第25話 赤い屋根の家
赤い屋根の家は、朝の中に沈んでいた。
夜ではない。
月もない。
燐灯堂の青白い火も、満月市のざわめきもない。
ただ、坂の下にある小さな家が、朝の光を受けて静かに立っている。
白い壁。
丸い窓。
花壇。
玄関の敷物。
そこには、半分だけ残った文字がある。
おかえり。
ましろは、その前で足を止めた。
初めてここに来た時より、文字は少し濃くなっている。
けれど、完全ではない。
「おかえ」のあたりは読める。
最後の「り」は、まだ朝の光に溶けかけていた。
まるで、誰かを迎える声が、最後まで言い切れずに止まっているみたいだった。
ヨルは敷物を見ていなかった。
見ないようにしているのだと、ましろには分かった。
彼女は黒い鐘の杖を肩に担ぎ、家の前に立っている。
黒い服。
錆びた銀の飾り。
赤い紐。
朝の中にいても、ヨルの周りには夜の影が少し残っている。
けれど、その夜は昨日までより薄かった。
白木の箱を孤児院に置いてきたからかもしれない。
それとも。
戻る理由を、孤児院に置いてきたからかもしれない。
「入るよ」
ヨルが言った。
「うん」
ましろは頷いた。
ねむは夢見のランタンを抱え直す。
「先に言っとくけど、今の私はかなり眠い」
「いつもでは」
ヨルが言う。
「今日は質が違う」
「知らない」
「悪夢がこっちを見てる時の眠さ」
「余計に知らない」
ソラは玄関の横に立ち、家の表札を見ていた。
表札は、まだ白い。
何も書かれていない。
でも、完全な空白ではなかった。
木目の奥に、薄い線がいくつも走っている。
名前になれなかった跡。
書かれかけて、削られた跡。
「ここ、まだ誰かの家だ」
ソラが言った。
「誰の家かは分からない。でも、家が覚えてる」
ましろは扉を見る。
鍵はかかっていない。
けれど、今日は勝手に開けるのが少し怖かった。
「入ってもいい?」
誰に聞いたのか、自分でも分からない。
家に。
玄関に。
残っている「おかえり」に。
それとも、ここにいた誰かに。
返事はない。
けれど、食卓の方から、ことん、と小さな音がした。
カップを置く音。
ましろは息を吸い、扉を開けた。
中は、前と同じように綺麗だった。
小さな玄関。
棚の上に置かれた鍵。
壁にかかった帽子。
小さな靴。
大人の靴。
食卓には、三つのカップが並んでいる。
一つは大きい。
一つは中くらい。
一つは小さい。
ましろは小さなカップを見た。
そこから、ほんの少しだけ湯気が立っている。
昨日、孤児院で白木の箱の中から漏れた「ごめんね」の声。
満月市で見えた、若いヨルが玄関の前に立ち尽くす光景。
ここにあったものは、まだ終わっていない。
「触るなよ」
ヨルが言う。
「触らない」
ましろはすぐに答えた。
「見すぎるな」
「……それは、ちょっと難しい」
「努力しろ」
ねむがランタンを掲げる。
青黒い火が、家の中を照らした。
いつもの光なら、影を浮かび上がらせる。
けれど、今日は違った。
影ではなく、生活の跡が浮かんだ。
テーブルの上に置かれていたはずの皿。
椅子の背にかけられていた布。
壁際で転がっていた小さな木の馬。
それらは現実にはない。
でも、ランタンの光の中では、薄い輪郭としてそこにある。
「夢じゃない」
ねむが言った。
「記憶?」
ましろが聞く。
「記憶というより、家が繰り返してる」
「繰り返す?」
「何度も同じ朝を出してる。誰かが帰ってくる前の朝。誰かが帰ってこなかった後の朝。その二つが混ざってる」
ヨルの指が、黒い鐘の柄にかかる。
「やめろ」
誰に言ったのか分からない。
