第24話 開けない箱
夜が明けきる前に、ましろたちは孤児院へ戻った。
空はまだ青黒い。
星は薄くなり、東の端だけが白くほどけ始めている。
星見坂の街は、何事もなかったような顔をしていた。
白くなっていた看板には、少しずつ文字が戻っている。
パン屋。
花屋。
薬草店。
時計修理。
けれど、店主の名前は戻っていなかった。
役割だけが、朝に間に合ったみたいに並んでいる。
ましろはその看板を見上げながら、胸元の星の護符を握った。
護符は温かい。
けれど、その温かさは安心とは少し違った。
火傷しない程度に熱を持った傷。
忘れないために残された、やわらかい痛み。
隣では、ヨルが白木の箱を抱えて歩いていた。
黒い布で包まれている。
満月市から持ち帰った箱。
中には、まだ言えない「ただいま」が眠っている。
ヨルは一言も喋らなかった。
黒い鐘の杖は肩に担いでいない。
杖は背中に斜めに下げられ、黒い鐘は布に包まれた箱の横で、まるで黙って見張っているみたいだった。
ましろは何度か声をかけようとして、やめた。
呼ばない約束。
勝手に踏み込まない約束。
今は、それを守る方が大事だった。
ねむは夢見のランタンを抱えて歩いている。
目の下のくまが、いつもより濃い。
「ねむ、大丈夫?」
ましろが聞くと、ねむは即答した。
「大丈夫じゃない」
「あ、正直」
「大丈夫って言ったら、寝ろって言われる気がした」
「言うよ」
「だから先に潰した」
「作戦だったんだ」
ソラは少し後ろを歩いていた。
彼の輪郭は、満月市を出てからずっと薄い。
けれど、胸元の席札は淡く光っている。
ソラの席。
帳ソラ。
また明日。
その文字が、彼を朝の方へ引っ張っているようだった。
「ソラ」
ましろが呼ぶと、ソラは顔を上げる。
「いるよ」
返事が返ってくる。
少し遅れて。
でも、ちゃんと返ってくる。
ましろは小さく頷いた。
「うん。いる」
ヨルが横目でこちらを見た。
「確認ばっかり」
「大事だから」
「面倒」
「でも、ヨルも返事してくれた」
「してない」
「したよ。さっき、何って言った」
「それは返事じゃない」
「名前を呼ばれて答えたら返事だよ」
ヨルは黙った。
それから、小さく舌打ちした。
「白い鐘の定義、雑」
「ましろの定義はだいたい広い」
ねむが言う。
「広すぎてたまに落ちる」
「落ちたら拾って」
「気が向いたら」
「そこは拾って」
ソラが小さく笑った。
その笑い声で、夜が少しだけ軽くなった。
孤児院の門が見えた。
門の上の小さな鐘は、まだ眠っている。
けれど、ましろたちが近づくと、風もないのに揺れた。
ちりん。
ましろが門の前に立つ。
「久遠ましろ」
門の鐘が鳴った。
ちりん。
ねむが続く。
「棘咲ねむ」
ちりん。
ソラは少しだけ間を置いた。
それから、自分の席札を胸に押し当てる。
「帳ソラ」
鐘は、やはり少し遅れて鳴った。
ちりん。
ソラはほっとしたように息を吐く。
次はヨルだった。
ヨルは門の外に立ったまま、しばらく黙っていた。
朝の光が彼女の黒い髪に薄く触れる。
首元の割れた名札には、何も書かれていない。
けれど、ましろには分かる。
そこには、まだ呼べない文字が眠っている。
ヨルは低く言った。
「黒鐘ヨル」
門の鐘が鳴った。
ちりん。
その奥に、ごん、という黒い余韻が重なる。
前より少しだけ、音が近い。
ヨルは眉をひそめた。
「本当に変な門」
「歓迎してるんだと思う」
「歓迎が下手すぎる」
「ヨルに合わせてるのかも」
「いらない」
それでも、ヨルは門を越えた。
その瞬間だった。
彼女が抱えていた白木の箱が、黒い布の中で震えた。
かたん。
小さな音。
けれど、門の鐘がぴたりと止まった。
ましろは息を呑む。
ヨルが箱を抱える腕に力を込める。
「何」
箱の中から、かすかな声が漏れた。
ただいま。
それは小さかった。
けれど、門は反応した。
ちりん、と鳴りかけて、途中で止まる。
