第22話 満月市
満月の夜、星見坂の街から店の名前が消えた。
パン屋。
花屋。
薬草店。
時計修理。
昼間なら、役割だけでも残っていたはずの看板が、今夜はすべて白くなっている。
何も書かれていない。
けれど、何もないわけではない。
白い看板の奥で、何かが息をしている。
ましろは星の護符を胸元にしまっていた。
護符の裏には、いくつもの言葉と印が留められている。
ただいまは、ここにあった。
呼ばない約束の印。
未帰還の言葉、一時預かり。
怒りの型。
文字にしてしまえば、それだけで店に値段をつけられそうで、ましろは何度も護符の上から手を当てた。
そこにある。
でも、売り物ではない。
そこにある。
でも、まだ呼ばない。
今夜、燐灯堂は満月市を開く。
売れなかった名前。
買い戻されなかった呼び名。
値段をつけられなかったもの。
そして、売れないはずのもの。
それらが競りにかけられる夜。
星見坂の街は、月の下で知らない顔をしていた。
「いいか」
黒鐘ヨルが先頭で言った。
黒い鐘の杖を肩に担ぎ、夜の路地を見ている。
「満月市で返事をするな」
「返事?」
ましろが聞く。
「呼ばれても、簡単に答えるな。番号で呼ばれても、名前で呼ばれても、昔の呼び名っぽい声がしても」
ヨルの声は低い。
「返事をしたら、客として数えられる」
ねむが夢見のランタンを抱え直す。
「数えられると?」
「入札できる。されることもある」
「入札される?」
「商品と客の境目が薄い場所だから」
ましろは息を呑んだ。
満月市。
その名前だけなら、祭りのようにも聞こえる。
けれど、ヨルの言葉で分かった。
ここは祭りではない。
誰かが手放したものを、別の誰かが買う場所。
誰かの痛みに値段がつく場所。
ソラは胸元の席札を押さえていた。
帳ソラ。
その文字は今夜、とても薄い。
街全体が名前を抜かれたみたいな夜では、ソラの輪郭は月の光に溶けやすかった。
「ソラ」
ましろが呼ぶ。
ソラはすぐに返事をした。
「いるよ」
「何回でも呼ぶから」
「うん」
ソラは少しだけ笑った。
「何回でも返事する」
レムが杖の宝石の中で言う。
「全員、自分の持ち物を確認して。ましろは星の護符。ねむはランタン。ソラは席札。ヨルは黒鐘。私は星律の杖」
「持ち物っていうより命綱だね」
ねむが言う。
「そうよ」
レムは即答した。
「満月市では、うっかり売れるものを持っているだけで危険なの」
「売れるものを持たないなんて無理じゃない?」
「ええ。だから、売れないと決めたものを握るの」
ましろは胸元の護符を握った。
売れないもの。
値段をつけられたら怒るもの。
呼ばないと約束したもの。
忘れないけれど、勝手に呼ばないもの。
ヨルは、ましろの手元を見ていた。
「落とすなよ」
「うん」
「奪われるなよ」
「うん」
「泣くなよ」
「それは、たぶん無理」
ヨルは舌打ちした。
「そこだけ正直なの、腹立つ」
ねむが小さく言う。
「諦めよう。ましろは泣く」
「ねむまで」
「でも立つ」
ソラが言った。
ましろは、三人を見た。
ヨルはそっぽを向いた。
ねむは眠そうに目を細めた。
ソラは薄く笑っていた。
レムの宝石が、静かに光る。
不思議だった。
怖いのに、ひとりではない。
それだけで、名前は少し強くなる。
路地の奥に、月明かりでできた鳥居のようなものが見えた。
鳥居ではない。
二本の白い柱。
その上に、何も書かれていない看板。
下には、赤い糸で吊られた名札が何枚も揺れている。
風はない。
それなのに、名札はかすかに鳴っていた。
かさ。
かさ。
まるで、喉のないものたちが名前を呼び合っているようだった。
ヨルが黒い鐘を一度だけ鳴らす。
ごん。
白い柱の間に、道が開いた。
奥から、青白い燐の灯りがいくつも浮かび上がる。
満月市が、口を開けた。
「入るよ」
ヨルが言う。
「中では、欲しいと思うな」
「思ったら?」
