第21話 呼ばない約束
翌朝、星の護符は眠っていなかった。
ましろは食堂の窓際で、それを両手に乗せていた。
小さな木片の護符。
ましろたちが孤児院を出る時、星守澄が持たせてくれたもの。
表には小さな星。
裏には、最初に書かれていた三つの名前。
久遠ましろ。
棘咲ねむ。
帳ソラ。
そして、その下に昨夜から増えた文字がある。
ただいまは、ここにあった。
その文字の周りを、黒に近い赤い線が囲んでいた。
ヨルが貸した怒りの形。
売られなかった怒り。
手放されなかった怒り。
その線は、まるで細い傷跡みたいに護符の表面へ沈んでいる。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
痛そうではある。
でも、汚れているわけではない。
誰かが、絶対に忘れないように爪を立てた跡に見えた。
「まだ残ってる?」
ねむが隣から覗き込む。
朝食のパンを片手に持ち、もう片方の手で目元をこすっている。
相変わらず眠そうだった。
けれど、目だけは昨夜の燐灯堂を見た後のまま、妙に冴えている。
「うん」
ましろは頷いた。
「でも、少しだけ薄い」
「店が引っ張ってる」
「分かるの?」
「分かるというより、夢見が悪い」
「夢見?」
「寝てないのに、寝てる時みたいな嫌な映像が来る」
ねむは少しだけ顔をしかめた。
「白木の箱。黒い鐘。値札。あと、ヨルの名札に浮かんだ一文字」
ましろの指が止まる。
あ。
昨夜、燐灯堂を出た後。
ヨルの割れた名札に、一瞬だけ浮かんだ文字。
ヨル。
その下に、もうひとつ。
たった一文字。
あ。
ましろは、それを忘れないと言った。
でも、勝手に呼ばないとも言った。
その約束が、今も胸の奥にある。
「呼んじゃだめなんだよね」
ましろが呟くと、ねむはパンをかじりながら頷いた。
「今は、たぶん」
「忘れないのに、呼ばないって難しい」
「難しいから約束になる」
ねむはさらっと言った。
ましろは彼女を見る。
「今、すごくまともなこと言ったね」
「だいたいまとも」
「だいたい?」
「細部は保証しない」
窓際の席では、ソラが自分の席札を見ていた。
ソラの席。
帳ソラ。
また明日。
何度も書き直された文字は、今朝もそこにある。
けれど、昨夜より少しだけ淡い。
星見坂の街へ出るようになってから、ソラの輪郭は揺れやすくなっていた。
名前が薄い街では、ソラの薄さが紛れてしまう。
それは便利なことではない。
危険なことだ。
「ソラ」
ましろが呼ぶと、ソラは顔を上げた。
「いるよ」
返事が返ってくる。
それだけで、ましろは少し安心した。
ソラは護符を見て、小さく言った。
「それ、呼ばないための席みたいだね」
「席?」
「うん。名前を書かないけど、空けておく場所」
ましろは護符を見下ろした。
呼ばないための席。
それは、ソラの席と少し似ているのかもしれない。
誰かがそこにいると、直接言い切れない時。
忘れないために、場所だけを残す。
「名前を書かないと、忘れちゃわないかな」
ましろが言うと、ソラは少し考えた。
「書くと、店に見つかる」
「うん」
「呼ぶと、ヨルが痛い」
「うん」
「でも、場所がないと消える」
ソラは自分の席札を指でなぞった。
「じゃあ、名前じゃない目印がいる」
「目印……」
その時、孤児院の門の鐘が鳴った。
ちりん。
いや。
少し違う。
ちりん、の奥に、低い音が混じっていた。
ごん。
ましろたちは同時に顔を上げた。
星守澄が食堂の奥から出てくる。
彼女も同じ音を聞いたらしい。
「門に誰かいますね」
「まさか」
ねむが言う。
「朝から?」
