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第28話 返事をなくすな

赤い缶は、門の鐘より先に鳴った。


ちん。


小さな音だった。


金属の底を、爪の先で軽く弾いたような音。


けれど、その音を聞いた瞬間、ましろは足を止めた。


孤児院の門は、まだ少し先にある。


朝の光を受けた白い壁。


門の上の小さな鐘。


いつもなら、名前を告げたあとで鳴るはずの鐘。


けれど今日は、その前に、ましろの腕の中の赤い缶が鳴った。


布に包まれた、小さな錆びた缶。


赤い屋根の家で見つけたもの。


蓋には、ほとんど消えかけた文字。


り。


その中にあるのは、音ではない。


ソラはそう言った。


呼ばれた時の返事。


誰かが名前を呼んで、それに答えた証。


ましろは缶を抱える手に、少しだけ力を込めた。


「鳴った?」


ねむが眠そうな顔で振り向く。


「うん」


「開けてないのに?」


「うん」


ヨルは何も言わなかった。


けれど、歩みを止めている。


黒い鐘の杖を肩に担ぎ、赤い缶を見ていた。


怒っているような顔。


でも、それだけではなかった。


怖がっている顔にも見えた。


「開けないよ」


ましろが言うと、ヨルの目が動いた。


「当然」


「うん」


「返事は、なくすな」


「うん」


「でも、勝手に聞くな」


「うん」


「……返事が早い」


「大事だから」


ヨルは小さく舌打ちした。


けれど、それ以上は何も言わなかった。


門の前に立つ。


ましろは息を吸った。


「久遠ましろ」


門の鐘が鳴る。


ちりん。


その瞬間、赤い缶がもう一度鳴った。


ちん。


ましろは息を止める。


ねむがランタンを抱え直した。


「反応した」


「私の名前に?」


「たぶん、名前にじゃなくて、呼ばれたことに」


ソラが言った。


彼は自分の席札を胸に押し当てている。


ソラの席。


帳ソラ。


また明日。


「返事が、呼び声に反応してる」


「じゃあ」


ましろは缶を見る。


「誰の名前でも?」


ソラはすぐには答えなかった。


その沈黙だけで、答えは少し分かった。


ねむが顔をしかめる。


「まずい予感しかしない」


次に、ねむが名乗った。


「棘咲ねむ」


ちりん。


門の鐘が鳴る。


赤い缶は、少し遅れて鳴った。


ちん。


ねむの目が細くなる。


「やっぱり」


「返事しようとしてる?」


ましろが聞くと、ねむはランタンを見た。


「返事というより、返事の癖が出てる。呼ばれたら答えるものだって、缶の中の何かが覚えてる」


ソラが名乗る。


「帳ソラ」


少し遅れて、門の鐘が鳴る。


ちりん。


けれど、赤い缶は鳴らなかった。


ましろは缶を見る。


布の中で、静かにしている。


ソラは、少しだけ寂しそうに笑った。


「僕の声には、反応しにくいんだね」


ましろは胸が痛くなる。


「ソラ」


「大丈夫」


「その大丈夫は信用しない」


ねむが言う。


ソラは少し困ったように笑った。


「じゃあ、大丈夫じゃないけど、今は立ってる」


「よろしい」


最後に、ヨルが門の前に立った。


いつものように、少しだけ黙る。


それから、低く言った。


「黒鐘ヨル」


門の鐘が鳴った。


ちりん。


その奥で、ごん、という黒い余韻が重なる。


同時に、赤い缶が鳴った。


ちん。


今までより少しだけ、大きく。


ヨルの顔色が変わった。


「鳴るな」


缶は答えない。


けれど、布の中でかすかに震えている。


ましろは缶を抱え直した。


「ヨルの名前に反応した?」


「違う」


ヨルは即座に言った。


「これは私じゃない」


その言葉は、何度も聞いた。


でも、今日の声は少し違った。


否定というより、願いに近かった。


「中に入ろう」


ましろが言う。


「ここで考えるより、食堂の方がいい」


「簡単に言うな」


「でも、言わないと始まらない」


ヨルは少しだけ黙り、目を逸らした。


「それ、本当に腹立つ」


食堂へ戻ると、窓辺のあかりは静かに光っていた。


茶色の木箱。


蓋に描かれた小さな窓。