ましろが聞くと、ヨルは振り返らずに答えた。
「店がそれを聞く」
満月市は、広場の形をしていた。
けれど、星見坂の街にこんな広場はなかったはずだ。
石畳が月の光を吸い、白く濡れている。
周囲には屋台が並んでいた。
屋台には、食べ物も花も玩具もない。
あるのは札だった。
瓶に詰められた呼び名。
箱に眠るあだ名。
小皿に乗せられた古い姓。
細い糸に吊るされた「おやすみ」。
色褪せた封筒に入った「また明日」。
誰かの声でしか意味を持たない言葉たちが、商品みたいに並んでいた。
ましろは立ち止まりそうになった。
すぐにヨルが低く言う。
「見るな」
「でも」
「全部に目を合わせてたら、朝までに空っぽになる」
ましろは目を伏せた。
それでも、聞こえてくる。
――昔の呼び名、少し軽くなりますよ。
――忘れたいあの人の声、買い取り中。
――もう怒らなくていい名前、今夜だけ高値。
――捨てられなかった幼名、眠れる薬と交換。
声は優しかった。
だから気持ち悪かった。
優しい声で、誰かの痛みを棚へ並べている。
ねむのランタンが震える。
「夢が多すぎる」
「夢?」
「売られる前の夢。売った後の夢。売らなかったせいで眠れなかった夢」
ねむの顔色は悪い。
「全部、床の下で寝返りを打ってる」
ソラが周囲を見回す。
「出口が多い」
「なら安心?」
ましろが聞く。
ソラは首を横に振った。
「違う。どの出口も、少しずつ違う場所へ続いてる。間違えたら、帰る先を変えられる」
レムが低く言う。
「満月市は、名前の流通路を集めた場所ね。ここでは、道も商品になる」
「最悪の上塗り」
ねむが言う。
ヨルは広場の中央へ向かって歩いていた。
その先に、競り台がある。
古い木でできた台。
赤い糸が張り巡らされ、四隅には青白い燐の灯りが浮いている。
台の上には、白い布がかけられた品物がいくつか並んでいた。
布の下から、かすかな声が漏れている。
まだ呼ばれていない声。
もう呼ばれたくない声。
呼ばれるのを待ち疲れた声。
競り台の周りには、客がいた。
人の形をしている。
けれど顔がない。
顔のある場所に、白い札が貼られている。
札には何も書かれていない。
ただ、札の下から口のような影だけが動く。
「今夜は良い品が出る」
「呼べない名だそうだ」
「黒鐘絡みだ」
「未帰還の言葉もあるらしい」
「売れないものほど高くなる」
ましろの手が護符を握りしめる。
ヨルの肩がわずかに強張った。
黒い鐘の杖が、低く震える。
「ヨル」
ましろは小さく呼んだ。
ヨルは振り向かない。
でも、返事の代わりに言った。
「呼ぶなって言っただろ」
「名前じゃなくて、確認」
「同じだ」
「じゃあ、確認だけ」
沈黙。
ヨルは小さく息を吐いた。
「……まだ立ってる」
「うん」
「勝手に触るな」
「うん」
「勝手に助けるな」
ましろは少しだけ黙った。
「助けたい時は、聞く」
ヨルは何も言わなかった。
でも、黒い鐘の震えが少しだけ弱まった。
その時、競り台の奥から声がした。
「ようこそ、満月市へ」
燐灯堂の声だった。
ただし、いつもの紙を擦る声よりも多い。
何十もの声が重なっている。
老人。
子ども。
男。
女。
聞いたことのある声。
聞いたことがない声。
それらが一つの丁寧な商人の声になって、広場に響いた。
「今宵も、行き場をなくした名と言葉を、公正にお預かりし、公正にお譲りいたします」
ねむがぼそりと言う。
「公正が過労死する」
「死もお預かりできます」
燐灯堂が即座に返した。
「聞こえてるの本当に嫌」
競り人の姿は見えない。
声だけが、競り台の上に浮いていた。
「まずは前座より」
白い布が、一枚めくられる。
そこにあったのは、小さな瓶だった。
瓶の中には、淡い金色の声が入っている。
瓶の札には、こう書かれていた。
よくできました。
競り台の周りの客がざわめく。
「子どもの頃の褒め言葉だ」
「未使用に近い」
「欲しい」