家に。
記憶に。
それとも、自分自身に。
ソラが壁の方へ歩いた。
そこには、子どもの身長を測った跡がある。
床から少しずつ伸びる線。
前に見た時と同じ。
けれど、今日はその横に少しだけ文字が浮かんでいた。
あ。
ましろの心臓が小さく跳ねる。
ヨルもそれを見た。
顔から色が消える。
「あ」
たった一文字。
ヨルの名札に浮かんだ文字と同じ。
けれど、壁の線はそこで途切れていた。
その先は削られている。
ましろは息を殺した。
呼ばない。
読まない。
勝手に続けない。
「見たな」
ヨルが言った。
声は低い。
怒っているようで、震えていた。
「見た」
ましろは正直に答えた。
「でも、呼ばない」
「忘れろ」
「忘れない」
ヨルの目が鋭くなる。
ましろは続けた。
「でも、勝手に呼ばない」
沈黙。
ヨルは、少しだけ目を伏せた。
「……最悪」
「ごめ――」
言いかけて、ましろは止めた。
この家で、謝罪は危険だ。
ヨルが低く言った。
「今、何を言おうとした」
ましろは迷った。
嘘はつけない。
「歌の言葉」
「何の」
「星帰りの歌。あかりは窓に、待っている」
ヨルの顔色が、さらに白くなった。
「やめろ」
「うん」
「それ以上、言うな」
「言わない」
ヨルは黒い鐘を握る。
しかし、鳴らさない。
鳴らせないのかもしれない。
ソラが、小さな声で言った。
「この家、待ってたんじゃない」
「え?」
ましろが振り向く。
ソラは食卓のカップを見ている。
「待つことをやめた人がいた。でも、家だけが待ってた。だから“おかえり”だけ残った」
ねむが続ける。
「人は待つのをやめた。家はやめられなかった」
ましろは玄関の敷物を見る。
おかえり。
半分消えた文字。
あれは、人の言葉ではなかったのかもしれない。
家そのものが、最後まで残した迎えの声。
「だから、家が星骸になった」
レムが言った。
「待つ人を失い、帰る言葉を失い、それでも“おかえり”だけを抱え続けたから」
ヨルは椅子に座り込んだ。
黒い鐘の杖を膝の上に置く。
「じゃあ」
声が、あまりにも小さかった。
「私が帰れなかったからじゃないの」
ましろは胸が痛くなった。
「ヨル」
「私が、ただいまって言えなかったからじゃないの」
誰も答えられなかった。
便箋の文字が、また浮かぶ。
その問いに答えるように。
帰れなかった人だけが、家を壊すのではありません。
待てなくなった人も、家を壊します。
ましろは、その文字を声に出せなかった。
ヨルは見ていた。
読めていた。
今度は、読めていた。
ヨルは笑った。
笑ったのに、音がなかった。
「最悪」
声だけが、かろうじて出た。
「ずっと、私のせいだと思ってた」
黒い鐘が、小さく震える。
「帰れなかったから。言えなかったから。間に合わなかったから」
ましろは、何も言えない。
言ってはいけない気がした。
違うよ、と簡単に言うことはできない。
ヨルが背負ってきた十字架は、ましろが数行の便箋で取り上げていいものではない。
ねむが、珍しく静かな声で言った。
「全部がヨルのせいじゃないことと、ヨルが痛かったことは、別に両立する」
ヨルはねむを見る。
「慰め?」
「事実」
「優しくない」
「優しいこと言うと嘘っぽくなるから」
ソラが言った。
「ヨルが帰れなかったことは、消えない」
ヨルの目が揺れる。
「でも、家が壊れた理由がそれだけじゃないなら」
ソラは少し言葉を探す。
「背負う荷物の形は、変えられるかもしれない」
ヨルは何も言わなかった。
けれど、黒い鐘の震えが少しだけ弱くなった。