まるで、迎えていいのか分からないものを前にして、鐘自身が迷っているみたいだった。
レムが杖の宝石の中で低く言った。
「門が判断できないのね」
「どうして?」
ましろが聞く。
「その箱は名前ではない。人でもない。星骸でもない。商品でもなくなった。でも、ただの物でもない」
ねむが眠そうに顔をしかめる。
「カテゴリ迷子」
「そういう言い方もできるわ」
「じゃあ、どうするの」
ソラが箱を見つめて言った。
「入れないと、店に引っ張られる」
ましろは箱を見る。
黒い布の下で、白木の角が少しだけ見えている。
満月市の終わりに、白木の箱は共有保留になった。
保管先。
黒鐘ヨル。
星の護符。
共有保留。
けれど、孤児院の門にとっては、まだ分からないのだ。
何として迎えればいいのか。
何として中へ入れればいいのか。
ヨルが低く言った。
「じゃあ、外でいい」
「だめ」
ましろはすぐに言った。
ヨルが睨む。
「何で」
「外だと、ひとりになる」
「箱が?」
「ヨルも」
ヨルの目が一瞬だけ揺れた。
「私は別に」
「別にじゃない」
ましろは門を見上げる。
「名前じゃないなら、名前として入れない」
レムが少しだけ目を細めた。
「続けて」
「商品じゃないなら、商品としても入れない。星骸じゃないなら、星骸としても入れない」
ましろは星の護符に触れる。
「これは、開けない箱」
ヨルが眉をひそめる。
「名前をつけるな」
「名前じゃない」
ましろは首を振る。
「約束」
門の鐘が、ほんの少し揺れた。
「まだ開けない。勝手に呼ばない。売らない。消さない」
ましろは箱を見る。
「そういう約束として、中へ入れる」
ヨルは黙った。
ねむがランタンを掲げる。
「境界としては通ると思う」
「分かるの?」
「夢が少しだけ落ち着いた」
ソラも頷いた。
「場所ができた。箱の名前じゃなくて、箱の置き方」
レムが静かに言う。
「開けない箱。分類ではなく、扱い方を定義したのね」
「だめ?」
「危ういけれど、悪くない」
「点数は?」
「今は採点しない」
「えっ」
「失敗したら箱ごと持っていかれるから」
「急に怖いこと言う」
ヨルが低く言った。
「やめれば」
ましろはヨルを見る。
「ヨルが嫌なら、やめる」
ヨルは口を閉じた。
何度目かの沈黙。
けれど、その沈黙は前より短かった。
「……嫌じゃない」
ましろは頷いた。
「じゃあ、やる」
「早い」
「だめじゃないから」
「本当に面倒」
ヨルは箱を少しだけ持ち上げた。
「開けない箱」
その声は小さかった。
けれど、確かにヨルの口から出た。
門の鐘が鳴った。
ちりん。
今度は最後まで。
その音に、黒い鐘の余韻が少しだけ重なる。
ごん。
けれど、ぶつからない。
白木の箱は震えを止めた。
ましろは息を吐く。
ヨルは箱を抱え直した。
「入れた」
「うん」
「だからって、安心するな」
「うん」
「開けないから」
「うん」
ヨルはましろを睨む。
「返事が素直すぎて気持ち悪い」
「素直にしたのに」
「白い鐘は、それが怖い」
朝の食堂は、まだ半分眠っていた。
子どもたちが少しずつ起きてきて、パンの匂いに引き寄せられるように席へ集まっている。
星守澄は食堂の奥でスープを温めていた。
ましろたちが戻ると、すぐに振り向く。
そして、ヨルが抱えている箱を見て、表情を少しだけ引き締めた。
「持ち帰ったのですね」
「売らせなかった」
ヨルが言う。
「返せたわけじゃない」
澄は頷いた。
「それでも、売られなかったことには大きな意味があります」
「意味だけで助かるなら苦労しない」
「ええ」
澄は静かに答えた。
「意味は、助かるための最初の場所です」
ヨルは何も言わなかった。
ましろは、澄の言葉を胸の中で繰り返した。
最初の場所。
名前も、約束も、帰る言葉も。
最初から完成しているわけではない。
最初の場所を作って、そこから育てるしかないのだ。