「今なら自分に言える」
ましろは胸が痛くなった。
よくできました。
たったそれだけの言葉。
でも、誰かにとっては買いたいほど欲しいものなのかもしれない。
燐灯堂の声が滑らかに続ける。
「入札は、眠れない夜三日分より」
客たちが札を上げる。
何も書かれていない札が、次々と光る。
ましろは見ていられなかった。
けれど、ヨルは見ていた。
まっすぐに。
怒りの目で。
「壊さないの?」
ましろが小さく聞く。
ヨルは低く答える。
「全部壊してたら、こっちが先に壊れる」
その言葉は、ましろの胸に残った。
壊したいものが多すぎる。
だから、選ばなければならない。
ヨルはそれを知っている。
ましろは、まだ知らなかった。
前座がいくつか続いた。
もう一度だけ呼んでほしい名。
捨てたはずの旧姓。
泣く時だけ呼ばれていた愛称。
どれも誰かの痛みで、誰かの欲しさだった。
競り落とされるたび、燐の灯りがひとつ増える。
名前が灯りになっていく。
綺麗で、吐き気がした。
やがて、競り人の声が少し変わった。
「次は、査定不能品でございます」
広場の空気が変わる。
客たちの白い札の顔が、一斉に競り台へ向いた。
「本来、値段をつけられないもの」
燐灯堂の声が笑う。
「だからこそ、満月市にふさわしい」
白い布がめくられた。
そこには、星の護符に刻まれた印と同じ形があった。
黒い鐘。
白い星。
赤い糸。
名前のない中心。
呼ばない約束の印。
ましろは息を呑んだ。
胸元の護符が熱くなる。
「本物はここにあるのに」
ねむが言う。
「写しを取られた?」
レムの声が低くなる。
「店は概念の影を競りに出している。護符本体ではないけれど、あれを落札されれば、印の意味を買われる可能性がある」
「意味を?」
「呼ばない約束が、店の所有物になる」
ヨルが黒い鐘を握る。
「壊す」
「待って」
ましろは止めた。
ヨルの目が鋭くなる。
「また?」
「あれは印の影。壊したら、本物にも響くかもしれない」
レムが頷く。
「その通りよ」
ヨルは舌打ちした。
「面倒くさい」
燐灯堂の声が広場に響く。
「呼ばない約束の印。名前を伏せ、忘却にも落とさず、店にも渡さないという珍しい細工でございます」
客たちがざわめく。
「呼ばない名を持てるのか」
「痛まない秘密だ」
「隠し名の保管に使える」
「買う」
ましろの胸が冷たくなった。
呼ばない約束。
ヨルの痛みを守るために作ったもの。
それが今、別の誰かの秘密を隠す道具として売られようとしている。
「入札開始」
燐灯堂が告げる。
「対価は、忘れてもいい後悔ひとつより」
客の札が上がる。
「眠れる嘘、一年分」
「呼ばれなかった謝罪」
「親に似た声」
「売らなかった旧名」
次々と声が飛ぶ。
ましろは息が苦しくなる。
「どうすれば」
ねむがランタンを掲げた。
「競りそのものを止めるのは難しそう」
ソラが目を細める。
「でも、あれには場所がない」
「場所?」
「商品台に置かれてるけど、帰る場所がない。写しだから。影だから」
ましろは胸元の護符を握った。
本物はここにある。
呼ばない約束は、ましろたちの間にある。
ヨルが嫌だと言い。
ましろが勝手に呼ばないと約束し。
悠太が印を描き。
ねむが境界を作り。
ソラが場所を貸し。
レムが形を通し。
その全部があって、初めて成立している。
なら。
「あれは、売り物じゃない」
ましろは言った。
ヨルが横目で見る。
「言うだけ?」
「言う」
ましろは一歩前に出た。
競り台の方へ。
客たちの顔のない札が、ましろへ向く。
ぞっとするほどの視線。
けれど、ましろは護符を胸元から取り出した。
「それは、呼ばない約束の印です」
声が少し震えた。
でも、聞こえるように言った。
「でも、約束は、ひとりで持てるものじゃありません」
燐灯堂の声が甘くなる。
「所有権の主張でございますか」
「違います」
ましろは首を振った。
「所有できないって言ってるんです」
