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第23話 天頂の競り

満月が天頂に届くまで、あと一刻。


その言葉が、夜の路地に残っていた。


燐灯堂の二階に灯った青白い火は、消えない。


空き店舗のはずの窓の奥で、ゆらゆらと揺れている。


まるで、誰かがまだこちらを見ているみたいだった。


ましろは星律の杖を握りしめた。


胸元には星の護符。


その奥には、呼ばない約束の印。


未帰還の言葉。


怒りの型。


そして、悠太の紙に浮かんだ「売らない」という文字。


どれも、完全に守れたわけではない。


ただ、今この瞬間だけ、店の手から引き剥がしたものだった。


ヨルは空き店舗を見ていた。


黒い鐘の杖を握る手は、白くなるほど力が入っている。


顔色は悪い。


けれど、倒れない。


さっきまで満月市の競り台で、白木の箱はヨルの胸元へ近づいていた。


ただいま。


ヨル。


そして、途切れかけた、もう一つの名前。


あ。


あの続きを、燐灯堂は開けようとした。


ましろは見た。


でも、呼ばなかった。


忘れない。


でも、勝手に呼ばない。


その約束が、今も胸の中にある。


「ヨル」


ましろが呼ぶと、ヨルは少し遅れて振り向いた。


「何」


「大丈夫?」


ヨルは眉をひそめた。


「大丈夫って言ったら、あんたは信じるの?」


「たぶん信じない」


「じゃあ聞くな」


「でも、聞く」


ヨルは舌打ちした。


「面倒」


「よく言われる」


「よく言われるなら直せ」


「それは難しい」


ねむが横から言った。


「ましろの面倒くささは、もう性質」


「ねむ」


「褒めてる」


「本当に?」


「七割くらい」


ソラが小さく笑った。


その声が聞こえて、ましろは少しだけ安心した。


ソラの輪郭は薄い。


満月市から追い出された後、さらに薄くなっている。


けれど、そこにいる。


胸元の席札を両手で押さえながら、彼は空き店舗を見ていた。


「店、閉じてない」


「見える?」


「見えるというより、見られてる」


ソラは少し顔をしかめた。


「さっきより、店の目が増えた気がする」


ねむがランタンを掲げる。


青黒い火が、夜の路地を照らした。


空き店舗の壁に、細い影がいくつも浮かぶ。


札の形。


名札の形。


値札の形。


それらが壁の内側から、ましろたちを見ている。


「最悪」


ねむが低く言った。


「建物に視線があるの、夢でも嫌」


レムは宝石の中で、空き店舗を睨んでいた。


「満月市は一度閉じた。でも、本競りはこれから。さっきのは前座と査定不能品の確認だったのでしょうね」


「確認だけであれ?」


ねむが言う。


「本番が嫌すぎる」


ヨルが低く言った。


「本番は、競り台が一つじゃない」


ましろはヨルを見る。


「どういうこと?」


「満月市の中心には、四つの台がある」


ヨルの声は硬い。


「売られた名前の台。買い戻されなかった呼び名の台。値段のつかなかったものの台。それから」


ヨルは少しだけ言葉を切った。


「返せなかったものの台」


ましろの胸が冷たくなる。


「その台に、“ただいま”が?」


「たぶん」


ヨルは目を逸らす。


「店は、私に返せない名前を出させるつもりだ。そうすれば、あの箱を正式な商品にできる」


「名前を出さなかったら?」


「客に売る」


「じゃあ、どうしても売るつもりなんだ」


「そういう店だ」


ヨルの黒い鐘が小さく震えた。


「預けたものを、いつか取り返せると思わせる。でも取り返せないように値段を上げる。買い戻せなかったものは、灯りにするか、市に出す」


「ひどい」


「ひどいだけなら、まだ壊せる」


ヨルは空き店舗を睨む。


「でも、あの店は欲しがる人間の顔をしてくる」


その言葉に、ましろは満月市の客たちを思い出した。


顔のない客。


白い札を貼った人影たち。