その時、壁の身長線が光った。
あ。
その一文字の横に、新しい線が浮かぶ。
か。
ましろは息を止めた。
ヨルの名札に浮かびかけた文字と、同じ方向へ進んでいる。
あ。
か。
ヨルが立ち上がる。
「やめろ」
壁の文字は止まらない。
三つ目の線が浮かびかける。
ましろは目を逸らした。
呼ばない。
読まない。
勝手に完成させない。
けれど、見なければいけないこともある。
ねむがランタンを壁へ向けた。
「これは名前じゃない」
「何?」
「身長線の横に残ってる印。子どもの名前じゃなくて、呼ぶ人の癖」
「癖?」
「この字を書いた人は、最後まで名前を書いてない。最初の二文字だけ書いて、消してる」
レムが低く言う。
「伏せ名の一種ね」
「伏せ名?」
ましろは、呼ばない約束の印のことを思い出した。
名前を書かない。
でも、忘れない。
「この家にも、伏せ名があった?」
ソラが壁を見る。
「でも、壊れてる」
壁の文字が震える。
あ。
か。
その先は浮かばない。
代わりに、赤い糸のような線が、文字の上を縫い止めていた。
燐灯堂の糸ではない。
もっと古い。
もっと不器用な糸。
「誰かが隠した」
ましろが言った。
「ヨルの名前を?」
ヨルが即座に言う。
「違う」
けれど、その声に力はなかった。
便箋の下の方に、新しい文字が浮かぶ。
この家に残された伏せ名は、売られていません。
守られています。
ましろはその文字を見た。
「守られてる……?」
レムが目を細める。
「燐灯堂に売られたものと、売られなかったものがあるのね」
ねむが言う。
「じゃあ、この家にはまだ店に渡ってない名前がある」
ソラが壁に手を伸ばしかけて、止めた。
「触らない方がいい」
ヨルが言う。
「誰が守った」
その問いは、壁に向けられていた。
便箋に向けられていた。
家に向けられていた。
家は答えない。
けれど、奥の部屋の扉が、きい、と開いた。
風はない。
ましろたちは顔を見合わせる。
奥の部屋。
前に来た時、カーテンが揺れていた部屋。
そこから、ほのかに粉っぽい匂いがした。
古い布。
閉じた箱。
長く開かれていない引き出し。
ヨルが先に歩き出した。
ましろたちも続く。
奥の部屋は、子ども部屋だった。
小さな机。
低い棚。
古いぬいぐるみ。
窓辺には、空の鉢植え。
壁には、星の形に切った紙が貼られている。
そのいくつかは剥がれ、床に落ちていた。
机の上に、小さな箱があった。
白木ではない。
淡い茶色の木箱。
蓋には、黒い鐘でも白い星でもなく。
小さな窓の絵が描かれていた。
窓の中には、灯り。
ましろは息を止める。
あかりは窓に、待っている。
その歌詞が、頭の中で鳴る。
ヨルは箱の前に立ち、動けなくなった。
「これは」
声が震える。
「知らない」
でも、その言い方は、知っている人のものだった。
忘れていたものを見つけた人の声だった。
ましろは聞いた。
「開ける?」
ヨルは答えない。
長い沈黙。
やがて、ヨルは首を横に振った。
「まだ」
「うん」
「でも、持っていく」
「うん」
「中は見ない」
「うん」
「勝手に開けるな」
「うん」
ヨルは茶色の木箱を抱えた。
白木の箱とは違う。
これは軽そうだった。
でも、ヨルはとても慎重に持った。
まるで、中に眠っているものを起こさないように。
その時、机の引き出しが少しだけ開いた。
中から、細い紙片が見える。
ねむがランタンを向ける。
紙片には、子どもの字で書かれていた。
あかりへ。
ましろは呼吸を止めた。
ヨルが振り向く。
紙片の文字が、朝の光に浮かぶ。
あかり。
それは、名前なのか。