悠太が食堂の入口から走ってきた。
「ましろお姉ちゃん!」
寝巻きのまま、髪も少し跳ねている。
手にはスケッチブック。
「無事?」
「うん」
「売られなかった?」
「うん。悠太くんの紙、助かったよ」
悠太はぱっと顔を明るくした。
「本当?」
「本当」
「やった!」
悠太は嬉しそうに笑う。
それから、ヨルの抱える箱に気づいた。
「それ、帰ってきたの?」
ヨルの表情が固まる。
ましろは少しだけ迷った。
けれど、悠太は箱をじっと見つめてから、自分で言った。
「まだ帰ってない?」
ヨルの目が、ほんの少しだけ動いた。
悠太はスケッチブックを抱え直す。
「じゃあ、まだ来てる途中?」
その言葉に、ましろは胸が締めつけられた。
まだ帰っていない。
でも、消えていない。
まだ来ている途中。
ヨルは何も言わなかった。
けれど、黒い布に包まれた箱を抱える腕の力が、少しだけ緩んだ。
「触るなよ」
ヨルが言う。
悠太は大きく頷いた。
「触らない」
「見るな」
「ちょっと見る」
「見るな」
「じゃあ、絵にしない」
「それでいい」
悠太は真剣な顔で言った。
「でも、忘れない」
ヨルは視線を逸らした。
「……勝手にしろ」
ましろは少しだけ笑った。
ヨルの「勝手にしろ」は、たぶん完全な拒絶ではない。
少なくとも今は。
澄は食堂の長いテーブルの端に、白い布を敷いた。
そこへヨルが白木の箱を置く。
ただし、黒い布はかけたまま。
箱は開けない。
白い布の周りに、ましろの星の護符を置く。
ねむのランタンを置く。
ソラの席札を置く。
悠太のスケッチブックから、呼ばない約束の印が描かれたページをそっと添える。
ヨルの黒い鐘は、少し離れた場所に置かれた。
近すぎると重い。
遠すぎると、店に引っ張られる。
その距離を決めるのに、ヨルは三度も位置を変えた。
「ここ?」
ましろが聞く。
「近い」
「じゃあここ?」
「遠い」
「ここ?」
「……まし」
「まし?」
「ましなだけ」
「じゃあ、ここにする」
ねむが見ていて言った。
「箱の配置で不機嫌になる人、初めて見た」
「夢見のランタンで家の匂いを見る人に言われたくない」
「根に持ってる」
「持つ」
「似てる」
「似てない」
レムが宝石の中で言う。
「二人とも、今は集中しなさい」
ねむとヨルが同時に黙った。
ましろは、その様子を見て少しだけ安心する。
騒がしい。
でも、孤児院らしい。
開けない箱があっても。
まだ言えないただいまがあっても。
朝の食堂は、完全には壊れていない。
それがありがたかった。
けれど、その安心は長く続かなかった。
白木の箱の中から、声が漏れた。
ごめんね。
小さな声。
でも、食堂の空気を一瞬で凍らせるには十分だった。
子どもたちが振り向く。
悠太がスケッチブックを抱える。
ヨルが硬直する。
ましろは息を呑んだ。
ごめんね。
もう一度。
今度は少しだけ、声が増えた。
一人の声ではない。
何人もの声が、箱の中で重なっている。
ごめんね。
ごめんね。
ごめんね。
ねむのランタンが勝手に青黒く光った。
「まずい」
「何が?」
ましろが聞く。
「謝罪が漏れてる」
「謝罪?」
「夢の中で、誰かが勝手に謝ってくる時の匂いがする」
ヨルが低く言った。
「開けてない」
「開いてなくても漏れてる」
ソラが食堂を見回す。
「みんなに向かってる」
その言葉の通りだった。
子どもたちの顔が少しずつ曇っていく。
年少の子が、自分の皿を見ながら小さく呟いた。
「ごめんなさい」
隣の子が首を傾げる。
「何が?」
「分かんない。でも、ごめんなさい」
別の子も言った。
「私も、何か悪いことした気がする」
「僕も」
食堂の中に、小さな謝罪が広がっていく。
ごめんなさい。
ごめん。
ごめんね。
何に謝っているのか、誰も分からない。
けれど、謝らなければならない気がしている。
ましろの胸が冷たくなった。
「これ、箱の声?」
ねむはランタンを掲げる。