広場が静かになる。
客たちの札が揺れる。
ましろは続けた。
「呼ばない約束は、誰かを支配するためのものじゃない。名前を隠して好きに使うためのものでもない」
護符が淡く光る。
「呼ばれたら痛い名前を、勝手に呼ばないための約束です」
ねむが隣へ来た。
「本人が嫌だと言ったら、見ない」
ソラも続く。
「名前を書かなくても、場所を空けておく」
レムが宝石の中で言う。
「約束は契約ではないわ。売買の対象ではなく、互いの意思で支えるものよ」
最後に、ヨルが低く言った。
「私が売ってない」
黒い鐘が、小さく鳴る。
ごん。
「勝手に競るな」
その音で、競り台の上の印の影が震えた。
燐灯堂の声が、少しだけ冷える。
「市場では、価値あるものは競られます」
「価値があるから売らないものもある」
ましろが言った。
「それが、売れないものです」
広場の空気が重くなる。
客たちがざわめく。
「売れないもの」
「値段がない」
「値段がないなら、欲しい」
「欲しいなら、高い」
燐灯堂の声が笑った。
「では、価値は証明されました」
競り台の印が、赤く光る。
「値段のつかないものには、もっとも高い値がつく」
ましろは息を呑んだ。
やはり、言葉だけでは止まらない。
ここは満月市。
売れないものほど、高く売れる場所。
その時、悠太から預かってきたスケッチブックの一枚が、ましろの鞄の中で震えた。
今日は悠太を連れてきていない。
危険だから、孤児院で澄と一緒にいる。
呼ばない約束の印を描いたページだけを、預かってきていた。
その紙が、鞄の中からひとりでに滑り出す。
ましろは慌てて受け取った。
紙の上で、悠太の描いた黒い鐘、白い星、赤い糸が光っている。
その中心。
名前を書かない場所。
そこに、新しい線が浮かんだ。
売らない。
たった三文字。
子どもの字。
少し曲がっている。
でも、まっすぐだった。
ましろはその文字を見た。
「売らない」
口に出す。
護符が強く光った。
ねむが言う。
「売れない、じゃなくて」
ソラが続ける。
「売らない」
ヨルの黒い鐘が震える。
レムが小さく笑った。
「能動に変わったわね」
ましろは競り台を見た。
「これは売れないものじゃない」
燐灯堂の声が揺れる。
「何を」
「売らないものです」
その瞬間、競り台の上の印の影に亀裂が入った。
客たちがざわめく。
「売らない」
「売らないものは買えない」
「買えないなら、欲しい」
「でも、買えない」
満月市の空気が乱れる。
燐灯堂の声が鋭くなる。
「商品は市場へ出された時点で、競りの対象でございます」
「出したのは店です」
ましろは言った。
「約束した本人たちじゃない」
ヨルが黒い鐘を掲げる。
「取り下げろ」
ごん。
黒い鐘が鳴る。
ましろの星律の杖も応える。
りん。
二つの鐘の音が、競り台へ走った。
黒い音が値札を砕き、白い音が印の影を護符へ引き戻す。
呼ばない約束の印が、光の糸になってましろの護符へ戻っていく。
燐灯堂の灯りが一斉に揺れた。
「不正入札でございます」
ねむがランタンを掲げる。
「入札してない」
ソラが言う。
「買ってもない」
ヨルが言う。
「売ってもない」
ましろは護符を握った。
「取り戻しただけ」
競り台の上の布が、ばさりと落ちた。
呼ばない約束の印は消えていた。
護符の裏で、黒い鐘、白い星、赤い糸が静かに光っている。
守れた。
一つだけ。
でも、満月市は終わっていない。
燐灯堂の声は、怒っているのか笑っているのか分からない調子で告げた。
「では、次の品へ」
ヨルの顔が強張る。
ましろも分かった。
次は。
白い布がめくられる。
競り台の上に、小さな白木の箱が置かれていた。
蓋には、薄い文字。
ただいま。
未帰還の言葉。
箱の中から、かすかな声が漏れる。
ただいま。
そして。
――ヨル。
ヨルの黒い鐘が、低く震えた。
ましろは隣に立つ。
今度は呼ばない。