その中に灯る、淡い光。


窓の席、と悠太が呼んだ場所。


まだ待っている。


でも、ひとりではない。


その隣には、白木の箱がある。


黒い布をかけられ、未許しの輪(みゆるしのわ)の内側で沈黙している。


ただいま。


ごめんね。


その二つの声は、今は漏れていない。


そして、ましろの腕の中には赤い缶。


返事が入っているかもしれない缶。


呼ばれたことの証。


そこにいた誰かの「はい」。


ましろは長いテーブルの上に、布ごと赤い缶を置いた。


すぐに、ちん、と鳴った。


食堂の空気が止まる。


奥の部屋から、子どもたちの声が聞こえてくる。


まだ朝食前で、みんなが起き始めたところだった。


「隔離した方がいい?」


ましろが聞くと、レムが杖の宝石の中で目を細めた。


「隔離しすぎると、今度は缶の中の返事が“誰にも聞こえない場所”へ落ちるわ」


「聞こえない場所?」


「呼ばれない名前が消えるように、返事も誰にも届かないと痩せる」


ねむがぼそりと言う。


「返事まで痩せるの、世界って面倒」


「同意するわ」


レムが珍しく、すぐ頷いた。


「でも、勝手に返事をさせるわけにもいかない」


ソラが静かに言った。


「呼ばれても、返事しないでいい場所が必要」


ましろはソラを見る。


「返事しないでいい場所」


「うん」


ソラは自分の席札に触れた。


「僕は、呼ばれると嬉しい。でも、呼ばれたくない時もあると思う」


ヨルが少しだけソラを見る。


ソラは続けた。


「それに、違う名前で呼ばれたら、返事しなくていい」


ましろは缶を見る。


呼ばれたら返事をするもの。


けれど、誰の呼び声にも答えてしまうなら、それは返事ではない。


誰かの返事を、呼び声が奪っているだけだ。


「返事は、しなきゃいけないものじゃない」


ましろは呟いた。


ヨルの目が、ほんの少し動いた。


レムが言う。


「正しいわ。名前は呼ぶだけでは結ばれない。呼ばれた側が返事をして、初めて道ができる」


「道」


「ええ。だから危険なのよ」


レムの声が硬くなる。


「返事だけが独立していると、間違った呼び声にも道を作ってしまう」


「誰かが勝手に呼んで、缶が返事したら」


ねむが顔をしかめる。


「その呼び声と、缶の中の返事が結ばれる?」


「可能性はあるわ」


「最悪」


ヨルが低く言った。


「だから、開けるなって言った」


「開けてない」


ましろが言うと、ヨルは赤い缶を睨んだ。


「開けなくても、鳴ってる」


その時、食堂の入口から声がした。


「ましろお姉ちゃん!」


悠太だった。


寝巻きのまま、スケッチブックを抱えて走ってくる。


その後ろから、年少の子どもたちも顔を出していた。


「悠太くん、ちょっと待って」


ましろが言うより早く、赤い缶が鳴った。


ちん。


悠太は目を丸くする。


「何の音?」


ましろは赤い缶を押さえた。


「悠太くん、今は近づかないで」


「えっ、危ない?」


「少しだけ」


「爆発する?」


「それとは違う」


ねむが言う。


「返事が飛び出す」


悠太はさらに目を丸くした。


「返事って飛び出すの?」


「今日は飛び出しそう」


「返事って、はいって言うやつ?」


その瞬間、赤い缶が強く震えた。


ちん。


ちん。


ちん。


ましろは息を呑む。


缶の中から、かすかな声が漏れた。


はい。


小さな声。


子どもの声だった。


誰かに呼ばれて、当たり前のように返した声。


ましろの胸が締めつけられる。


ヨルが真っ青になった。


「やめろ」


赤い缶は震え続ける。


はい。


はい。


はい。


その声を聞いた年少の女の子が、つられるように言った。


「はい」


隣の子も言った。


「はい」


別の子も。


「はい」


食堂に、小さな返事が広がっていく。


誰も名前を呼ばれていないのに。


呼ばれていないはずなのに。


子どもたちは、何かに答えなければいけない気がしている。


ましろはぞっとした。


これは謝罪が漏れた時に似ている。


けれど、違う。


謝罪は、誰に謝ればいいのか分からないまま広がった。


