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第27話 待つことをやめた人へ

翌朝、窓辺のあかりは、夜明けより先に目を覚ました。


食堂はまだ薄暗い。


子どもたちの寝息が、奥の部屋から小さく聞こえている。


長いテーブルの端には、白木の箱がある。


黒い布をかけられ、星の護符とランタンと席札に囲まれている。


未許しの輪(みゆるしのわ)の中で、今朝は静かだった。


その少し離れた窓辺に、茶色の木箱が置かれている。


窓の絵が描かれた、小さな箱。


「あかりへ」と書かれた紙片は、まだ折りたたまれたまま、布の下に挟まれていた。


読まない。


なくさない。


その約束ごと、窓辺に置かれている。


ましろが食堂へ入ると、茶色の木箱の窓が、ぽう、と光っていた。


灯りというには弱い。


けれど、影を追い払うには十分だった。


「起きてる」


ましろは小さく呟いた。


「箱が?」


後ろから、ねむの声がした。


眠そうだった。


というより、まだ半分眠っていた。


髪も少し乱れている。


けれど、夢見のランタンだけはしっかり抱えていた。


「ねむ、寝た?」


「気絶した」


「それは寝たに入る?」


「魂の勤怠表ではたぶん欠勤扱い」


「何それ」


「私も知らない」


ねむは窓辺の木箱を覗き込んだ。


青黒いランタンの火が、木箱のあかりと重なる。


一瞬、食堂の窓ガラスに、赤い屋根の家が映った。


坂の下の小さな家。


子ども部屋の窓。


机。


引き出し。


その奥に、まだ取っていない紙がある。


昨日、窓辺のあかりが見せた二枚目の紙。


待つことをやめた人へ。


その文字を思い出すだけで、ましろの胸は少し重くなった。


「行くんだよね」


ねむが言う。


「うん」


「ヨルは?」


「まだ来てない」


「来てる」


ねむが食堂の入口を見る。


そこに、黒鐘ヨルが立っていた。


黒い鐘の杖を肩に担ぎ、いつもの黒い服で。


朝の中にいても、彼女の周りにはまだ少し夜が残っている。


けれど、その目は昨日までとは少し違った。


眠っていない目。


怒っている目。


それでも、どこかで答えを求めてしまっている目。


「勝手に行くな」


ヨルは言った。


「待ってたよ」


ましろが答えると、ヨルは顔をしかめた。


「待つな」


その言葉で、窓辺のあかりが少しだけ揺れた。


ましろは、茶色の木箱を見る。


「今日は、待つことをやめた人への手紙を探しに行く」


「分かってる」


ヨルの声は硬い。


「箱は置いていく」


「うん」


「紙も置いていく」


「うん」


「勝手に読むな」


「読まない」


「なくすな」


「なくさない」


ヨルはましろを見た。


「返事が早い」


「大事だから」


「本当に面倒」


けれど、もうその言葉は完全な拒絶には聞こえなかった。


食堂の窓辺で、茶色の木箱がもう一度光る。


外の朝ではなく、赤い屋根の家の方を向いて。


まるで、道を示しているみたいだった。


星守澄は、白木の箱のそばに立っていた。


「行くなら、朝の道が開いているうちに」


「朝の道?」


ましろが聞くと、澄は頷いた。


「赤い屋根の家は、昼になると自分の傷を隠します。夜になると、燐灯堂の道が混じる。今がいちばん、家そのものに近い時間です」


「家そのもの」


ソラが食堂へ入ってきた。


胸元には席札。


ソラの席。


帳ソラ。


また明日。


文字は少し薄いけれど、そこにある。


彼は窓辺の木箱を見て言った。


「今日は、家が呼んでる」


ヨルが低く言う。


「呼ぶな」


「名前じゃないよ」


ソラは静かに答えた。


「場所の呼び方」


ヨルは黙った。


その沈黙は、不満と納得の間にあった。


ましろは杖を握る。


「行こう」


ヨルがすぐに言う。


「簡単に言うな」


「でも、言わないと始まらない」


「それ、私の言葉みたいに使うな」


「ヨルも使ってた」


「うるさい」


ねむが欠伸をした。


「朝から仲良し」


「よくない」


ヨルが即答する。


ねむもすぐに言った。


「私もそう思う」


ソラが少しだけ笑った。


門を出る時、四人は順番に名乗った。


「久遠ましろ」


ちりん。


「棘咲ねむ」


ちりん。


「帳ソラ」


少し遅れて、ちりん。


ヨルは最後に、いつものように少しだけ黙った。


それから、低く言う。


「黒鐘ヨル」


ちりん。


その奥に、ごん、という黒い余韻が重なる。


ましろは、その二つの鐘の音が、前より離れていない気がした。


けれど言わなかった。


言えば、ヨルはたぶん嫌な顔をする。


だから、今は言わない。