でも、離れない。
「未帰還の言葉。一時預かり品」
燐灯堂の声が響く。
「預かり期限、満月まで」
青白い灯りが、箱を照らす。
「買い戻し条件は破棄されましたが、所有権は未確定」
「違う」
ましろが言う。
「保留中です」
「保留は、破るためにある」
燐灯堂の声が甘くなる。
「満月市では、保留品も競りにかけられます」
客たちが一斉に札を上げた。
「帰れなかった声、欲しい」
「誰かにただいまと言われたい」
「疲れた帰宅の声は高い」
「ヨルと呼ぶ声ならもっと高い」
ヨルの顔が青ざめる。
黒い鐘が鳴りかける。
ましろは、ヨルを見た。
呼びたい。
名前を呼んで支えたい。
でも、今は違う。
勝手に呼ばない。
ましろは、ヨルの隣に立ったまま、何も言わなかった。
代わりに、護符を握る。
呼ばない約束の印が温かくなる。
ヨルの肩が、ほんの少しだけ下がった。
「何も言わないんだ」
ヨルが低く言う。
「約束したから」
「こういう時は呼べよ」
「呼んでいい?」
ヨルは黙った。
沈黙。
それは拒絶ではなかった。
許可でもない。
迷いだった。
ましろは待った。
満月市の声が、うるさいほど周りを満たしている。
それでも、待った。
やがて、ヨルが小さく言った。
「……今だけ」
ましろは頷いた。
「ヨル」
黒い鐘が、静かに鳴った。
ごん。
今度の音は、怒りだけではなかった。
踏みとどまるための音だった。
ヨルは白木の箱を見る。
「売らせない」
ましろも言う。
「売らせない」
ねむがランタンを掲げる。
「今度はどうする?」
ソラが箱の周りを見つめる。
「通り道が、昨日より絡まってる」
「店が補強したのね」
レムが言う。
「単純に引き戻すのは難しいわ」
燐灯堂の声が高らかに響く。
「入札開始。対価は、帰る場所ひとつより」
客たちが札を上げる。
「空き家」
「誰も待っていない玄関」
「泣き終わった布団」
「まだ温かいカップ」
ましろは歯を食いしばる。
全部、痛い。
でも、全部が嘘ではない。
誰かが本当に欲しがっている。
ただいまと言える場所。
おかえりと返ってくる場所。
それを求めること自体は、間違っていない。
間違っているのは、それを誰かの痛みから買うことだ。
「欲しい人がいるから、売っていいわけじゃない」
ましろは言った。
燐灯堂の声がすぐに返す。
「では、欲しい人はどうすればよいのでしょう」
ましろは言葉に詰まる。
「帰る場所を失った者に、あなたは何を渡せますか」
燐灯堂の声は優しい。
優しすぎる。
「美しい拒絶は、空腹を満たしません」
客たちの札が揺れる。
欲しい。
欲しい。
欲しい。
帰りたい。
帰りたい。
帰りたい。
満月市の声が、ましろの頭を締めつける。
ソラが苦しそうに言った。
「ましろ、引っ張られてる」
ねむのランタンが光る。
「欲しいって声が多すぎる」
ヨルが黒い鐘を構える。
「だから壊す」
「待って」
「また待つのか」
「全部は壊さない」
ましろは白木の箱を見る。
「でも、競りは止める」
「どうやって」
「欲しい人たちに、違うものを返す」
レムが眉をひそめる。
「ましろ?」
「ただいまは売れない。でも、帰りたいって声は無視しない」
ましろは杖を掲げた。
「満月市にいる人たちも、帰る場所がほしいんだよね」
ヨルが低く言う。
「客に同情するな」
「同情じゃない」
「じゃあ何」
「分ける」
ましろは言った。
「ただいまはヨルのものでも、店のものでも、客のものでもない。でも、帰りたいって願いはここにたくさんある」
星律の杖の宝石が光る。
「その願いだけ、箱から離す」
レムの目が鋭くなる。
「願いと品物を分離するつもり?」
「できる?」
「普通は無理」
「普通は」
「……できる余地はある」
ねむがランタンを高く掲げる。
「願いの夢だけ見る。名前には触らない」
ソラが箱の横へ進む。
「出口を分ける。箱からじゃなくて、客の方から出す」
ヨルは黒い鐘を握る。