帰りたい。


ただいまって言いたい。


誰もいない。


その声は、嘘ではなかった。


誰かの「ただいま」を欲しがることは、間違っている。


けれど、帰る場所を欲しがることは間違っていない。


だから、苦しい。


ましろは杖を握る手に力を込めた。


「欲しい気持ちを、店に使われてるんだ」


「そう」


ヨルが短く言う。


「だから壊す」


「でも、欲しい気持ちは壊さない」


ヨルがましろを見る。


「また甘いことを言う」


「甘いかな」


「甘い」


「でも、欲しいって気持ちまで壊したら、帰りたいって思えなくなる」


ヨルは黙った。


ましろは続ける。


「帰りたいって思うことは、悪いことじゃない」


ヨルの目が少し揺れる。


「……帰れないのに?」


「帰れなくても」


ましろは胸元の護符を押さえた。


「帰りたいって思ったことまで、売らなくていい」


夜の路地が静かになった。


ねむが小さく息を吐く。


「ましろ、たまに無茶な正論を言う」


「たまに?」


「かなり」


ソラが空き店舗の扉を見つめる。


「扉、開く」


その言葉と同時に、空き店舗の白い戸に黒い線が走った。


線は扉の形になる。


取っ手もない。


鍵穴もない。


ただ、白い壁が自分を扉だと思い出したみたいに開いていく。


中から、青白い燐の火が流れ出した。


燐灯堂の声がした。


「再入場のお時間でございます」


紙を擦るような声。


けれど、今度はいつもより低い。


「満月が天頂に届く前に、お席へどうぞ」


ヨルが黒い鐘を肩に担ぐ。


「行く」


ましろも頷いた。


「うん」


「返事するなよ」


「分かってる」


「欲しいと思うな」


「それは、ちょっと自信ない」


ヨルが睨む。


ましろは慌てて言った。


「でも、気づいたら言う」


「言うな。握れ」


「何を?」


ヨルはましろの胸元の護符を指さした。


「売らないもの」


ましろは護符を握った。


温かい。


けれど、その温かさの奥に、燐灯堂の冷たい指がまだ触れているような感覚がある。


「売らない」


ましろは小さく言った。


ヨルが頷く。


「それでいい」


ましろたちは扉をくぐった。


今度の満月市は、広場ではなかった。


円形の劇場だった。


石でできたすり鉢状の客席が、ぐるりと四方を囲んでいる。


席には、白い札の顔をした客たちがぎっしりと座っていた。


数えきれない。


さっきの広場よりもずっと多い。


けれど、音はほとんどない。


客たちは喋っていない。


ただ、待っている。


欲しいものが出てくるのを。


中央には、四つの競り台があった。


北の台には、無数の名札。


東の台には、小さな箱。


南の台には、値札の山。


西の台には、白木の箱が置かれている。


ましろは西の台から目を離せなかった。


ただいま。


蓋には、薄い文字。


赤い糸が何重にも巻きついている。


その上に、悠太の紙が貼り付いていた。


よばないって、やくそくした。


子どもの字が、細い燐の火に照らされている。


その紙があるから、蓋はまだ開いていない。


けれど、赤い糸は少しずつ紙の端を焦がしていた。


「時間がない」


ソラが言った。


声が薄い。


「紙、保たない」


ねむがランタンを掲げる。


「夢の火じゃない。取引の火」


レムが低く言う。


「契約を焼く火ね。約束を契約に変換しようとしている」


「どういう意味?」


ましろが聞く。


「約束は互いの意思で支えるもの。でも契約に変えられたら、店の帳簿に入る」


レムの声が硬くなる。


「呼ばない約束の印も、燐灯堂の所有物にされる」


ヨルが黒い鐘を握る。


「やっぱり壊す」


「待って」


「待たない」


「ヨル」


ましろが呼ぶと、ヨルの動きが止まった。


一瞬だけ。


それでも止まった。


ヨルは歯を食いしばる。


「呼ぶなって」