ましろは椅子から立ち上がった。
胸元の護符が熱くなる。
門へ向かうと、そこに黒鐘ヨルが立っていた。
黒い服。
錆びた銀の飾り。
赤い紐。
肩には、黒い鐘のついた杖。
朝の光の中にいるのに、彼女の周りだけ夜の縁が残っている。
ヨルは門の外に立ったまま、不機嫌そうにましろを見た。
「返せ」
「何を?」
「私の怒りの型」
ましろは護符を押さえる。
「これ、まだ必要なんじゃ」
「必要なのは分かってる」
「じゃあ」
「こっちにあると気持ち悪い」
ヨルは顔をしかめた。
「胸の奥がずっと誰かの家に引っかかってるみたいで、眠れない」
「眠れなかったの?」
「寝る気がなかった」
ねむが後ろから低く言う。
「寝る気がない人間の目じゃない。寝られなかった目」
ヨルはねむを睨む。
「夢見は黙ってろ」
「図星」
「嫌い」
「私も」
ましろは思わず二人を見比べた。
この二人は、たぶん相性が悪い。
でも、悪い方向で噛み合っている。
レムが杖の宝石の中から言った。
「ヨル。門を越えるなら名前を言いなさい」
ヨルは宝石を見る。
「飾りが命令するな」
「レム・ステラよ」
「知ってる」
「なら飾りではないと学習しなさい」
ヨルは面倒くさそうに息を吐いた。
それから、門の前で少しだけ黙る。
ましろには分かった。
言いたくないのだ。
門を越えるために名前を言う。
それは、孤児院の結界に自分の名前を預けるということ。
ヨルにとっては、簡単なことではない。
ましろは言った。
「無理に入らなくてもいいよ」
ヨルの目が動いた。
「入れって言ったり、入るなって言ったり、どっち」
「どっちでもいい。ヨルが決めて」
「決めろって言われるのが一番面倒」
「じゃあ、待つ」
ヨルはしばらくましろを見ていた。
それから、吐き捨てるように言った。
「黒鐘ヨル」
門の鐘が鳴った。
ちりん。
その下で、黒い鐘の余韻が小さく重なる。
ごん。
二つの鐘の音はぶつからなかった。
少しだけ離れて、同じ朝の中に残った。
ヨルは眉をひそめる。
「変な門」
「たぶん、歓迎してる」
「今の音で?」
「ヨル仕様かも」
「いらない」
そう言いながら、ヨルは門を越えた。
その瞬間、彼女の首元の割れた名札に、ほんの一瞬だけ文字が浮かんだ。
ヨル。
それから、その下にもう一度。
あ。
ましろは見た。
けれど、呼ばなかった。
ヨルも気づいたらしい。
名札を手で押さえる。
「見るな」
「見てない」
「嘘」
「少し見た」
「最悪」
「でも、呼ばない」
ヨルの目が、ほんの少しだけ揺れた。
ましろは続ける。
「忘れない。でも、勝手に呼ばない」
沈黙が落ちる。
朝の風が門の小さな鐘を揺らした。
ちりん、と鳴る。
ヨルは目を逸らした。
「……それなら、まだまし」
食堂へ戻ると、悠太がヨルを見て目を丸くした。
「黒いお姉ちゃん!」
ヨルの足が止まる。
「誰のこと」
「ヨルお姉ちゃん?」
「違う」
「黒い鐘のお姉ちゃん?」
「長い」
「じゃあ、黒い人?」
「悪化してる」
ねむがパンを持ったまま言う。
「悠太、相手を怒らせる才能がある」
「えっ」
悠太は少し慌てた。
「怒った?」
ヨルは答えなかった。
黒い鐘の杖を肩に担ぎ直し、そっぽを向く。
けれど、ましろには分かった。
怒っているというより、困っている。
子どもにどう接していいか分からない顔だった。
悠太はスケッチブックを開いた。
「じゃあ、名前じゃなくて、しるし描く」
「しるし?」
「うん。呼んじゃだめな名前のしるし」
ヨルが振り向いた。
ましろも、ねむも、ソラも、澄も、レムも、同時に悠太を見る。
悠太はもう鉛筆を動かしていた。