「私は?」
ましろはヨルを見る。
「鐘を鳴らして。買う音じゃなくて、目を覚ます音」
ヨルの目が少しだけ揺れる。
「私は、客を救いに来たんじゃない」
「うん」
「店を壊しに来た」
「うん」
「でも」
ヨルは白木の箱を見る。
箱の中から、かすかに声が漏れる。
ただいま。
――ヨル。
ヨルは目を閉じた。
「……目を覚ますだけなら」
黒い鐘が鳴った。
ごん。
満月市の客たちが、一斉に震えた。
ましろは杖を掲げる。
「ルミナス・ベル」
りん。
ねむのランタンが、客たちの足元に青黒い光を落とす。
ソラが、札の顔の奥にある出口を探す。
ヨルの黒鐘が、欲しいという声を叩く。
壊すのではなく、起こす。
白い札の顔の下で、いくつもの影が揺れた。
――帰りたい。
――でも、どこへ。
――ただいまって言いたい。
――誰もいない。
ましろは叫んだ。
「誰かの“ただいま”を買っても、あなたの帰る場所にはならない!」
声が、広場に響いた。
「帰る場所は、買うものじゃない。作るものだよ!」
燐灯堂の灯りが激しく揺れる。
「無責任な」
「そうかもしれない」
ましろは答えた。
「でも、買っても埋まらないものを、売り物にしないで!」
白木の箱が強く光る。
客たちの札が次々と割れ始めた。
顔が現れるわけではない。
ただ、札の下から、白い息のようなものが抜けていく。
欲しいという声が、少しずつ弱まる。
代わりに、別の声が聞こえた。
――帰りたい。
――自分の場所へ。
――まだ分からないけど。
――誰かの声じゃなくて。
――自分の声で。
ましろの鐘とヨルの鐘が、重なる。
りん。
ごん。
白木の箱に巻きついていた値札の赤い糸が、一本ずつほどけていく。
燐灯堂の声が、初めて怒鳴った。
「満月市の商品に手を出すな!」
黒い値札が、空から降った。
ましろたちの周囲に突き刺さる。
そこには、商品名が書かれていた。
久遠ましろ。
棘咲ねむ。
帳ソラ。
黒鐘ヨル。
レム・ステラ。
ましろは息を呑む。
全員に値段をつけるつもりだ。
「売らない!」
ましろが叫ぶ。
ねむがランタンを振る。
「買わせない!」
ソラが席札を胸に押し当てる。
「僕はここ!」
ヨルが黒い鐘を振り下ろす。
「値段をつけるな!」
ごん。
黒い音が値札を砕く。
りん。
白い音が砕けた名前の欠片を拾う。
広場の真ん中で、白木の箱が浮かび上がった。
ただいま。
その文字が、淡く揺れている。
ましろは手を伸ばす。
けれど、箱はましろの手に来なかった。
ヨルの前へ移動した。
ヨルは息を止める。
「私に来るな」
箱は止まらない。
「来るな!」
ヨルの声が震える。
黒い鐘が鳴りかける。
ましろは一歩踏み出した。
「ヨル」
「呼ぶな!」
「今だけって言った」
ヨルはましろを睨む。
「今は終わった」
「まだ終わってない」
白木の箱が、ヨルの胸元の名札へ近づく。
割れた名札に、黒い線が浮かぶ。
ヨル。
その下に。
あ。
もう一文字、浮かびかける。
ましろは見た。
でも、呼ばなかった。
「忘れない」
ましろは言った。
「でも、勝手に呼ばない」
ヨルの目が大きく揺れた。
白木の箱の中から、また声がした。
ただいま。
――ヨル。
そして、今度はもう一つ。
――あ……
声が途切れた。
ヨルが、黒い鐘を抱きしめるように握った。
鳴らせない。
壊せない。
返せない。
満月の光が、広場を白く照らす。
燐灯堂の声が甘く囁く。
「さあ、黒鐘様」
「お支払いを」
「返せない名前を」
白木の箱が開きかける。
ましろは叫んだ。
「開けないで!」
けれど、箱の蓋は、ほんの少しだけ開いた。
中から、白い光が漏れる。
その光の中に、ましろは見た。
赤い屋根の家。
三つのカップ。
小さな靴。
玄関の「おかえり」。
そして、黒髪の少女が、扉の前で立ち尽くしている。
今より少し幼いヨル。
いや。
その頃の名前は、たぶんヨルではない。