赤い屋根の家は、昨日より静かだった。


玄関の敷物には、あの文字が残っている。


おかえり。


昨日より、さらに少し濃い。


最後の「り」も、かすかに読めるようになっていた。


けれど、完全ではない。


まだ、誰かを迎える声は途中で息を切らしている。


ヨルはやはり敷物を見ない。


でも、見ないようにしているだけだと、ましろには分かった。


「入る」


ヨルが言う。


「うん」


ましろは頷いた。


「入ってもいい?」


ましろは扉の前で、もう一度聞いた。


家に。


おかえりに。


まだ残っている誰かの気配に。


返事はなかった。


けれど、家の中で、ことん、とカップの音がした。


扉が開く。


中は、昨日と同じように綺麗だった。


小さな玄関。


棚の上の鍵。


壁の帽子。


大人の靴。


小さな靴。


食卓の三つのカップ。


そのどれもが、昨日より少しだけ輪郭を持っていた。


消えかけていた生活が、ほんの少しだけ自分を思い出したみたいだった。


ねむがランタンを掲げる。


青黒い光が、部屋の中を撫でる。


「昨日より、家が起きてる」


「いいこと?」


ましろが聞く。


「いいか悪いかは分からない」


ねむは目を細めた。


「でも、逃げてはいない」


ソラは食卓のカップを見ていた。


「待ってた時間が、少し戻ってる」


ヨルが低く言う。


「戻るな」


ソラは彼女を見る。


「戻ったらだめ?」


「戻ったら、また壊れる」


「戻らなくても、壊れてた」


ヨルの目が鋭くなる。


けれど、ソラは逃げなかった。


「だから、戻るのも戻らないのも、ひとりで決めなくていいと思う」


ヨルは何も言わなかった。


でも、黒い鐘は鳴らなかった。


四人は奥の子ども部屋へ向かった。


小さな机。


低い棚。


古いぬいぐるみ。


窓辺の空の鉢植え。


星の形に切った紙飾り。


昨日、茶色の木箱が置かれていた机は、今は空だった。


けれど、引き出しは少しだけ開いている。


その奥に、細い紙が見えた。


昨日、窓辺のあかりが見せた二枚目。


ましろは手を伸ばしかけて、止める。


「ヨル」


「何」


「取っていい?」


ヨルは紙片を見ていた。


長い沈黙。


それから、頷いた。


「取るだけ」


「読むのは?」


「私が決める」


「うん」


ましろは紙片をそっと引き出した。


古い紙だった。


触れただけで破れそうなほど薄い。


表には、丁寧な字でこう書かれている。


待つことをやめた人へ。


ヨルの指が、黒い鐘の柄を強く握る。


ましろは紙を両手で持ったまま、動かなかった。


「読む?」


そう聞く声が、自分でも思ったより小さかった。


ヨルは紙片を見たまま、長く黙っていた。


「読め」


「いいの?」


「読めない」


ヨルは、かすれた声で言った。


「また、文字があるのに、読めない」


ましろは頷いた。


勝手に読まない。


でも、読んでほしいと渡されたなら読む。


ましろは息を吸い、紙片を開いた。


そこには、短い文章が並んでいた。


待つことをやめたあなたへ。


待つことは、美しいことではありません。


待つことは、時に人を削ります。


ましろは読み始めてすぐ、胸が詰まった。


ヨルは表情を動かさない。


でも、肩に力が入っている。


ましろは続けた。


誰かの帰りを待つたびに、食卓のカップは冷めていきます。


靴は小さなまま古びていきます。


窓のあかりは、朝になるたびに少しずつ恥ずかしくなります。


それでも灯していたなら、あなたは悪くありません。


ましろは言葉を切った。


「悪くない……」


ヨルの唇が、わずかに歪む。


「続けろ」


ましろは続けた。


けれど、待つことをやめる時、どうか灯りを売らないでください。


待てなくなったあなたは、悪くありません。


でも、灯りを売れば、帰る人は道を失います。


家は、誰を迎えればいいか分からなくなります。


そして、帰れなかった子は、自分のせいだと思います。


ヨルが息を止めた。


部屋の中が、しんとする。


ねむのランタンの火が小さく揺れた。


ソラは、窓辺の空の鉢植えを見ている。


ましろは読み続けた。


待つことをやめるなら、灯りを消してください。


でも、売らないでください。


消した灯りは、また点けられます。


売った灯りは、誰かの棚に並びます。


棚に並んだ灯りは、もう誰の窓だったか分からなくなります。


ましろは紙を持つ手に力を込めた。


燐灯堂。


名前を売る店。


呼び名だけではなく、待つ時間や窓灯りまで商品にする店。


ヨルが低く言った。


「誰が書いた」


紙片は答えない。


けれど、文字はまだ続いている。


