第29話 返事を隠した人
赤い缶は、朝になっても開かなかった。
食堂の壁際。
小さな名札箱の中で、布に包まれたまま静かにしている。
昨日はあれほど鳴っていたのに、今朝はぴたりと黙っていた。
ましろは、その沈黙が少し怖かった。
声がしないから安心、というわけではない。
沈黙にも種類がある。
眠っている沈黙。
怒っている沈黙。
耳を澄ませている沈黙。
そして、今の赤い缶は、何かを待っている沈黙だった。
名札箱の周りには、薄い輪が残っている。
返事待ちの輪。
レムが仮にそう呼んだその場所を、ましろも心の中で同じように受け取っていた。
まだ、正式な名前にはしない。
名前にしすぎると、また燐灯堂に見つかる気がしたからだ。
それでも、そこには確かに役目があった。
呼び声は届く。
でも、返事は勝手に出ていかない。
誰かに奪われない。
誰かに強いられない。
返事が、自分で返事をする時を待つ場所。
「見てるだけで、疲れる」
ねむが、食堂の椅子に半分沈みながら言った。
朝食前なのに、すでに眠そうだった。
「缶が?」
ましろが聞くと、ねむは首を横に振る。
「世界の仕組みが」
「昨日も似たこと言ってた」
「世界、毎日面倒を増やしてくる」
ねむは夢見のランタンを膝に抱えている。
青黒い火は細く揺れ、時々、名札箱の方へ伸びかけては戻っていた。
「赤い缶、夢を見てる?」
ましろが聞くと、ねむは目を細めた。
「見てるというより、見ないようにしてる」
「見ないように?」
「誰かに呼ばれた場面が、缶の内側にある。でも、そこへ行く道を自分で塞いでる」
「自分で?」
「たぶん」
ねむは欠伸を噛み殺した。
「返事なのに、返事した時のことを見たくないっぽい」
ましろは赤い缶を見る。
蓋に浮かんでいた、消えかけた一文字。
り。
その横に現れた、文字になる前の傷。
まだ読めない。
読んではいけない。
けれど、そこには何かがある。
名前ではない。
呼び声でもない。
返事の側から出てきた、輪郭。
「返事を隠したのは、呼ばれた子ではない」
ましろは、昨夜眠りの中で聞いた気がする言葉を呟いた。
ねむの目が少しだけ冴えた。
「それ、本当に聞いた?」
「夢だったかもしれない」
「夢だったとしても、今は信用度そこそこ高い」
「ねむが言うと変な説得力がある」
「夢方面の不本意な専門家だから」
そこへ、ソラが食堂へ入ってきた。
胸元には席札。
ソラの席。
帳ソラ。
また明日。
文字は今朝も少し薄い。
けれど、消えてはいない。
ソラは名札箱の前に立ち、赤い缶を見つめた。
「返事を隠した人」
「ソラにも分かる?」
ましろが聞くと、ソラは少し考えた。
「缶の外側に、手の跡がある」
「手の跡?」
「うん。缶を閉じた人の跡。返事をした子とは違う」
ましろは息を呑む。
「誰かが、返事を閉じ込めたってこと?」
「閉じ込めたのか、守ったのかは分からない」
ソラは静かに言った。
「でも、缶の中の返事は、自分で隠れたんじゃない」
その言葉が、ましろの胸に重く落ちた。
自分で隠れたのではない。
誰かが隠した。
誰かが、その返事をしまった。
何のために。
守るために。
奪うために。
忘れるために。
それとも、聞きたくなかったから。
ましろは、胸元の青い宝石をそっと押さえた。
自分の本当の名前も、誰かに隠されている。
守るためだと聞いている。
けれど、隠された側に痛みがないとは限らない。
その考えが喉元まで上がってきて、ましろは飲み込んだ。
怖かった。
ヨルの痛みに自分の名前を重ねることも。
自分もまた、隠された側なのだと認めることも。
食堂の入口から、黒鐘ヨルが入ってきた。
黒い鐘の杖を肩に担ぎ、相変わらず眠っていない顔をしている。
けれど、目だけは昨日より鋭かった。
「聞こえてる」