「箱の中の“ごめんね”が、行き先を探してる。誰に謝ればいいのか分からないから、近くにいる人にくっついてる」
「止めないと」
ましろが杖を握る。
けれど、ヨルが低く言った。
「謝るな」
その声に、食堂の空気が少しだけ止まった。
ヨルは箱を見ていた。
黒い瞳が震えている。
「誰でもいいみたいに謝るな」
ごめんね。
箱がまた言う。
ヨルは歯を食いしばる。
「私に言うな」
ごめんね。
「子どもたちに言うな」
ごめんね。
「今さら」
黒い鐘が、低く震えた。
ましろはヨルを見る。
怒っている。
けれど、それだけではない。
謝られたくないのだ。
まだ。
今は。
「ヨル」
ましろが呼ぶ。
ヨルは答えなかった。
ましろは一歩近づく。
「許さなくていい」
ヨルの肩が動いた。
ましろは続ける。
「今、許さなくていい」
ごめんね。
箱の声が震える。
ましろは箱を見た。
「謝罪は、誰にでも投げていいものじゃない」
レムが宝石の中で静かに言った。
「そうね。謝罪は、受け取る側を選ぶ。通りすがりが“いいよ”と言えば済むものではないわ」
ねむがランタンを強く握る。
「勝手に謝られて、勝手に許す夢は最悪」
ソラが言う。
「場所がない謝罪は、誰かの胸に勝手に座ろうとする」
ましろは頷いた。
「じゃあ、座らせない」
ヨルが顔を上げる。
「どうするの」
「まだ許さない場所を作る」
ヨルの目が揺れる。
「何それ」
「許さないって、悪いことじゃないと思う」
ましろは言葉を探しながら言った。
「まだ痛いのに、いいよって言わなくていい。何があったのか分からないのに、許さなくていい」
箱の中の声が、小さく震える。
ごめんね。
ヨルは、かすれた声で言った。
「じゃあ、どうすればいい」
その声は、怒りよりずっと弱かった。
ましろは即答できなかった。
答えを持っていない。
でも、今までと同じように、最初の場所なら作れるかもしれない。
「今は」
ましろは言った。
「聞くだけ」
「許さないで?」
「うん」
「返事しないで?」
「うん」
「開けないで?」
「うん」
ヨルは笑いそうな顔をして、失敗した。
「何もしてない」
「違うよ」
ましろは箱を見る。
「勝手に許さないって、すごく大事なことだと思う」
ねむが頷く。
「同意」
ソラも言った。
「置き場所を決めれば、子どもたちにくっつかない」
レムがすぐに続ける。
「ましろ、護符を。ねむ、謝罪の夢を食堂全体から箱の周りへ戻して。ソラ、座っていい場所を作って。ヨル」
レムは少しだけ言葉を切る。
「あなたは、まだ許さないと言いなさい」
ヨルの顔が強張る。
「言うの?」
「ええ」
「それ、ひどくない?」
レムの声は静かだった。
「ひどいことをされたなら、ひどいと言っていい」
食堂が静かになる。
ヨルは箱を見た。
黒い布の下の白木の形。
そこから漏れる、ごめんね、という声。
ヨルは黒い鐘の杖を握る。
鳴らさない。
ただ、握る。
「まだ」
声は小さかった。
「まだ、許さない」
箱の声が止まった。
食堂中に広がっていた謝罪の気配が、ぴたりと止まる。
子どもたちの表情が、少しずつ戻っていく。
年少の子が首を傾げる。
「あれ、何で謝ってたんだっけ」
澄がそっとその子の背を撫でる。
「大丈夫。あなたのせいではありません」
ヨルは続けた。
「何があったのか、まだ知らない」
ごめんね。
箱の中の声が、今度は少しだけ小さくなる。
「誰に言ってるのかも、まだ分からない」
ヨルの声が震える。
「だから、まだ許さない」
黒い鐘が、静かに鳴った。
ごん。
怒りではなく、境界の音だった。
ましろは星の護符を箱のそばに置く。
「ごめんねは、ここにある」
護符が淡く光る。
「でも、まだ誰にも押しつけない」
ねむのランタンが、食堂に散らばった謝罪の夢を青黒い火でそっと集める。
ソラの席札が、白い布の上に小さな影を作る。
誰も座らない席。
けれど、そこに置いていいものがある席。