「今だけ、呼んでいいって言った」


「もう終わった」


「まだ終わってない」


ヨルは何か言い返そうとして、やめた。


「……一回だけ」


「うん」


「一回だけだ」


「うん」


ましろは西の台を見る。


「壊したら、箱ごと割れるかもしれない」


「じゃあ、どうする」


「赤い糸だけを切る」


レムがすぐに言った。


「難しいわ。あれは物理的な糸ではない。所有権と出品情報と買い戻し条件が絡んだものよ」


ねむが嫌そうに言う。


「言葉だけで嫌」


ソラが一歩前に出る。


「糸の出口は見える」


「本当?」


「うん。でも、多すぎる。客席全部につながってる」


ましろは客席を見上げた。


白い札の顔。


無数の客。


みんな、何かを欲しがっている。


赤い糸は、その欲しいという声につながっているのだ。


一人ひとりが、白木の箱を引っ張っている。


店だけではない。


客の願いもまた、箱を競り台に縛っている。


「欲しい声を離さないと」


ましろが言う。


「またそれか」


ヨルは苦い顔をした。


「客を起こすだけでは足りなかった」


「うん」


「今度は?」


「選んでもらう」


「何を」


「買うか、作るか」


ヨルは一瞬黙った。


「帰る場所を?」


「うん」


「簡単に言うな」


「簡単じゃない」


「分かってない」


「分かってないから、言う」


ヨルは本気で呆れたように息を吐いた。


「白い鐘、ほんと最悪」


「でも、今ここで壊すだけだと、客たちはまた次の“ただいま”を買う」


ましろは客席を見た。


「だから、買えないって分からせるだけじゃ足りない」


ねむが続けた。


「自分の足で帰れって言う?」


「それは突き放しすぎ」


ソラが言う。


「でも、道なら作れるかもしれない」


「道?」


「買った帰る言葉じゃなくて、自分の帰る場所を探す道」


レムの宝石が光る。


「巡帰路(じゅんきろ)ね」


「何それ」


ねむが聞く。


「古い星律の術式よ。失ったものを直接返すのではなく、自分で戻るための道だけを照らす。名前を返す鐘より弱い。でも、相手の意思を奪わない」


「それ、今できる?」


ましろが聞く。


レムは少し黙った。


「普通は」


「できない?」


「できないというより、契約者が複数必要」


レムはヨルを見る。


「白い鐘だけでは道が明るすぎる。黒い鐘だけでは道が重すぎる。夢見の灯りと、忘れられた席の目印もいる」


ねむがランタンを持ち上げる。


「私」


ソラが席札を押さえる。


「僕」


ヨルが黒い鐘を見下ろす。


「私は客を救いに来てない」


「救わなくていい」


ましろは言った。


「起こすだけでいい」


「それはさっき聞いた」


「今度は、歩けるところまで」


ヨルは客席を見た。


白い札の顔たち。


帰りたいと願うものたち。


誰かの「ただいま」を欲しがるものたち。


ヨルの目に、嫌悪が浮かぶ。


けれど、その奥に、ほんの少しだけ別の色があった。


知っている痛みを見る目。


「……一回だけ」


ヨルは言った。


「今日の一回、多いね」


ねむが呟く。


ヨルは睨む。


「黙れ、夢見」


「はいはい」


「はいは一回」


レムが言った。


ヨルが宝石を見る。


「本当に似てるの腹立つ」


レムが即座に返す。


「私は腹立たしいわ」


ソラが小さく笑った。


その笑いが、少しだけ空気を軽くした。


競り人の声が響く。


「本出品を開始いたします」


四つの台の灯りが強くなる。


「保留品、未帰還の言葉、黒鐘ヨルの返せない名前。まとめて一式」


客席が揺れる。


「欲しい」


「帰りたい」


「ただいま」


「おかえり」


「名前を」


「呼んで」


声が劇場を満たす。


ましろは息を吸った。


「今」


レムが言う。


「ましろ、星律の杖を。ヨル、黒い鐘を。ねむ、客席の足元を照らして。ソラ、出口を探して」