あなたが待つことをやめた日、窓灯りは名前を伏せました。


灯りは、あの子の名前を守るために、窓の中へ逃げました。


だから、あの子の名前は売られていません。


まだ、家にあります。


ヨルの顔から血の気が引いた。


「あの子」


声が震えている。


「あの子って、誰」


ましろは紙を見た。


その先は、白い。


けれど、白の下に何かが沈んでいる。


読んではいけないもの。


今はまだ浮かび上がってはいけないもの。


ましろは紙を閉じかけた。


しかし、その前に、紙の端に小さな文字が浮かんだ。


あかりへ。


その文字だけ。


ましろは息を止める。


ヨルは目を逸らさなかった。


けれど、口は固く閉じている。


「それ以上、読まない」


ヨルが言った。


「うん」


「でも、なくすな」


「うん」


「その紙、持って帰る」


「うん」


ヨルは、ましろの手から紙片を受け取ろうとして、止めた。


指先が震えている。


結局、紙には触れなかった。


「ましろが持て」


ましろは驚いて顔を上げる。


「私が?」


「なくすなって言った」


「うん」


「読まないって言った」


「うん」


「じゃあ、持て」


ヨルは目を逸らした。


「今の私が持つと、破る」


ましろは紙片を胸元の星の護符の近くにしまった。


「預かる」


「預かるな」


「持つだけ?」


「そう」


「うん。持つだけ」


ねむがぼそりと言った。


「言葉の綱渡りが上達してる」


「落ちたら拾って」


「気が向いたら」


「そこは拾って」


ソラが少しだけ笑った。


その時、子ども部屋の窓が光った。


赤い屋根の家の窓。


そこに、孤児院の食堂が映った。


窓辺の茶色の木箱。


その周りに、星の護符、ランタン、席札、黒い鐘。


そして、窓の席を描いた悠太の絵。


二つの窓が、またつながった。


その光の中で、壁の身長線が見えた。


あ。


か。


昨日見えた二文字。


その横に、もう一本、線が浮かびかける。


ましろはすぐに目を逸らした。


ヨルも歯を食いしばる。


「出るな」


壁に向かって言う。


「今は、出るな」


線は止まった。


けれど、消えなかった。


ねむがランタンを向ける。


「伏せ名が反応してる」


「紙を読んだから?」


ましろが聞く。


「たぶん。待つことをやめた人への手紙が、隠された名前の周りを起こした」


ソラが言う。


「でも、名前はまだ売られてない」


「守られているって書いてあった」


ましろは胸元の紙片を押さえる。


「窓灯りが、あの子の名前を守るために窓の中へ逃げた」


ヨルは黙っていた。


その顔は、苦しそうだった。


けれど、前ほどただ拒絶しているだけではない。


知りたくない。


でも、知らないままではいられない。


そんな顔だった。


「ヨル」


ましろが呼ぶ。


ヨルは返事をしなかった。


でも、聞いていた。


「名前を呼ぶために探してるんじゃないよ」


ヨルの目が少しだけ動く。


「売らせないために、探してる」


長い沈黙。


ヨルは小さく息を吐いた。


「……分かってる」


その一言だけで、ましろは胸が熱くなった。


分かってる。


ヨルが、そう言った。


信じているとは言わない。


任せるとも言わない。


でも、分かっている。


それだけで十分だった。


部屋の隅で、古いぬいぐるみが倒れた。


ぽすん、と小さな音。


ましろたちは振り向く。


ぬいぐるみの後ろに、小さな箱があった。


昨日は気づかなかった。


星の紙飾りに隠れていたらしい。


手のひらに乗るくらいの、小さな缶。


錆びた赤色。


蓋には、子どもの字で何かが書かれていた。


でも、ほとんど消えている。


読めるのは、たった一文字。


り。


ましろは息を止めた。


あ。


か。


り。


三つの文字が、別々の場所にある。


壁の身長線に、あ。


その横に、か。


缶の蓋に、り。


あかり。


けれど、それを声に出してはいけない気がした。


ましろは口を閉じる。


ヨルも、それを見ていた。


顔色は悪い。


でも、逃げなかった。


ねむがランタンを少し下げる。


「この缶、開ける?」


ヨルはすぐには答えなかった。


缶を見つめる。


「中は?」


ソラが目を細める。


「たぶん、音」


「音?」


「小さい音が入ってる」


ましろは缶を見た。


手のひらほどの、錆びた赤い缶。


蓋には、り。


中に音がある。


開けるべきなのか。


開けてはいけないのか。


ヨルは、長く沈黙した。


「持って帰る」


ましろは頷く。


「うん」


「開けない」