今度は、誰に呼ばれているのか分からないまま、返事だけが広がっている。


「みんな、今は返事しないで!」


ましろが叫ぶ。


けれど、言ったあとで、自分の言葉に胸が痛んだ。


返事しないで。


そんなことを言いたいわけではない。


でも、今は止めなければならない。


ヨルが黒い鐘の杖を握る。


「鳴らす」


「待って」


ましろは言った。


「壊すなって言うんだろ」


「うん」


「今の状況見て、まだそれ言う?」


「言う」


ヨルの目が鋭くなる。


「返事まで食われるぞ」


「だから、返事を止める場所を作る」


「返事を止める?」


「違う」


ソラが言った。


彼は赤い缶を見ている。


「返事を待たせる場所」


ねむがランタンを掲げた。


「いいね。返事待ち」


「軽い」


ヨルが言う。


「軽くない」


ねむは眠そうな目でヨルを見た。


「返事しない自由は重い」


ヨルは黙った。


レムがすぐに言う。


「返事待ちの輪。仮の境界としては成立するかもしれない」


「また輪が増える」


ねむが言う。


「輪っか屋さんになってきた」


「あなたが言うと緊張感が死ぬわ」


「死んだ方がましな緊張もある」


ましろは赤い缶を見る。


まだ震えている。


はい。


はい。


小さな返事。


それは悪いものではない。


誰かが呼ばれて、嬉しくて答えた声かもしれない。


でも、今は行き先を間違えている。


「返事は、なくさない」


ましろは言った。


ヨルの目が動く。


「でも、勝手に使わせない」


赤い缶が、少しだけ静かになる。


ましろは続けた。


「呼ばれても、答えないでいい時がある」


はい。


声がかすかに揺れる。


「違う名前で呼ばれたら、答えなくていい」


ねむがランタンを強く握る。


「夢の中でも同じ。勝手に役を振られても、返事しなくていい」


ソラが席札を取り出す。


「席があっても、座るかどうかは自分で決めていい」


レムが宝石の中で頷く。


「返事は、強制されるものではない。応じる意思があって初めて返事になる」


ましろはヨルを見る。


「ヨル」


ヨルは険しい顔のまま黙っている。


「この返事に、まだ返事させないって言って」


「私が?」


「うん」


「何で」


「ヨルが、なくすなって言ったから」


ヨルの顔が歪む。


怒りか。


痛みか。


分からない。


「なくすなとは言った」


声が低い。


「でも、返事しろとは言ってない」


赤い缶が、ぴたりと止まった。


ヨルは黒い鐘を握る。


鳴らさない。


ただ、握る。


「まだ返事するな」


缶の中で、小さな音がした。


ちん。


「まだ、誰が呼んだのか分からない」


ちん。


「まだ、何に答えたのか分からない」


ちん。


ヨルの声が震える。


「だから、まだ返事するな」


赤い缶は沈黙した。


食堂に広がっていた「はい」の気配も、少しずつ引いていく。


子どもたちは、ぽかんとしていた。


「今、何に返事してたの?」


年少の子が首を傾げる。


澄がそっとその子の肩に手を置く。


「あなたが返事することではありませんでした」


「そうなの?」


「ええ」


澄の声は穏やかだった。


「返事は、呼ばれた人が決めるものです」


その言葉で、ましろの胸が少し温かくなった。


返事は、呼ばれた人が決めるもの。


当たり前のようで、今までちゃんと言葉にしていなかったこと。


名前を呼ぶことばかり考えていた。


でも、呼ばれた側が返事をするかどうかも、同じくらい大事なのだ。


ましろは星の護符を取り出した。


「ここに置こう」


ヨルがすぐに言う。


「何でも護符に置くな」


「じゃあ、どうする?」


ヨルは黙った。


ねむが言う。


「赤い缶は、白木の箱や茶色の木箱と同じ場所に置かない方がいい」


「どうして?」


「謝罪、待つ灯り、返事。全部近いけど、混ぜると危ない」


ソラが頷く。


「返事は、入口に近い方がいい」


「入口?」


「呼ばれた声が入ってくるところ。でも、すぐ外に出ないところ」


ましろは食堂を見回した。


入口に近くて。


けれど、誰かに踏まれたり触られたりしない場所。