「分かった」


ましろは杖を掲げた。


ヨルは黒い鐘を持ち上げる。


ねむのランタンが青黒く燃える。


ソラは自分の席札を胸元に押し当てた。


競り人の声が高らかに告げる。


「入札開始。対価は――」


ましろは、その声を遮るように歌った。


星が眠る丘のうえ。


ちいさな鐘が鳴りました。


帰る名前をなくしても。


あかりは窓に、待っている。


客席がざわめく。


「歌?」


「売り物か?」


「誰の歌?」


「帰る歌?」


ヨルの黒い鐘が重なる。


ごん。


ましろの歌に、黒い音が一本の線を引く。


それは優しい音ではない。


けれど、目を覚ます音だった。


ねむのランタンが客席の足元を照らす。


白い札の顔をした客たちの下に、影が浮かぶ。


その影はみんな、どこかへ帰りたがっている。


でも、足元には道がない。


ソラが手を伸ばす。


「出口、見えた」


「どこ?」


「客席の後ろじゃない。胸の中」


「胸の中?」


「自分が本当はどこへ帰りたいのか、そこからしか出られない」


レムが頷く。


「巡帰路としては正しいわ」


ヨルが黒い鐘を鳴らす。


ごん。


「起きろ」


その声は低かった。


「誰かの“ただいま”を買っても、あんたの家にはならない」


客席が揺れる。


「欲しい」


「でも」


「寂しい」


「誰も待ってない」


「ならどうすれば」


ましろは歌を止めずに、杖を振った。


りん。


鐘の音が歌に混じる。


「待ってくれる人がいないなら、まず自分が帰る場所を探して」


燐灯堂の声が怒る。


「無責任な誘導でございます」


「売るよりはまし」


ねむが言った。


ランタンの火が強くなる。


「眠れないなら、眠れない理由を店に売るな。夢で殴りに来い。私がたぶん嫌な顔で聞く」


「雑!」


ましろが思わず言う。


「丁寧に聞くとは言ってない」


ねむは真顔だった。


「でも、店よりはまし」


ソラが続く。


「覚えていてほしいなら、買った名前じゃなくて、自分の席を作って」


彼の席札が光る。


「誰かに書いてもらってもいい。自分で書いてもいい。消えたら、また書けばいい」


ヨルは黒い鐘を握る。


客席の声が、少しずつ変わっていく。


欲しい。


欲しい。


から。


帰りたい。


でも、どこへ。


へ。


そして、さらに。


探したい。


分からない。


でも、買わない。


ましろは杖を掲げた。


「ルミナス・ベル」


りん。


ヨルが黒い鐘を鳴らす。


ごん。


白と黒の鐘が、初めて同じ間で鳴った。


ぶつからない。


片方が片方を消さない。


白い鐘は道を照らす。


黒い鐘は眠った怒りを起こす。


ねむのランタンは夢を現実から離しすぎないように留める。


ソラの席札は、出口の場所を固定する。


四つの光が客席へ広がった。


白い札の顔が、ひとつずつ割れていく。


中から顔が出るわけではない。


それでも、札の下にあった影たちが、自分の足元を見始める。


客席の後ろに、小さな道がいくつも開いた。


本当の出口ではない。


けれど、満月市の外へ向かう道。


自分の帰る場所を探すための道。


「行って」


ましろは叫んだ。


「誰かの名前を買う前に、自分の帰る場所を探して!」


客たちが一人、また一人と立ち上がる。


札が剥がれる。


白い札は、床に落ちる前にただの紙になった。


客たちは道へ向かう。


全員ではない。


まだ座っている者もいる。


欲しがることをやめられない者もいる。


けれど、たくさんの影が席を離れた。


満月市の客席が、初めて空き始めた。


燐灯堂の声が、怒りで歪む。


「お客様を減らすな!」


競り台の赤い糸が激しく震えた。


西の台の白木の箱が、宙へ浮かぶ。


「では、商品価値の回収へ移行いたします」


「来る!」


レムが叫ぶ。


四つの台から赤い糸が伸びた。


名札の台。