ヨルが言った。
「何が?」
ましろが聞くと、ヨルは赤い缶を見る。
「缶の音」
「鳴ってないよ」
「鳴ってないのに、聞こえる」
ヨルは眉をひそめた。
「最悪」
ねむが小さく言った。
「耳じゃなくて、呼ばれた記憶の方に鳴ってるのかも」
「勝手に診断するな」
「じゃあ有料にする」
「払わない」
「夢払いで」
「絶対嫌」
ましろは、ヨルがいつものように返したことに少しだけ安心した。
けれど、その安心は長く続かなかった。
名札箱の中で、赤い缶が小さく鳴った。
ちん。
全員がそちらを見る。
缶の蓋に、薄い光が浮かぶ。
り。
その横の傷が、少しだけ伸びた。
文字にはまだならない。
でも、線は確かに増えている。
ヨルの顔がこわばる。
「読むな」
「読まない」
ましろはすぐに答えた。
ヨルは名札箱へ近づく。
「鳴るな」
赤い缶は、小さく一度だけ鳴った。
ちん。
「返事するな。まだ、誰が呼んだのか分からない」
赤い缶は、それきり黙った。
ヨルは息を吐いた。
怒りではなく、疲れに近い息だった。
「返事を隠したのは、呼ばれた子じゃない」
ましろはもう一度言った。
ヨルはましろを見ない。
「だから何」
「隠した人を探せば、分かるかもしれない」
「何が」
「その返事が、誰に向けたものだったのか」
ヨルの指が、黒い鐘の柄を強く握る。
「知りたくない」
小さな声だった。
そのあと、すぐに言い直す。
「知る必要がない」
ましろは黙った。
その違いを、今は指摘しなかった。
星守澄が、食堂の奥から静かに歩いてきた。
彼女は名札箱の赤い缶を見てから、ヨルへ視線を移す。
「返事を隠す風習は、名前除けの一つとして、星見坂にもありました」
ヨルの目が細くなる。
「また古い話?」
「ええ」
澄は頷いた。
「ただし、本来は非常時のためのものです」
「非常時?」
ましろが聞く。
「名前を狙うものが近くにいる時、呼ばれた子が返事をすると、そこに道ができます。名前と居場所が結ばれてしまう」
レムが杖の宝石の中で低く言った。
「王冠や燐灯堂にとっては、格好の目印になるわね」
澄は続ける。
「だから、昔は返事を一時的に隠すことがありました。呼ばれた子の返事を、缶や箱や鈴に移して、追手から隠す」
澄はそこで、一度だけ言葉を切った。
「移す時には、銀の匙を使ったと言われています」
ましろは、思わず名札箱の赤い缶を見た。
銀の匙。
返事を移すための道具。
その響きだけが、朝の食堂に小さく残った。
ヨルの目が鋭くなる。
「そんなものまであるの」
「記録では」
澄は静かに答えた。
「守るための道具として」
ましろは赤い缶を見る。
「じゃあ、この缶も、守るためのものだった?」
「可能性はあります」
「でも」
ヨルの声が冷たくなる。
「守るためなら、どうして私は知らない」
澄は何も言わなかった。
ヨルの言葉が食堂に落ちる。
「返事を隠された子は、どうなる」
誰もすぐには答えなかった。
ヨルは澄を見る。
「呼ばれても、自分の返事がない。返事がないから、呼ばれた気がしない。そこにいたのに、いなかったみたいになる」
黒い鐘が低く震えた。
「守ったって言えば、何でも許されるの」
澄の表情が痛みを帯びた。
「許されません」
その答えは、静かだった。
「守るための行為でも、傷になることはあります」
ヨルは黙る。
澄は続けた。
「だから、返事を隠す時は、必ず返す場所を残すことになっていました」
「返す場所」
「ええ。返事を戻す時、その子が自分で受け取るための場所です」
ソラがぽつりと言った。
「その場所が、なくなったんだ」
澄は頷いた。
「おそらく」
赤い缶が、小さく鳴った。
ちん。
まるで、そうだ、と言うみたいに。
ヨルは缶を睨んだ。
「勝手に肯定するな」
缶はもう鳴らなかった。
