない名前。
でも、そこにある。
ましろは胸元の宝石に手を当てた。
自分の本当の名前も、いつかこんなふうに目の前へ現れるのだろうか。
呼ばれた時、自分は何と答えるのだろう。
分からない。
でも、今はそれでいい。
まだ分からないまま、なくさないでいればいい。
ふと、窓辺で小さな音がした。
ましろが振り向く。
そこにはソラがいた。
食堂の窓辺。
いつもの席の近く。
胸元の席札を、指先でそっと押さえている。
ソラの席。
帳ソラ。
また明日。
その文字が、今夜は少しだけ濃かった。
けれど、最後の一行だけが、不思議に揺れている。
また明日。
その“明日”だけが、まだ誰にも届いていない手紙みたいだった。
「ソラ?」
ましろが呼ぶと、ソラは少しだけ笑った。
「うん」
「どうしたの?」
「分からない」
ソラは席札を見た。
「でも、今日は少し、明日が遠い」
ましろの胸に、小さな不安が落ちた。
ヨルの棚の上で、あかりが静かに光っている。
名札箱の中で、赤い缶は眠っている。
未許しの輪の中で、白木の箱は沈黙している。
そして、ソラの席札には、また明日。
ヨルの名前は、なくならなかった。
でも、次に揺れているのは。
明日。
ましろは、ソラの隣へ立った。
「じゃあ」
静かに言う。
「明日も、呼ぶね」
ソラは少し驚いた顔をした。
それから、小さく頷く。
「うん」
その返事は、とても小さかった。
でも、確かに食堂に残った。
窓の外で、星がひとつ流れる。
棚の上のあかりが、ほんの少しだけ揺れた。
まるで、今度は誰かの明日を照らす準備をしているみたいに。