箱の周りに、薄い輪ができた。
許さないための輪。
聞かないためではない。
聞いても、勝手に許さないための輪。
レムが静かに言う。
「未許しの輪」
ねむが眉を寄せる。
「名前が重い」
「軽くできるものではないわ」
ヨルは小さく呟いた。
「未許し」
「嫌?」
ましろが聞く。
ヨルは少し考えた。
「嫌じゃない」
それは最近、ヨルがよく使う言葉だった。
嫌ではない。
いいとは言わない。
でも、だめではない。
その場所に、少しだけ踏みとどまるための言葉。
箱の中から、もう一度だけ声がした。
ごめんね。
けれど、今度は食堂に広がらなかった。
白い布の上。
星の護符と、黒い鐘と、ランタンと、席札の間。
そこだけで、小さく震えた。
ヨルはその声を聞いた。
逃げなかった。
許さなかった。
けれど、聞こえないふりもしなかった。
ましろは、それだけで十分だと思った。
今は。
朝食が再開された頃、食堂の空気は少しずつ戻っていた。
子どもたちは、さっき自分たちが謝っていたことをほとんど覚えていない。
澄は全員に温かいスープを配り直した。
悠太はヨルの隣に座ろうとして、ねむに止められた。
「今は距離」
「どうして?」
「ヨルが子ども対応で壊れる」
「ヨルお姉ちゃん、壊れるの?」
「たぶん精神が」
ヨルが低く言う。
「聞こえてる」
「聞こえるように言った」
「本当に嫌い」
「私も」
悠太は二人を見比べる。
「仲いい?」
「よくない」
二人の声が重なった。
ソラが笑った。
その笑い声を聞いて、ヨルが少しだけ目を細める。
怒ったのではない。
不思議そうだった。
ましろは気づいた。
ヨルは、孤児院の朝に慣れていない。
誰かが勝手に喋って。
勝手に笑って。
勝手に近くにいて。
でも、名前を奪わない。
値段をつけない。
ただそこにいる。
それが、たぶんヨルには落ち着かないのだ。
食堂の窓から、朝日が差し込む。
白木の箱にかけられた黒い布の端が、少しだけ明るくなる。
箱はもう声を漏らしていない。
けれど、眠っているわけではない。
ましろには分かった。
中の「ただいま」と「ごめんね」は、まだ答えを待っている。
許されるためではなく。
終わるためでもなく。
聞かれるために。
ヨルはスープに手をつけず、箱を見ていた。
ましろが隣に座る。
「食べないの?」
「いらない」
「食べた方がいい」
「白い鐘は食事までうるさい」
「朝ごはんは大事」
「誰目線?」
「孤児院目線」
ヨルは呆れたようにましろを見た。
それから、スプーンを取った。
ほんの少しだけスープを口に運ぶ。
「熱い」
「熱いよ」
「先に言え」
「普通は分かる」
「孤児院の常識を押しつけるな」
ねむが横から言う。
「それは孤児院じゃなくてスープの常識」
ヨルは黙った。
そして、もう一口飲んだ。
ましろは、少しだけ笑った。
その時、悠太のスケッチブックが勝手に開いた。
全員が反応する。
白い布の上に置かれた箱も、かすかに震えた。
悠太は慌ててページを押さえる。
「また?」
ページに絵が浮かんでいく。
赤い屋根の家。
三つのカップ。
小さな靴。
玄関の「おかえり」。
その絵は以前より少しだけ細かくなっていた。
そして、今度は玄関の外に、黒い鐘を持った少女が立っている。
少女は扉に背を向けていた。
帰ろうとしているのではない。
出ていこうとしているように見えた。
その足元に、文字が浮かぶ。
ただいまを売ったのは、帰れなかった人ではない。
ましろは息を呑んだ。
ヨルが立ち上がる。
椅子が床を鳴らす。
「何、それ」
悠太は震える。
「ぼく、分かんない」
ページの文字は、さらに続いた。
ごめんねを預けたのは、謝れなかった人ではない。
食堂が静まり返った。
ヨルの顔が白くなる。
ましろはページを見る。
ただいまを売ったのは、帰れなかった人ではない。
ごめんねを預けたのは、謝れなかった人ではない。