悠太が食堂へ入ってきた。
スケッチブックを抱えている。
「返事の場所?」
ましろが驚く。
「悠太くん、聞いてたの?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとってどこから?」
「世界が面倒ってところ」
ねむが顔をしかめる。
「そこから聞かれてたの、かなり嫌」
ヨルが悠太を見た。
責めるような目になりかけて、途中で止まる。
悠太は笑っていなかった。
スケッチブックを抱えたまま、真剣に赤い缶を見ている。
ヨルは小さく舌打ちした。
「聞いたなら、忘れろ」
悠太は首を横に振った。
「忘れない」
「……だと思った」
悠太は名札箱を見た。
「返事って、戻るところがいるの?」
澄が優しく頷く。
「ええ」
悠太は少し考えて、スケッチブックを開いた。
「じゃあ、返事のおうち?」
ヨルが即座に言う。
「おうちにするな」
「じゃあ、返事の引き出し?」
「それも嫌」
「返事の小部屋?」
「全部嫌」
悠太は困った顔をする。
「じゃあ、何ならいいの?」
ヨルは答えなかった。
ましろも、ねむも、ソラも待った。
こういう時、急がない方がいいと分かってきた。
ヨルは名札箱を見ている。
赤い缶。
そこに入っているかもしれない返事。
呼ばれた子ではなく、誰かに隠された返事。
やがて、ヨルは低く言った。
「戻す場所なんて、いらない」
その言葉に、赤い缶が鳴った。
ちん。
ヨルが顔を歪める。
「鳴るな」
ちん。
「いらないって言っただろ」
ましろには、その音が抗議のように聞こえた。
返事が、いらないと言われることを嫌がっている。
けれど、それはヨルを責めている音ではなかった。
まだここにいる、と言っている音だった。
悠太は、そっと言った。
「じゃあ、戻す場所じゃなくて」
ヨルが見る。
「なくさない場所」
食堂が静かになる。
悠太はスケッチブックの白いページを見ていた。
「戻るかどうかは、あとで決める。でも、なくさない場所」
ましろは胸が温かくなった。
なくさない場所。
それなら、ヨルの言葉に近い。
返せない。
戻せない。
開けない。
でも、なくさない。
「描いていい?」
悠太が聞く。
ヨルは少しだけ黙った。
「中は描くな」
「うん」
「字は描くな」
「うん」
「音も描くな」
悠太は目を丸くした。
「音って描けるの?」
「知らない。でも描くな」
「分かった。描かない」
悠太は鉛筆を動かした。
名札箱。
その中に、小さな赤い缶。
その周りに、薄い輪。
でも、輪の外側に、もうひとつ小さな棚を描いた。
棚には何も置かれていない。
空っぽの棚。
けれど、空っぽなのに寂しくない。
そこには、何かを待つための余白があった。
悠太はその下に、ひらがなで書く。
もどすかどうかは、あとでいい。
でも、なくさない。
ヨルは、その文字を見た。
長い間、何も言わなかった。
そして、小さく言う。
「子どもは、たまにずるい」
「ずるい?」
悠太が首を傾げる。
「そういう言い方するな」
「だめ?」
「だめじゃない」
「じゃあ、いい?」
「よくもない」
「むずかしい」
ねむがぼそりと言う。
「ヨル語は難解」
「夢見語よりはまし」
「私はだいたい寝不足のせい」
「最悪の免罪符」
ソラが少し笑った。
その笑いで、赤い缶が少しだけ揺れた。
けれど、鳴らなかった。
まるで、笑い声を聞いているようだった。
レムが言った。
「なくさない場所。仮の定義としては悪くないわ」
「仮ばっかり」
ましろが言う。
「確定させるには、まだ情報が足りないのよ」
「じゃあ、次は何が必要?」
ましろが聞くと、レムは赤い缶を見る。
「返事を隠した人の意図」
「意図?」
「守るためだったのか。奪うためだったのか。忘れるためだったのか。それによって、返事の戻し方が変わる」