歌の言葉なのか。
灯りそのものなのか。
ましろは分からなかった。
けれど、ヨルの顔を見れば分かることがあった。
その言葉は、彼女の中にある扉を叩いている。
開けてはいけない扉。
でも、いつか開けなければならない扉。
ヨルは、ゆっくり言った。
「それ以上、読むな」
ましろは頷いた。
「読まない」
「忘れろ」
ましろは首を横に振る。
「忘れない」
ヨルの目が揺れる。
ましろは続ける。
「でも、勝手に読まない」
朝の光が、子ども部屋に差し込む。
紙片の文字は、それ以上濃くならなかった。
あかりへ。
その一言だけが、そこに残った。
家のどこかで、カップがことんと鳴った。
そして、玄関の敷物の「おかえり」が、ほんの少しだけ濃くなった。
完全ではない。
でも、確かに。
「おかえり」が、少しだけ戻った。
ヨルは茶色の木箱を抱えたまま、部屋を出た。
ましろたちも続く。
玄関に立つと、外の朝はもう明るくなっていた。
ヨルは敷物を見ない。
でも、ましろには分かった。
見ないようにしているだけだ。
外へ出る直前、ヨルは小さく言った。
「まだ、ただいまは言わない」
ましろは頷いた。
「うん」
「ごめんねも、受け取らない」
「うん」
「でも」
ヨルは少しだけ言葉を探した。
「おかえりまで、消す気はない」
ましろの胸が温かくなる。
「うん」
その時、家の中から小さな声がした。
誰の声でもない。
家の声だった。
おかえり。
ヨルは振り向かなかった。
けれど、黒い鐘は鳴らなかった。
それだけで十分だった。
今は。
赤い屋根の家を出ると、坂の上に孤児院が見えた。
星見坂孤児院。
白い壁。
時計台。
門の鐘。
そこへ戻る道が、朝の中に続いている。
ヨルは茶色の木箱を抱えて歩く。
ましろは隣を歩いた。
ねむはランタンを抱え、眠そうな目で空を見上げている。
ソラは少し後ろで、自分の席札を確かめている。
誰も急がなかった。
急いではいけない気がした。
赤い屋根の家で見つけたものは、答えではなかった。
新しい問いだった。
ただいまを売った人。
ごめんねを預けた人。
待つことをやめた人。
伏せられた名前。
そして。
あかりへ。
その紙片が意味するもの。
ましろは胸元の護符に手を当てた。
名前は、呼べばいいだけではない。
返せばいいだけでもない。
謝ればいいだけでもない。
待つこと。
許さないこと。
開けないこと。
呼ばないこと。
それら全部が、誰かを守る形になることがある。
坂の途中で、ヨルが立ち止まった。
「ましろ」
初めてだった。
ヨルが、ましろの名前を普通に呼んだ。
ましろは少し驚いて顔を上げる。
「何?」
ヨルは目を逸らしたまま言った。
「さっきの紙」
「あかりへ、って書いてあった紙?」
「読むな」
「うん」
「でも、なくすな」
ましろは頷いた。
「うん。なくさない」
ヨルは茶色の木箱を抱え直す。
「それだけ」
「うん」
「返事が早い」
「大事だから」
ヨルは小さく息を吐いた。
「本当に面倒」
けれど、その声には、前ほど棘がなかった。
坂の上で、門の鐘が風に揺れる。
ちりん。
帰ってくるものを迎える音。
ヨルはその音を聞いて、少しだけ眉をひそめた。
けれど、足を止めなかった。
ましろたちは孤児院へ戻っていく。
開けない箱を置いた場所へ。
未許しの輪がある食堂へ。
そして、新しく見つけた茶色の木箱と、読まない手紙を持って。
背後で、赤い屋根の家の窓が朝の光を受けた。
そこに、小さな灯りのような反射が浮かんだ。
まるで、誰かがまだ窓辺で待っているみたいに。