ふと、壁際の小さな棚に目が止まった。


そこには、子どもたちが外へ出る時に使う小さな名札箱がある。


外遊びの時、自分の札を入れておく場所。


今は空だった。


「ここは?」


ましろが聞くと、レムが目を細めた。


「名札箱ね」


「返事の缶を、名前の札を入れるところに置くの?」


ねむが言う。


「危なくない?」


ソラは少し考えた。


「でも、呼ばれる場所に近い」


ましろは赤い缶を見た。


「名札は、呼ぶためのもの。返事は、呼ばれたあとに返すもの」


「順番が近い」


ソラが言った。


「でも、同じじゃない」


ヨルは名札箱を見ている。


「ここに置いたら、誰かが名前と一緒に持っていく」


「持っていけないようにする」


レムが言った。


「名札箱の中に、返事待ちの輪を作る。外から呼び声は届く。でも、返事は本人が選ぶまで外へ出ない」


「本人って誰」


ヨルの声は鋭い。


レムは静かに答える。


「まだ分からない。だから、誰にも渡さない」


赤い缶が、かすかに鳴る。


ちん。


ましろには、その音が少しだけ安心したように聞こえた。


準備は、食堂の名札箱の前で行われた。


ましろは星の護符を名札箱の下に置いた。


ねむは夢見のランタンを左に。


ソラは席札を右に。


レムは杖の宝石から、細い星の線を伸ばす。


ヨルは赤い缶を持って立っていた。


けれど、なかなか手を離さない。


「ヨル」


ましろが呼ぶ。


ヨルは赤い缶を見たまま言った。


「これを置いたら」


「うん」


「誰かが持っていくかもしれない」


「持っていかせない」


「燐灯堂が来るかもしれない」


「来たら止める」


「名前が浮かぶかもしれない」


「浮かんでも、勝手には読まない」


「返事が聞こえるかもしれない」


「聞こえても、勝手には開けない」


ヨルはましろを見る。


「全部、約束できると思ってるの」


ましろは少しだけ黙った。


できる、と簡単に言ってはいけない気がした。


「全部は分からない」


ヨルの目が細くなる。


ましろは続ける。


「でも、破りそうになったら、止めて」


ヨルは予想していなかった顔をした。


「私が?」


「うん」


「私が止めると思う?」


「止めてくれると思う」


「信用するな」


「信用してる」


ヨルは、何か言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。


それから、低く言う。


「本当に最悪」


けれど、赤い缶を名札箱の中に置いた。


缶は、かたん、と小さな音を立てて収まる。


ましろは息を吸う。


「返事は、ここにある」


星の護符が光る。


「でも、まだ誰にも渡さない」


ねむのランタンが青黒い輪を作る。


「勝手に夢へ出ない」


ソラの席札が淡く光る。


「勝手に席を奪わない」


レムの星の線が名札箱の縁をなぞる。


「呼び声は届く。けれど、応じるかどうかは返事自身のもの」


最後に、ヨルが言った。


「まだ、返事するな」


黒い鐘は鳴らなかった。


けれど、黒い鐘の影が名札箱の奥に落ちる。


赤い缶の周りに、小さな輪ができた。


白くも黒くもない。


少し赤みを帯びた、薄い輪。


返事待ちの輪。


ましろは、そう思った。


でも、口には出さなかった。


名前にしすぎると、ヨルが嫌がるかもしれない。


それに、今はまだ、名前ではなく役目でいい。


赤い缶は静かだった。


食堂の空気も落ち着いている。


子どもたちは、少し離れた場所から不思議そうに見ていた。


悠太だけが、スケッチブックを開いている。


「描いていい?」


ヨルがすぐに言う。


「中は描くな」


「うん」


「蓋も描くな」


「うん」


「字も描くな」


「うん」


「外だけ」


「うん!」


悠太は嬉しそうに頷き、名札箱を描いた。


その中に、小さな赤い丸。


周りに、薄い輪。


箱の上には、小さな札が並んでいる。


でも、札には何も書かれていない。


悠太は絵の下に、ひらがなで書いた。


へんじは、まだまってる。

でも、なくならない。


ましろはその文字を見て、胸が温かくなった。


ヨルは何も言わなかった。