「うん」


「読まない」


「うん」


「でも」


ヨルは小さく言った。


「なくすな」


ましろは、また頷いた。


「なくさない」


ヨルは缶には触れなかった。


代わりに、ましろが布を取り出し、缶を包む。


小さな缶は軽かった。


でも、振ってはいけない気がした。


中の音を起こしてしまいそうで。


外へ出ようとした時、玄関の方から声が聞こえた。


おかえり。


ましろたちは足を止める。


声は昨日より、少しだけはっきりしていた。


ヨルは振り向かない。


けれど、口を開いた。


「まだ」


ましろは、ヨルを見る。


「まだ、何?」


ヨルは玄関を見ないまま言った。


「まだ、帰ってない」


家は答えなかった。


でも、敷物の文字が少しだけ濃くなる。


おかえり。


その最後の「り」が、今度ははっきり読めた。


ヨルの黒い鐘は鳴らなかった。


家を出ると、朝はもう完全に来ていた。


赤い屋根が、日差しを受けて明るく見える。


昨日までの家とは、少しだけ違う。


まだ誰の家かは分からない。


でも、誰かを待っていた家ではある。


誰かが待つことをやめても。


家は、最後まで「おかえり」を持っていた。


ましろは敷物を見る。


「また来るね」


ヨルが横から言う。


「勝手に約束するな」


「じゃあ、来ない?」


ヨルは黙った。


それから、小さく言った。


「来る」


ましろは笑った。


「うん」


「笑うな」


「笑ってない」


「笑ってる」


「少し」


ヨルは舌打ちした。


けれど、怒ってはいなかった。


帰り道。


ましろは紙片と赤い缶を大事に抱えて歩いた。


ねむは半分寝ながらランタンを抱えている。


ソラは、自分の席札を確かめながら歩いている。


ヨルは少し前を歩いていた。


黒い鐘の杖を肩に担ぎ、背中で朝を受けている。


その背中は、まだ遠い。


けれど、前よりは少しだけ、同じ道の上にあるように見えた。


坂の途中で、ソラがふと立ち止まった。


「ましろ」


「何?」


「さっきの缶」


ましろは布に包んだ小さな缶を見る。


「これ?」


「うん。音が入ってるって言ったけど、少し違った」


「どう違うの?」


ソラは目を細める。


「音じゃなくて、呼ばれた時の返事」


ましろの胸が小さく跳ねた。


「返事?」


「うん。誰かが名前を呼んで、その返事だけが残ってる」


ヨルの足が止まった。


「何て」


ソラは首を横に振る。


「まだ分からない。缶が閉じてるから」


ヨルは振り返らない。


けれど、肩が震えている。


ましろは缶を強く握りすぎないように気をつけた。


返事。


名前そのものではなく、返事。


呼ばれたことがある証。


そこにいたことの証。


「じゃあ、これは」


ましろは呟く。


「呼んだ人のものじゃなくて、呼ばれた人のもの?」


ソラは頷く。


「たぶん」


ヨルはしばらく動かなかった。


やがて、低く言った。


「開けない」


「うん」


ましろは答える。


「今は、開けない」


ヨルは少しだけ振り向いた。


「今は?」


「ずっと開けないとは言わない」


「勝手に決めるな」


「決めないよ」


ましろは缶を胸元に抱く。


「開ける時は、ヨルが決める」


ヨルは何も言わなかった。


けれど、また歩き出した。


孤児院の門が見えてくる。


その上で、鐘が小さく揺れた。


ちりん。


まだ誰も名乗っていないのに、鳴った。


まるで、帰ってくるものを先に見つけたみたいに。


ましろは門を見上げる。


胸元には、待つことをやめた人への紙片。


腕の中には、返事の入った赤い缶。


孤児院の窓辺には、窓辺のあかり。


食堂には、開けない箱と未許しの輪。


少しずつ、場所が増えている。


呼べない名前のための場所。


まだ許せない謝罪のための場所。


待つことを一人に押しつけないための場所。


そして今度は。


返事を、勝手に開けないための場所が必要になる。


ましろは、まだその形を知らない。


でも、ひとつだけ分かっていた。


名前は、呼ぶ側だけのものではない。


返事をした誰かも、そこにいる。


門の鐘がもう一度鳴った。


ちりん。


ヨルはその音を聞いて、ほんの少しだけ立ち止まる。


それから、小さく言った。


「ただいまは、まだ言わない」


ましろは頷いた。


「うん」


ヨルは続ける。


「でも」


その先を言うまで、少し時間がかかった。


「返事は、なくすな」


ましろは、赤い缶を両手で抱え直した。


「うん」


「なくさない」

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