箱の台。


値札の台。


返せなかったものの台。


すべての糸が、ヨルへ向かう。


ヨルの首元の割れた名札が光る。


ヨル。


その下に。


あ。


さらに、その続きが浮かびかける。


ましろは叫びそうになった。


けれど、呼ばない。


勝手に呼ばない。


ヨルは黒い鐘を構えた。


「来るな」


糸は止まらない。


「来るな!」


糸がヨルの胸元に触れる。


黒い鐘が悲鳴のように鳴った。


ごん。


ヨルが膝をつく。


白木の箱が開きかける。


中から声が溢れる。


ただいま。


ごめんね。


そして、途切れた名前。


――あ……


ヨルの唇が震える。


名前を返そうとしているのではない。


吐き出させられている。


ましろは走った。


「ヨル!」


今だけの許可は、もうない。


でも、呼ばなければヨルが消えるかもしれない。


呼べば、痛い。


ましろは一瞬だけ迷った。


その迷いの中で、悠太の紙が光った。


よばないって、やくそくした。


ましろは立ち止まった。


呼ばない。


でも、何もしないわけじゃない。


ましろは杖を胸元に当てた。


「ヨルを呼ばない」


声に出す。


「でも、ヨルの隣に立つ」


ヨルが顔を上げる。


ましろは彼女の隣へ立った。


名前を呼ぶ代わりに、黒い鐘を一緒に支える。


手を触れたら怒られるかもしれない。


でも、今は聞く時間がない。


ましろは黒い鐘の柄の下に、自分の杖を添えた。


「触るな」


ヨルがかすれた声で言う。


「触ってない」


「触ってる」


「支えてる」


「同じだ」


「違うことにして」


ヨルは苦しそうに笑いかけて、失敗した。


「最悪」


「うん」


ましろは杖に力を込める。


「でも、ひとりで持たないで」


黒い鐘と星律の杖が、重なった。


ごん。


りん。


二つの鐘が、同じ場所から鳴る。


完全に混ざったわけではない。


でも、今までより近かった。


赤い糸が一本、切れる。


ヨルの名札に浮かびかけた文字が、止まる。


あ。


その先は、まだ出ない。


燐灯堂の声が鋭く叫ぶ。


「未払いです」


「未納です」


「未返却です」


「契約不履行です」


レムが宝石の中で言った。


「うるさいわね」


その声は静かだった。


でも、怒っていた。


「契約ではないと言ったでしょう」


星律の杖が強く光る。


レムの瞳に、星の線が浮かぶ。


「これは約束よ」


ねむのランタンが燃える。


「見ない約束」


ソラの席札が光る。


「空けておく約束」


ましろが言う。


「勝手に呼ばない約束」


ヨルが、歯を食いしばって言った。


「売らない約束」


その瞬間、悠太の紙に書かれた「売らない」の文字が、満月市の中央で強く光った。


赤い糸が、次々とほどける。


白木の箱が震える。


蓋が閉じる。


けれど、箱は消えない。


まだ燐灯堂のものでも、ましろたちのものでもない。


宙に浮いたまま、月の光を受けている。


燐灯堂の声が低くなる。


「では、競りは不成立」


ましろは息を呑む。


「ただし、商品は未処理」


ヨルが黒い鐘を握る。


「何をする気」


「未処理品は、倉庫へ戻されます」


レムが叫ぶ。


「まずい!」


「何が?」


ましろが聞く。


「倉庫は、帰る道が完全に閉じる場所よ。市で売れなかったものが、次に出るまで眠らされる」


「次って」


「次の満月」


ヨルの顔から血の気が引く。


「一月も保たない」


白木の箱が、劇場の奥へ吸い込まれ始める。


「だめ!」


ましろが走る。


ねむがランタンを投げるように光を伸ばす。


ソラが出口を探す。


ヨルが黒い鐘を鳴らす。


でも、箱は遠い。


赤い糸が、今度は闇の中へ伸びている。


満月市ではない。


燐灯堂のもっと奥。


名前の倉庫。


呼び名の墓。


そこへ引き込まれていく。