では、誰が。
燐灯堂が、嘘をついたのか。
それとも。
ましろは、胸元の護符を握った。
ヨルはスケッチブックの文字を見つめたまま、ほとんど息をしていない。
レムが低く言った。
「預け主と、声の主が違う可能性があるわね」
ねむの顔が険しくなる。
「つまり、誰かが勝手に売った?」
ソラが赤い屋根の家の絵を見る。
「だから、家には“おかえり”だけ残ってた」
ましろは思い出す。
半分消えた「おかえり」。
三つのカップ。
小さな靴。
帰る言葉だけが売られていた家。
けれど、売った人と、言えなかった人が違うなら。
あの家で起きたことは、もっと歪んでいる。
ヨルはスケッチブックに手を伸ばしかけて、止めた。
「違う」
小さく呟く。
「そんなはずない」
けれど、その声は否定というより、願いだった。
箱の中から、かすかに声がした。
ごめんね。
未許しの輪の内側で、声は小さく震えた。
ヨルは目を閉じる。
「やめろ」
声は止まらない。
ごめんね。
「やめろ」
ただいま。
ヨルの黒い鐘が震える。
けれど、彼女は鳴らさなかった。
ましろは、隣に立つ。
呼ばない。
触れない。
でも、離れない。
ヨルは、かすれた声で言った。
「赤い屋根の家に行く」
「今?」
「今」
ねむがランタンを掴む。
「寝てない」
「行く」
「無理すると、悪夢が見る側から殴ってくる」
「意味が分からない」
「私も分からないけど、たぶん本当」
ソラが立ち上がる。
「僕も行く」
ましろも杖を握る。
「私も」
ヨルはましろを見る。
「止めても来るんだろ」
「うん」
「聞く意味なかった」
「でも聞いてくれた」
ヨルは少しだけ目を伏せた。
「……勝手にしろ」
澄が静かに言った。
「行くなら、朝のうちに。昼になると、街は自分の違和感を隠します」
「院長先生」
「ただし、箱はここに置いていきなさい」
ヨルが反射的に箱を見る。
「だめだ」
澄は首を横に振る。
「今の箱は、あなたが抱え続けるには重すぎます。未許しの輪の中に置いていけば、少しの間は保ちます」
「信用しろって?」
「いいえ」
澄はまっすぐヨルを見た。
「戻る理由を、ここに置いていくのです」
ヨルは言葉を失った。
戻る理由。
黒い布をかけられた白木の箱。
ただいま。
ごめんね。
開けない箱。
許さない輪。
全部が、ここにある。
ヨルは長い間、箱を見ていた。
そして、ゆっくり黒い鐘の杖を取った。
「触るなよ」
誰に向けた言葉なのか分からなかった。
ましろにも。
澄にも。
子どもたちにも。
箱の中の声にも。
「誰も、勝手に開けません」
澄が答えた。
ヨルは頷かなかった。
けれど、箱から一歩離れた。
それは、たぶん大きな一歩だった。
食堂を出る時、悠太が小さく言った。
「ヨルお姉ちゃん」
ヨルは振り返らない。
「何」
「行ってらっしゃい」
ヨルの背中が止まった。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
それから、彼女は低く言った。
「……言うな」
「だめ?」
「だめじゃない」
ヨルは食堂の扉の方を向いたまま、続けた。
「慣れてない」
悠太は真剣に頷いた。
「じゃあ、小さく言う」
「そういう問題じゃない」
「いってらっしゃい」
とても小さな声だった。
ヨルは何も言わなかった。
けれど、黒い鐘は鳴らなかった。
ましろは、その沈黙を大事にしたいと思った。
朝の星見坂の街へ、四人は向かった。
ましろ。
ねむ。
ソラ。
ヨル。
開けない箱を、孤児院に残して。
まだ許さない声を、白い布の上に置いて。
赤い屋根の家へ。
そこには、ただいまを売った人ではなく。
ごめんねを預けた人でもない。
もっと別の誰かの名前が、まだ隠れている気がした。
空は白くなっていく。
その白は、空白ではなかった。
けれど、まだ朝とも言い切れない。
夜と朝の境目で、星見坂の街は静かに息をひそめていた。