少女は、誰かに向かって言おうとしていた。
ただいま。
けれど、言えなかった。
なぜなら。
玄関の向こうには、誰もいなかった。
光景がそこで白く弾けた。
ヨルが叫ぶ。
黒い鐘が鳴った。
ごん。
今までで一番、痛い音だった。
白木の箱が、競り台の上から跳ね上がる。
燐灯堂の声が笑った。
「入札成立間近」
「返せない名前、開封まであと一声」
箱の蓋が、もう一度開こうとする。
その時。
空から、一枚の紙が降ってきた。
悠太のスケッチブックの紙だった。
ここにいるはずのない悠太の字。
大きく、曲がって、必死な文字。
よばないって、やくそくした。
紙は白木の箱の上に落ちた。
蓋が止まる。
ましろは息を呑む。
孤児院で、悠太が描いた印。
呼ばない約束の印。
それが、満月市の真ん中で光っている。
燐灯堂の声が歪んだ。
「未成年者の干渉は規約外でございます」
ねむが低く言う。
「規約外、便利」
ソラが笑う。
「悠太、すごい」
ヨルは紙を見て、動けなくなっていた。
ましろはその隣に立つ。
「今は、開けない」
白木の箱が震える。
「でも、消さない」
護符が光る。
「呼ばない。でも、忘れない」
ヨルの黒い鐘が、小さく鳴った。
ごん。
その音は、同意のようにも聞こえた。
箱の蓋が閉じる。
満月市の空気が、激しく揺れた。
燐灯堂の声が、低く沈む。
「本日の競りは、中止といたします」
広場の客たちがざわめく。
「中止?」
「まだ買っていない」
「欲しかった」
「帰りたかった」
燐灯堂は続けた。
「ただし、出品は取り下げられません」
白木の箱の上に、赤い糸が巻きつく。
呼ばない約束の印の紙にも、赤い糸が触れる。
「次回、満月が天頂に届く時刻にて再競り」
「保留品、未帰還の言葉、黒鐘ヨルの返せない名前」
声が、ましろたちを包む。
「すべてまとめて、本出品といたします」
ヨルが黒い鐘を構える。
「ふざけるな」
「ふざけてなどおりません」
燐灯堂の声は冷たかった。
「これは商売でございます」
広場が崩れ始めた。
屋台が白い札へ戻る。
客たちが燐の灯りへ溶ける。
競り台が遠ざかる。
ましろは白木の箱へ手を伸ばした。
届かない。
ヨルも走った。
けれど、箱は赤い糸に引かれて、燐灯堂の奥へ吸い込まれていく。
最後に、箱の隙間から声が漏れた。
ただいま。
そして、今度は。
――ごめんね。
ヨルの足が止まった。
黒い鐘が、音もなく震えた。
満月市が消える。
気づくと、ましろたちは夜の路地に立っていた。
白い看板の空き店舗。
閉じた戸。
二階の窓には、青白い燐の灯りがひとつ。
その灯りの中に、文字が浮かぶ。
満月が天頂に届くまで、あと一刻。
ねむが息を呑む。
「まだ、今夜終わってない」
ソラの席札が淡く震えている。
「店が、もう一回開く」
レムが低く言った。
「次が本番ね」
ヨルは、空き店舗を見ていた。
顔は青ざめている。
けれど、倒れなかった。
ましろは隣に立つ。
「ヨル」
今度は、ヨルは怒らなかった。
「泣いても立ってろって言ったよね」
ヨルの目が少しだけ動く。
「今、それを私に言う?」
「うん」
ヨルは、少しだけ笑った。
ひどく疲れた、泣きそうな笑いだった。
「最悪」
「ごめん」
「謝るな」
「うん」
ヨルは黒い鐘を握り直した。
「行く」
「うん」
「次は、壊すだけじゃ足りない」
「うん」
「でも、壊すものはある」
ましろは頷いた。
「分かってる」
夜空の満月は、真上に近づいている。
名前を売る街で、呼ばない約束はまだ破られていない。
けれど、返せない名前は、燐灯堂の奥で再び競り台に上げられようとしていた。
満月が天頂に届くまで、あと一刻。
ましろは杖を握る。
ヨルは黒鐘を握る。
二つの鐘は、まだ別々の音をしている。
けれど今夜、その音を重ねなければならない。
売らせないために。
呼ばないために。
そして、まだ言えない「ただいま」を、誰のものにもさせないために。