その時、白木の箱から声がした。


ただいま。


ごめんね。


そして、今度は。


――待ってて。


ヨルの足が止まった。


「何で」


声が震えている。


「何で、今さら」


箱は遠ざかる。


ましろは手を伸ばす。


届かない。


ソラが叫んだ。


「ましろ、箱じゃない!」


「え?」


「声の出口は、箱じゃない。ヨルの鐘!」


ましろはヨルを見る。


黒い鐘。


その内側に、赤い糸が一本だけ残っている。


箱から伸びているのではない。


ヨルの怒りの中から、箱へ向かっている糸。


つまり。


「ヨルが、まだ待ってる」


ましろは呟いた。


ヨルがましろを見る。


「違う」


「違わない」


「違う!」


「待ってるから、怒ってるんだよ」


ヨルの目が大きく揺れた。


ましろは言った。


「もう帰ってこないって思ったら、怒れない」


黒い鐘が震える。


「帰ってきてほしいから、怒ってる」


ヨルは何も言えなかった。


燐灯堂の声が遠くで笑う。


「感動的な解釈でございます」


「でも、未処理品は収納いたします」


白木の箱が、闇の扉へ近づく。


ましろはヨルを見る。


「ヨル」


「呼ぶな」


「呼ぶ」


「呼ぶな!」


「今だけじゃない」


ましろは言った。


「今度は、聞いてからじゃ間に合わない」


ヨルの顔が歪む。


ましろは続けた。


「勝手に本当の名前は呼ばない。でも、ヨルは呼ぶ」


黒い鐘が、小さく鳴った。


「ヨルは、今のあなたを鳴らす名前なんでしょう」


ヨルは息を呑んだ。


「だったら、その名前で立って」


ましろは手を差し出さない。


触れない。


ただ、隣に立つ。


「黒鐘ヨル!」


その名前が、満月市に響いた。


ヨルの黒い鐘が、今までで一番低く鳴った。


ごん。


怒り。


悲しみ。


待っていたこと。


待たされたこと。


言えなかったただいま。


聞けなかったおかえり。


全部を抱えた音。


ヨルは顔を上げた。


「私は」


黒い鐘を握る。


「まだ、怒ってる」


赤い糸が強く光る。


「まだ、待ってる」


白木の箱が止まった。


ヨルは叫んだ。


「だから、勝手に終わらせるな!」


黒い鐘が鳴った。


ましろの杖が応える。


りん。


二つの鐘が、今度こそ重なった。


黒い音が闇の扉を砕く。


白い音が箱の周囲を照らす。


ねむのランタンが、箱の夢をこちらへ引き戻す。


ソラの席札が、箱の置き場所を固定する。


悠太の紙が、蓋を押さえる。


白木の箱は、闇の扉から引き剥がされた。


競り台へ戻る。


いいや。


競り台ではない。


ましろたちの前へ落ちてきた。


赤い糸はまだ巻かれている。


蓋も閉じたまま。


けれど、箱の下に新しい文字が浮かんでいた。


競り不成立。


倉庫戻し失敗。


保管先変更。


ましろは息を止める。


次の文字が浮かぶ。


保管先。


黒鐘ヨル。


星の護符。


共有保留。


燐灯堂の声が、初めて完全に沈黙した。


客席も、屋台も、競り台も、何もかも止まる。


ヨルは白木の箱を見ていた。


信じられないものを見るように。


「私に戻すな」


声は小さい。


ましろは言った。


「ヨルだけじゃない」


星の護符が光る。


「私も持つ」


ソラが席札を掲げる。


「場所は空ける」


ねむがランタンを下ろす。


「夢は勝手に見ない」


レムが静かに言う。


「そして、呼ばない」


ヨルの手が震える。


白木の箱は、ゆっくり小さくなっていった。


手のひらほどの大きさになる。


赤い糸はほどけず、けれど締めつける力を失っている。


箱はヨルの前で止まった。


ヨルは、しばらく触れなかった。


ましろも急かさない。


やがて、ヨルは黒い布を取り出した。


いつも星骸の残骸を包んでいる黒い布。


けれど、今回は違った。


彼女はその布を、ゆっくり箱にかける。