小さな黒い鐘。
その周りに、白い星。
さらに外側に、赤い糸。
でも、真ん中には何も書かれていない。
名前はない。
空白ではなく、空けてある場所。
悠太はその絵を見せた。
「ここ、名前を書くところじゃないよ」
ましろはしゃがみ込む。
「じゃあ、何の場所?」
「書かないって決めた場所」
悠太は真剣な顔で言った。
「でも、忘れない場所」
その言葉に、ましろの胸が震えた。
書かないって決めた場所。
でも、忘れない場所。
それは、ヨルの「あ」を守るために必要なものかもしれない。
名前を書けば、店に見つかる。
呼べば、ヨルが痛い。
でも、何も残さなければ消える。
なら、名前ではない印を置く。
呼ばない約束を、形にする。
星守澄が静かに近づいてきた。
悠太のスケッチブックを見て、少しだけ目を細める。
「伏せ名の印に近いですね」
「伏せ名?」
ましろが聞く。
澄は頷いた。
「昔、星見坂では、すぐには呼べない名前を守るために、名前ではない印を置くことがありました」
「呼べない名前?」
「呼ぶと危ない名。呼ばれると傷が開く名。けれど、忘れてはいけない名」
澄はヨルを見た。
「伏せることと、捨てることは違います」
ヨルは何も言わなかった。
けれど、その言葉を聞いていた。
レムが小さく言う。
「古い方法ね。けれど、今の状況には合っている」
「使える?」
ましろが聞く。
「店に名前を渡さず、忘却にも落とさないための仮の器にはなる」
「仮ばっかり」
ねむが言う。
「でも、仮でつなぐしかない時もあるわ」
レムの声は少しだけ優しかった。
「完璧な保存を待っている間に、失われるものもある」
ヨルが低く言った。
「一時しのぎ」
「ええ」
レムはすぐに認めた。
「でも、一時しのぎが命を繋ぐこともある」
その言葉は、ヨルに向けられていた。
ヨルは少しだけ顔を背ける。
「昨日も聞いた」
「重要なことは二回言うのでしょう」
ねむがぼそりと呟く。
「そこはヨルの真似しなくていい」
ましろは星の護符を机に置いた。
その隣に、悠太の描いた印を置く。
黒い鐘。
白い星。
赤い糸。
名前のない中心。
「これを、護符に移せる?」
ましろが聞くと、レムは少し考えた。
「ましろの光だけでは白すぎる。ヨルの黒鐘だけでは重すぎる。ねむのランタンで境界を作って、ソラの席札で場所を固定する。悠太の印を核にすれば、形にはなる」
「普通は?」
「普通ならしない」
「普通ならできないじゃなくて?」
「今回は、しない方」
ましろは少し緊張した。
「危ない?」
「危ないわ。名前を書かないまま覚えるというのは、刃物を鞘なしで預かるようなものよ」
ヨルが言う。
「やめれば」
ましろはヨルを見る。
「ヨルが嫌なら、やめる」
ヨルは口を閉じた。
その顔に、怒りではない迷いが浮かんでいる。
やがて、彼女は小さく言った。
「嫌じゃない」
ましろは頷く。
「じゃあ、やる」
「早い」
「嫌じゃないって言ったから」
「嫌じゃないと、いいは違う」
「でも、だめじゃない」
ヨルは疲れたように息を吐いた。
「白い鐘は、本当に面倒」
「それも、もう聞いた」
ねむが言う。
「重要なことだから何回も言う」
ヨルが返す。
「便利に使ってる」
「うるさい」
準備は食堂の長いテーブルで行われた。
子どもたちは澄に言われて、離れた席から見守っている。
けれど、悠太だけは記録係として隣にいた。
本人は胸を張っている。
「重要任務」
「そうね」
澄が微笑む。
「今日は特に」
ましろは星の護符に手を添えた。
ねむは夢見のランタンを置く。
青黒い光が、護符の周りに小さな輪を作った。