けれど、黒い鐘は鳴らなかった。


昼過ぎ、赤い缶はもう鳴らなかった。


誰かが名前を呼んでも。


子どもたちが返事をしても。


食堂で誰かが「はい」と言っても。


赤い缶は、名札箱の中で静かにしている。


けれど、完全に眠っているわけではない。


ましろには、それが分かった。


呼び声は届いている。


でも、返事はまだ出ない。


それでいい。


今は。


ヨルは食堂の隅に座って、黒い鐘の紐を直していた。


ましろが隣に座ると、また横目で見る。


「何」


「何も」


「何もないのに座るな」


「座りたいから」


「昨日も聞いた」


「大事だから」


「便利に使うな」


ましろは少し笑った。


ヨルは赤い缶の入った名札箱を見た。


「返事って」


「うん」


「呼ばれたら、しなきゃいけないと思ってた」


ましろはヨルを見る。


ヨルは黒い鐘の紐を指でいじっている。


目は合わせない。


「名前を呼ばれたら、返事しろって。返事しないと、そこにいないみたいにされる」


その声は、遠かった。


「だから、呼ばれるのが嫌でも、返事しないといけない時がある」


ましろは黙って聞いた。


ヨルは続ける。


「でも、返事したら、そこにいたことになる」


「うん」


「そこにいたら、帰れなかったことになる」


ましろの胸が痛む。


ヨルは低く言った。


「だから、返事が嫌いだった」


その言葉に、名札箱の中の赤い缶が、小さく鳴った。


ちん。


ましろとヨルは同時にそちらを見る。


赤い缶は、それ以上鳴らない。


ただ、一度だけ。


まるで、聞いた、と返したみたいだった。


ヨルの顔が少しだけ歪む。


「返事するなって言っただろ」


「今のは、返事じゃないかも」


ましろが言う。


「じゃあ何」


「聞いてた音」


ヨルは何も言わなかった。


けれど、怒らなかった。


夕方になって、食堂が茜色に染まる頃。


名札箱の中で、赤い缶がもう一度だけ鳴った。


ちん。


ましろは振り向く。


ねむも、ソラも、悠太も。


ヨルも。


赤い缶の蓋に、薄い文字が浮かんでいた。


り。


その文字の横に、もうひとつ。


小さな線。


文字になるかならないかの、最初の傷。


ましろは目を細めた。


読んではいけない気がした。


ヨルが低く言う。


「読むな」


「うん」


「でも、なくすな」


「うん」


レムが宝石の中で静かに言った。


「その文字、返事の側から出てきたわ」


「返事の側?」


「誰かに呼ばれて浮かんだのではない。缶の中の返事が、自分の場所を確認し始めている」


ましろは名札箱を見る。


赤い缶。


返事待ちの輪。


名前ではない。


呼び声でもない。


返事そのものが、自分の輪郭を探している。


「返事にも、自分の場所がいるんだ」


ましろが言うと、ソラが頷いた。


「うん。名前と同じ」


ヨルは立ち上がった。


「今日は、もう何もするな」


「うん」


ましろは頷く。


「しない」


「絶対?」


「たぶん」


ヨルが睨む。


「絶対にしろ」


「絶対、しない」


「最初からそう言え」


ましろは小さく笑った。


その夜。


孤児院が眠りに入った頃。


食堂の名札箱の中で、赤い缶は静かに光っていた。


誰も呼んでいない。


誰も開けていない。


けれど、缶の中には確かに返事がある。


なくならずに。


勝手に使われずに。


まだ、待っている。


その蓋に浮かんだ「り」の横で、もうひとつの線が、ゆっくり形を変えた。


それは、まだ読める文字ではなかった。


けれど、ましろは眠りの中で、遠くから小さな音を聞いた気がした。


ちん。


そして、声ではない何かが、こう言った気がした。


返事を隠したのは、呼ばれた子ではない。


朝になれば、きっとその音は忘れてしまう。


けれど、名札箱の中の赤い缶は、夜明けまで一度も震えなかった。


返事は、まだそこにあった。


誰かに奪われることなく。


誰かに強いられることなく。


まだ、自分で返事をする時を待っていた。

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