荒くない。


雑でもない。


包むのではなく、寒くないように掛けるみたいだった。


「預かるだけ」


ヨルは言った。


「返せたわけじゃない」


ましろは頷いた。


「うん」


「終わってない」


「うん」


「まだ、何も話さない」


「うん」


ヨルは箱を胸に抱えた。


黒い鐘は、肩から少しだけ下がっている。


満月市の客席から、ぽつぽつと影が立ち上がった。


さっき道を見つけた客たちが、劇場の出口へ向かっていく。


まだ残る者もいる。


欲しがり続ける者もいる。


けれど、全部ではない。


燐灯堂の商売は、今夜、少しだけ崩れた。


競り人の声が、ようやく戻ってくる。


「本日の満月市は、閉市いたします」


声は冷たかった。


「未処理多数。損失多数。違反多数」


ねむがぼそりと言う。


「ざまあ」


「夢見様」


燐灯堂の声が静かに言う。


「次回ご来店時、悪夢を高く買い取ります」


「売らない」


ねむは即答した。


ソラにも声が向く。


「帳ソラ様。忘れられない一日、まだご用意できます」


「いらない」


ソラは席札を握った。


「僕は、また明日って書いてもらう」


最後に、燐灯堂の声がましろへ向いた。


「久遠ましろ様」


ましろは杖を握る。


「あなたの本当の名前は、いつか必ず査定されます」


胸元の宝石が、強く脈打った。


レムが低く言う。


「聞くな」


ましろは頷いた。


「査定させません」


燐灯堂の声が笑う。


「名前は、欲しがる者がいる限り、値を持ちます」


「でも」


ましろは言った。


「私は、売らない」


その言葉に、満月市の白い看板がひび割れた。


劇場が崩れていく。


月の光が砕ける。


屋台が消える。


客たちの声が遠ざかる。


気づくと、ましろたちは星見坂の路地に立っていた。


白い空き店舗。


閉じた戸。


二階の青白い灯りは、消えている。


満月は、真上を少し過ぎていた。


夜が、ほんの少しだけ明ける方へ傾いている。


誰もすぐには話さなかった。


ヨルは白木の箱を黒い布で包み、胸に抱えていた。


それは戦利品には見えなかった。


墓にも見えなかった。


まだ開けられない手紙みたいだった。


ましろは、そっと聞いた。


「重い?」


ヨルは少しだけ目を伏せた。


「重い」


「持つ?」


「持つな」


「うん」


「でも」


ヨルは少しだけ言葉に詰まった。


それから、低く言った。


「隣なら、歩いていい」


ましろは頷いた。


「うん」


ねむが後ろで小さく笑った。


「ヨル的には、かなり譲歩」


「うるさい」


ソラが空を見上げる。


「店、まだ終わってないよね」


「ええ」


レムが言った。


「燐灯堂は傷ついた。でも、潰れてはいない」


「次は?」


ましろが聞く。


レムは少しだけ黙る。


「店は必ず、失った分を取り返しに来るわ」


ヨルが黒い布の箱を抱き直す。


「来ればいい」


その声は、まだ怒っていた。


けれど、今までとは少し違った。


ひとりで燃えている怒りではない。


隣に誰かがいることを、知ってしまった怒りだった。


路地の向こうで、朝の気配が薄く生まれ始めている。


ましろは星の護符に触れた。


護符は温かかった。


呼ばない約束の印。


売らないという文字。


未帰還の言葉。


そして、共有保留になった小さな箱。


まだ終わっていない。


まだ話せない。


まだ返せない。


けれど、燐灯堂に売られることはなかった。


それだけで、今夜は十分だった。


ヨルが歩き出す。


ましろも隣を歩く。


名前を呼ばずに。


でも、忘れずに。


空の端が、少しだけ白くなった。


その白は、空白ではなかった。


夜が終わる前に、朝が場所を取り戻そうとしている白だった。

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