ソラは自分の席札を取り出す。
少し迷ってから、護符の隣に置いた。
「場所、貸すね」
席札の文字が淡く光る。
ヨルは黒い鐘の杖を机に立てかけた。
黒い鐘は黙っている。
でも、その沈黙にも音があった。
怒りを押し殺したような、低い震え。
「ヨル」
ましろが呼ぶ。
ヨルは顔を上げる。
「何」
「怒りの型、少しだけ借りる」
「もう貸してる」
「うん。でも、今度は名前を守るために」
「私のじゃない」
「ヨルに関係する名前だよ」
「それが嫌なんだよ」
ヨルの声が少しだけ荒くなる。
食堂の空気が止まりかけた。
けれど、ましろは逃げなかった。
「嫌ならやめる」
また同じ言葉を言う。
ヨルは、しばらく黙っていた。
その沈黙の中で、黒い鐘が小さく震えた。
ごん、とも鳴らないほどの、音になる前の音。
「……やれ」
ヨルは言った。
「ただし」
「ただし?」
「勝手に完成させるな」
ましろは頷いた。
「分かった」
レムが宝石の中で言う。
「では、始めるわ。ましろ、護符に光を。ねむ、境界。ソラ、場所。悠太、印を見失わないで。ヨル、鳴らさずに怒りを保って」
「難しい注文ばっかり」
ヨルが言う。
「簡単なことなら頼まないわ」
「嫌な信用」
ねむが小さく笑う。
「それ、私も言ったことある」
「一緒にするな」
「やっぱり似てる」
「似てない」
二人の声が重なった。
ソラが少しだけ笑った。
その笑いで、護符の光が少し安定した。
ましろは息を吸う。
「ルミナス・ベル」
りん、と小さな鐘が鳴る。
今度は強く鳴らさない。
名前を返すためでも、浄化するためでもない。
呼ばない約束を置くための、静かな鐘。
ねむのランタンから、青黒い光が広がる。
それは夢と現実の境界をなぞる。
ソラの席札から、淡い灰色の光が伸びる。
それは、誰も座っていない席を保つ光に似ていた。
悠太の描いた印が、護符の上へゆっくり移っていく。
黒い鐘。
白い星。
赤い糸。
名前を書かない中心。
最後に、ヨルの黒い鐘が、鳴らないまま黒い光を落とした。
音ではない。
怒りの形。
それが護符の縁を細く囲む。
ましろの胸元の宝石が温かくなる。
護符の裏にあった文字が、淡く光る。
ただいまは、ここにあった。
その下に、新しい文字が浮かびかけた。
ましろは息を止める。
文字になってしまう。
名前ではなくても、店に見つかるかもしれない。
「書かない」
ヨルが低く言った。
ましろは頷いた。
「うん」
「でも、消すな」
ねむが続けた。
「うん」
ソラが席札に手を添える。
「場所はある」
悠太がスケッチブックを抱える。
「しるしもある」
レムが言う。
「なら、文字にしなくていい」
光が揺れた。
文字になりかけていた線が、文字ではない形へ変わっていく。
黒い鐘。
白い星。
赤い糸。
名前のない中心。
それは護符の裏に、小さな印として沈んだ。
ましろは、ようやく息を吐いた。
「できた?」
レムが慎重に見つめる。
「仮に」
「仮」
「そう。呼ばない約束の印。名前ではない。けれど、忘却に落とさないための目印」
ヨルは護符を見た。
ましろには、彼女が少しだけ震えているように見えた。
「気持ち悪い?」
ましろが聞く。
ヨルは少しだけ黙る。
「まだ、誰かの家に引っかかってる感じはする」
「うん」
「でも」
「でも?」
「さっきより、勝手に引っ張られてない」
それは、ヨルなりの肯定だった。
ましろは少しだけ笑った。
「よかった」
「よくはない」
「でも、少しは?」
「少し」
ヨルは不本意そうに言った。
「少しだけ、まし」
その時、護符の表面に黒い線が走った。
ましろは息を呑む。