ヨルが低く言う。
「探すの」
「必要なら」
レムは答える。
ヨルは名札箱の赤い缶を見ていた。
「探したくない」
正直な声だった。
「でも、探さないと」
そこで言葉を切る。
ましろは続きを待った。
ヨルは小さく言った。
「ずっと、この音を聞くことになる」
赤い缶は鳴らなかった。
でも、食堂の空気が少しだけ震えた。
ましろは頷く。
「探そう」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない」
「分かってる」
ましろは少し驚いた。
ヨルが、自分でそう言ったから。
分かってる。
その言葉が、前より自然に聞こえた。
澄は静かに言った。
「赤い屋根の家に、まだ手がかりがあるかもしれません」
「また行くの?」
ねむが顔をしかめる。
「赤い屋根の家、もう常連扱いされそう」
「何それ」
悠太が聞く。
「行くたびに精神が削れる家」
「やだ」
「私もやだ」
ヨルは食堂の窓を見る。
窓辺のあかりは、今日は静かだった。
けれど、その光は消えていない。
待つための灯り。
でも、待つことを一人に押しつけない灯り。
「明日」
ヨルは言った。
「明日、行く」
「今日は?」
ましろが聞く。
「今日は行かない」
「どうして?」
「返事の場所を作ったばかりだから」
ヨルは名札箱を見た。
「置いたものを、すぐ放っていくのは嫌だ」
ましろは少しだけ笑いそうになった。
でも笑わなかった。
きっとヨルは嫌がる。
だから、かわりに頷いた。
「うん。今日は見守ろう」
「待つな」
「見守る」
「同じ」
「少し違う」
ヨルは諦めたように息を吐いた。
「白い鐘の言葉遊び、嫌い」
昼過ぎ。
食堂には穏やかな時間が戻った。
子どもたちは中庭へ出ている。
悠太は、名札箱の近くで絵を描いていた。
ねむは椅子で寝ている。
ソラは窓辺のあかりのそばに座っていた。
ヨルは名札箱から少し離れた席にいる。
離れすぎず、近すぎず。
昨日、白木の箱と黒い鐘の距離を測っていた時のように、何度か席を変えて、ようやくそこに落ち着いた。
「見張ってるの?」
ましろが聞くと、ヨルは言った。
「見張ってない」
「じゃあ?」
「たまたま」
「たまたま、その席?」
「そう」
「名札箱が見える席だけど」
「偶然」
「そっか」
「納得するな」
ましろは笑った。
ヨルは不機嫌そうに目を逸らす。
しばらく沈黙が続いた。
けれど、気まずくはなかった。
食堂の窓から入る風が、名札箱の上の小さな札を揺らす。
木の匂い。
パンの匂い。
遠くで子どもたちが笑う声。
赤い缶は静かにしている。
ましろは、ふと聞いた。
「ヨルは、返事しなかったことある?」
ヨルの目が動いた。
聞いてはいけないことだったかもしれない。
ましろはすぐに言う。
「答えたくなかったら、答えなくていい」
ヨルはしばらく黙っていた。
「ある」
やがて、小さく言った。
「何度も」
ましろは黙って聞いた。
「呼ばれてるのに、返事しなかった。聞こえてるのに、聞こえないふりをした。返事したら、戻らなきゃいけない気がしたから」
ヨルの手が、黒い鐘の紐に触れる。
「でも、返事しなかったら、今度は呼ばれなくなった」
ましろは胸が苦しくなる。
「それが怖くて、返事したこともある」
ヨルは笑った。
笑いではなかった。
ただ、口元が少し歪んだだけだった。
「返事しても地獄。しなくても地獄。だから嫌いだった」
名札箱の中で、赤い缶が鳴った。
ちん。
ヨルはゆっくり缶を見る。
「お前も?」
赤い缶は、もう一度小さく鳴る。
ちん。
それは返事ではなかった。
たぶん。
でも、ましろには、同じ場所にいる音に聞こえた。
ヨルは目を伏せた。
「そう」
一言だけ。
