116思いの源
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自分という人間が、変えられていく――そんな感覚が、イレイナの中でうごめいていた。
まるで粘土をこねるように、自分という存在の在り方が変わっていく。人のそれから、神のそれへ。
その外圧は、ただ一人の人間にはどうしようもない。怒涛の如くあふれ、渦巻くそれが、おそらくは信仰の力なのだと、ぼんやりと考えながらイレイナはなすが儘に漂う。
ふと、こねる力が、自分の心の奥に触れる。
そこで、イレイナはまどろみの中から目を覚ます。
「私は……」
私は、何者なのだろう。
ふと浮かんだ問いに、イレイナは首をひねる。まるでその自問自答が一つの関門であるように、イレイナの変化は止まっていた。
己は、何者か。自分とは、何か。
問いに、発問に、イレイナは答えられない。どれだけ思考をこねくり回しても、そのような哲学的回答が得られるとは思えなくて。
だからイレイナは、記憶の海へと沈んだ。
思い出の中に浸ることにした。
背中から、海に溺れる。水中にもぐる。
口から吐き出した泡沫が、水面に向かって上がっていく。上へ向かうほどに大きくなる気泡のひとつ一つに、思い出が映っていた。
故郷の村、ネストとレオニードとともに走り回っていた。
旅に出て、ダンジョンで一人、戦うレオニードたちをぼんやりと眺めていた。
師匠である先代勇者にしごかれ、ひいひい言いながらネストたちと一緒にナイフの形をした木片をふるった。
旅の始まり、疲れ果て、ネストとともに草原に転がり、満天の星空を見上げた。
ネストが去り、イレイナもまた、一人冒険者パーティを離れ、足取り重く街道を進んだ。
思えば、あの日が唯一の孤独だったと、イレイナは心の中でつぶやく。
常に、自分の隣にはネストがいた。レオニードがいた。家族がいた。ベルコットがいた。ガウルがいた。
だから、だから――
「ああ、そうか」
だから、自分は、どこまでだって歩いて来られた。
一緒に歩いてくれる人がいるから、未知に足がすくむことがなくて、立ち止まらなかった。
けれど今、イレイナは、こうして歩みを止めている。変化を拒んでいる。それは、大切な人たちが、隣にいないから。
そうして、イレイナは気づいた。
自分は、孤独が嫌いなのだと。だから、勇者パーティで虐げられるように扱われても、出ていく気にならなかったのだと。
じゃあ、どうして――
また一つ、イレイナの口から気泡が漏れる。思い出が零れ落ち、信仰という渦へと飲まれようとする。
家族三人、テーブルを囲んで、あたたかなスープを食べた――
これだと、イレイナは手を伸ばす。
大きくなり、遠ざかっていく気泡に、記憶に、手のひらを伸ばす。
料理は、団らんの証だった。つながりの証だった。同じ食卓を囲む、それが、心をつないだ。孤独から解放した。
気泡を、つかむ。その手をすり抜け、千々に散らばった気泡のひとつひとつが、忘れていた記憶を流す。
ネストとレオニードと三人、村で果樹園を営む男性の畑に盗み入り、ばれて叱責され、次からは働けと言われてもらった果実を三人で食べたこと。
初めて魔物の盗伐に成功した日、その魔物を解体して、命に感謝して、仲間でその命を糧としたこと。
その記憶には、確かな笑みがあった。
イレイナも、レオニードも、ネストも、両親も、ヒストリカも、アーリシアも、ティルメニアも。
誰もが、笑っていた。幸せそうに、楽しそうに、笑っていた。
料理は、家族の証。つながりの証。絆の証。
だから、まともな料理のひとつも作れない自分が嫌いで、「料理の一つもできない」という言葉を引き金に、勇者パーティと別れる決断ができた。一人になることを受け入れられた。
その日から、イレイナは変わった。
料理という人とのつながりを求めて動き出し、それがいつしか、かつてのつながりを取り戻し、新たな友好の懸け橋となり、精霊とつながり、気づけば魔法を討伐し、世界のために動くようになっていた。
料理が、自分をつないだ。料理が、ここまで導いてくれた。
ならば、私は――
消えていこうとする気泡に、手を伸ばす。今度はもう、つかまない。ただ、意思を持って、イメージをもって、その気泡を、濁流によって引き戻す。信仰の力によって、己へと取り込む。
水面へと、イレイナの外へと浮上していっていた気泡が、動きを止める。やがて、上方から押し寄せる濁流によって分裂しながら、イレイナへと引き戻される。
その手の中に、吸い込まれる――
「……ふふ」
伸ばした手に、ぬくもりを感じた。
それは記憶を取り戻したからで、そして、誰かが、自分を求めて呼んでいたから。
誰かが、自分の手を握っていたから。
そのぬくもりがあったから、イレイナという人間が、立ち止まらなかった。
だから、私は――
「今行くわ、ネスト」
そうして、イレイナはきらめく水面に向かって泳ぎだす。濁流を操りながら、水面へと手を伸ばす。
その先で、自分を待つ人のために――




