117イレイナとネスト
光が、イレイナを包み込んだ。
ネストは、その光景を呆然と見つめていた。
イレイナが、神になる。
エルフィードに謀られたとか、おかしなものがイレイナに乗り移ったとかいうことよりも、その一点だけに、ネストの心は囚われていた。
それは、すでに知っていることだった。
イレイナは神と呼ばれる者たちの頂に足をかけたのだと、そう、神を自称する精霊エルフィードが話していたのだから。
信じたくはなくて、けれど、信じる根拠があった。イレイナのバカげた力が信仰のおかげだというのであれば、そんなものかと思った。
安堵もしていた。どれだけ努力してもイレイナに並べない自分が、努力不足ではなかったのだと。
同時に、絶望もした。
自分は、どれだけもがいたところで、イレイナには並べないのだと。
そうして今も、イレイナは遠くへ行こうとしている。
エルフィードの願いによって、世界のために、イレイナは神に変わろうとしている。
「これで、いいのですか?」
ぽつり、と。つぶやかれた声が、ネストの金縛りを解く。
振り向いた先、ベルコットがじっと、ネストを見上げていた。
うるんだ瞳は、強い熱を帯びてネストに語る。本当に、これでいいのか。
「僕は……」
これで、いいと思う。
言葉は、喉に引っかかって出てこない。それ以上何を言うこともできず、ネストはうつむき、ただ、何かをこらえるように強くこぶしを握る。
その手を、ぬくもりが包み込む。
はっと顔を上げれば、泣きそうな、けれど気丈に笑うベルコットの顔がある。
「何を迷っているんですか、ネストさん?」
「僕は、何を迷っているんだろう?」
「そうじゃありません。何を、迷う必要があるんですか?」
ベルコットの言葉が、ネストの心にしみこむ。
何を、迷う必要があるのか。迷って、どうなるというのか。
強いまなざしが訴える。ここで逃げるなんて許さないと、ネストの心に燃料を注ぐ。
「イレイナと、一緒にいたいのでしょう?だから、私の想いを、受け入れられないのでしょう?なら、行ってくださいよ。伝えてあげてくださいよ。一緒にいたいって、並んで、生きていたいって。そう、……言って、上げて……」
言葉に、嗚咽が混じる。
恋敵のもとへ、届かない場所へ、ネストを歩ませようとしている。悲鳴を上げる心が、涙をこぼす。
その、透明なしずくを見て。
ネストの背筋に、しびれるような感覚が走る。
「そう、だ。行かないと」
どれほど、後悔したか。
レオニードと袂を分かって、イレイナと離れ離れになって、何度、眠れぬ夜を過ごしたか。
イレイナがレオニードに抱かれているところを想像して、心に無数の針を刺されたような気持になって、逃避するために丸一晩を鍛錬に費やして汗を流した。一人、嘲られるイレイナを思い、一緒にパーティを出ていればと、どれほど悔やんだことか。
そうして、今も、同じことを繰り返すのか。
違う、と心が叫ぶ。
もう、同じ過ちはごめんだと。
もう、あの日と同じ失敗はしないと。
一歩、ネストは前に進む。
「……行かせません」
その、先に。
ドライアドのエアリーが立ちはだかる。精霊に準ずる存在。神のごとき力を扱う、明らかな格上。
彼女を前に、けれどネストは、記憶ことなく歩き続ける。
いぶかしむエアリーは、次の瞬間、目を見開いて驚きをあらわにする。
ネストの体から、淡い光が漏れていた。赤い光が、きらめいていた。
それは淡い輝きで、けれど、その光量の何十倍もエネルギーを秘めていた。
「どうして、貴方が……」
エアリー同様、神への移行を進めるエルフィードも、驚愕を露わにして推移を見つめていた。
何しろその光は、そのエネルギーは、エルフィードがよく知るものだから。体になじんだものだから。
「……信仰力」
呆然としたつぶやきを聞き取り、ネストは薄く笑う。
信仰がもたらすエネルギー。それは、神が神であるための必要十分条件。そして、イレイナが手にし、今もイレイナを包み込んでいるエネルギーの正体。
それは、ネストには遠いものだった。凡人でしかないネストには、届かない――そう、思い込んでいたものだった。
けれど、あったのだ。ネストもかつて、信仰を力に変えて、解き放った。
魔王との死闘で使った奥の手。剣聖キグナスより教わった、奥義。
あの時ネストは、竜滅剣が蓄えた信仰の力を純粋なエネルギーに変えた。暴走させ、剣が積み上げてきたすべての物語を、畏敬を、信仰を、物質としての存在を、叩きつけた。
あれが、信仰の力なのだとすれば。
同じことをすればいいのだと、ネストは薄らと笑う。
「……馬鹿が、そんなことをすればただでは――」
「わかっていますよ」
毒づくエルフィードに微笑み、ネストはその手に光を集め、剣の形に変える。
「魔王殺しのパーティの一員。僕への信仰をもって、物質を作り出す――その手順を踏めば、僕自身が暴走して消滅することはない」
告げるネストの手には、煌々と輝く、炎のような剣がある。失われた竜滅剣、それは今、ネストの信仰をささげられて、再びこの世に姿を現して。
そして、その刃の輪郭はすぐにぼやけ、一本の光の剣に戻る。
「僕はもう、止まらない。だから、僕を止めようとするのなら、力づくで押し通ります」
額に汗をにじませながら、エアリーが魔法を発動する。
無数の樹木が、蔦が、一斉に伸び、ネストを拘束しようと迫って。
「――オーバードライブッ」
瞬間、血濡れた赤の光が、世界を蹂躙した。
「イレイナッ」
そうして、ネストは手を伸ばす。
あたたかな光の先、一人で進もうとする女性を、引き戻す。
抵抗はなく、そして。
ゆっくりと光を消えた先、何も変わった様子のないイレイナが現れる。
うつむきがちな顔は、ネストからは表情がうかがえなくて。
ただ、視界の端で、エルフィードが安堵の息を漏らしているのが見えた。
まさか、間に合わなかったのか――半ば絶望しながら、ネストはイレイナを待つ。その手のぬくもりを感じながら。
ゆっくりと、イレイナが顔を上げる。長いまつげが開き、その奥から、空色の瞳が現れる。
一度、目をしばたたかせ。
それから、イレイナはふわりとほほ笑んで。
「無事に神になったわ」
そう、報告した。
「……えぇ?」
膝から崩れ落ちそうになる中、ネストに言えたのはそれだけだった。