それ以上は言わなかった。
夕方、赤い缶の蓋に浮かんだ線が、少しだけ形を変えた。
り。
その横の傷が、文字になりかけている。
ましろは読まなかった。
ヨルも読まなかった。
けれど、レムだけが宝石の中で目を細める。
「これは、明日までに何か起きるわね」
「不吉な予告やめて」
ねむが椅子の上で目を閉じたまま言う。
「予告ではなく観測よ」
「余計嫌」
ソラが名札箱を見た。
「缶が、行きたい場所を思い出しかけてる」
「赤い屋根の家?」
ましろが聞く。
ソラは首を横に振る。
「家じゃないかもしれない」
「じゃあ?」
「呼ばれた場所」
その言葉に、ヨルの肩がわずかに動いた。
呼ばれた場所。
返事が生まれた場所。
それは、赤い屋根の家の中なのか。
外なのか。
それとも、今はもうない場所なのか。
夜が近づいてくる。
食堂の明かりが灯る。
窓辺のあかりも、静かに光っている。
白木の箱は、未許しの輪の中で眠っている。
茶色の木箱は、窓辺で灯りを置いている。
赤い缶は、名札箱の中で返事を待っている。
三つの場所。
三つの未完了。
ただいま。
ごめんね。
あかりへ。
そして、返事。
ましろは思った。
赤い屋根の家には、まだ何かがある。
でも、もう家だけの話ではない。
名前を呼ぶこと。
返事をすること。
待つこと。
許さないこと。
帰ること。
その全部が、少しずつ絡み合っている。
そして、その中心にいるのは。
ヨルだ。
でも、ヨルだけではない。
待つことをやめた人。
返事を隠した人。
名前を伏せた人。
そこには、まだ顔の見えない誰かがいる。
その夜、ましろは夢を見た。
夢だったのかどうかは、分からない。
ただ、胸元の宝石がずっと熱を持っていた。
赤い屋根の家の玄関。
夕焼け。
小さな子どもの影。
誰かが、その子の名前を呼ぶ。
音は聞こえない。
けれど、呼ばれたのだと分かる。
子どもは振り向く。
口を開く。
返事をしようとする。
その瞬間、誰かの手が、そっとその返事を掬い取った。
乱暴ではなかった。
優しい手だった。
だから、余計に怖かった。
返事は赤い缶へ入れられる。
蓋が閉じる。
ちん。
音がする。
子どもは、自分が返事をしたことを忘れる。
呼んだ人は、泣いている。
ましろは、その人の顔を見ようとした。
けれど、白い光に隠れて見えない。
ただ、その人の手には、銀色の匙が握られていた。
小さな匙。
赤い缶の蓋を、最後にそっと押さえる匙。
夢の中で、匙が光った。
その柄に、何かが刻まれている。
ましろは目を凝らした。
ミ。
そこで、夢は途切れた。
ましろは目を覚ます。
食堂ではない。
自分の部屋だった。
窓の外は、まだ夜明け前。
胸元の宝石が、かすかに熱を持っている。
遠くから、小さな音が聞こえた。
ちん。
赤い缶が鳴った音。
そして、別の音。
かちん。
金属の匙が、缶の蓋に触れたような音。
ましろは起き上がった。
廊下の向こう。
食堂の方から、淡い銀色の光が漏れている。
ましろは杖を握り、扉を開けた。
廊下に出ると、ソラが立っていた。
眠そうではない。
いつの間にか起きていたらしい。
「ましろ」
「ソラも聞いた?」
「うん」
「何の音?」
ソラは食堂の方を見る。
「缶じゃない」
「じゃあ?」
「返事を隠した人の道具」
二人は食堂へ向かった。
食堂の名札箱の前。
赤い缶の隣に、小さな銀色の匙が置かれていた。
誰も置いていないはずの匙。
朝の光ではなく、星の光を反射するように、静かに光っている。
その柄には、一文字だけ刻まれていた。
ミ。
ましろは息を呑む。
赤い缶が、小さく鳴った。
ちん。
銀の匙も、かすかに応えるように鳴った。
かちん。
まるで、長い間閉じていた返事に、誰かがようやく鍵を差し込んだみたいだった。