店の気配。
燐灯堂の匂いが、食堂にほんの一瞬だけ入り込む。
古い紙。
灯油。
冷めたお茶。
焦げた砂糖。
子どもたちがざわめいた。
澄がすぐに結界の護符を掲げる。
けれど、燐灯堂は攻撃してきたわけではなかった。
護符の上に、小さな値札が一枚落ちた。
白い紙。
赤い糸。
そこには、細い文字が浮かんでいる。
査定不能。
ましろは、それを読んだ。
次の行。
値段をつけられないものは、競りにかけます。
ヨルの顔が変わった。
「満月市」
「満月市?」
ましろが聞く。
ヨルは値札を睨んでいる。
「燐灯堂が年に何度か開く。買い戻されなかった名前、値段のつかなかった呼び名、売れないはずのものを、まとめて競りに出す」
「売れないものを?」
ねむの声が低くなる。
「売れないから、高く売れる」
ヨルが吐き捨てるように言った。
「そういう場所だ」
レムの表情が険しくなる。
「悪趣味にも限度があるわ」
値札の文字がさらに浮かぶ。
出品予定。
呼ばない約束の印。
未帰還の言葉。
黒鐘ヨルの返せない名前。
満月まで、あと一夜。
食堂の空気が凍った。
満月まで、あと一夜。
保留したはずのもの。
眠らせたはずのもの。
呼ばないと約束したもの。
そのすべてが、満月市へ出される。
ましろは杖を握った。
ヨルは黒い鐘を握った。
ねむのランタンが暗く燃える。
ソラの席札が淡く震える。
悠太のスケッチブックが、ひとりでに開いた。
ページには、夜の市場が描かれていた。
空には満月。
路地には青白い燐の灯り。
顔のない客たち。
吊るされた名札。
並べられた小箱。
黒い鐘の影。
そして、中央の台に置かれた白い札。
その札には何も書かれていない。
けれど、周りには赤い糸が巻かれていた。
悠太が震える声で言う。
「これ、売られちゃうの?」
誰もすぐには答えられなかった。
ヨルが低く言う。
「売らせない」
その声は怒っていた。
けれど、今度の怒りはひとりで燃えていなかった。
ましろは隣に立った。
「うん」
ヨルが横目で見る。
「簡単に言うな」
「簡単じゃないよ」
「じゃあ言うな」
「でも、言わないと始まらない」
ヨルは一瞬、何か言い返そうとした。
けれど、やめた。
代わりに、黒い鐘を肩に担ぎ直す。
「明日の夜、満月市に行く」
「場所は分かるの?」
「店が呼ぶ」
「嫌な招待」
ねむが言う。
「招待じゃない」
ヨルは値札を見た。
「挑発だ」
ましろは護符を胸元にしまった。
ただいまは、ここにあった。
呼ばない約束の印。
怒りの型。
売れないはずのもの。
それらが胸の中で、静かに重くなる。
売らせない。
でも、壊すだけでも足りない。
返すだけでも足りない。
呼ばないと決めたものを、どう守るのか。
ましろは、まだ答えを持っていなかった。
それでも、門の鐘が外で小さく鳴った気がした。
ちりん。
帰ってきてほしいと願う音。
ましろは、顔を上げた。
「行こう」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
でも、今度はヨルが答えた。
「逃げるなよ」
「逃げない」
「泣くなよ」
「それは、たぶん無理」
ヨルは少しだけ目を細めた。
怒っているのか、呆れているのか。
それとも、ほんの少しだけ笑いそうだったのか。
分からなかった。
「じゃあ、泣いても立ってろ」
ましろは頷いた。
「うん」
値札が燃えるように消えた。
食堂に朝の光が戻る。
けれど、その光は少しだけ冷たかった。
満月まで、あと一夜。
名前を売る街で、売れないはずのものが、競りにかけられようとしていた。




