112信仰の真価と
ガウルが去った森の――森だった大地の入口。そこに立つリエルリルルは、荷物から取り出した種を手に取り、それを額に当てて祈りを込める。
しばらくしてカッと目を見開いた彼女は、それを空高くへと放る。青空の下、きらきらと舞う種はひっくり返されたような状態になっている大地へと散らばり、そして。
「――恵みを」
紡がれる祈りに合わせて、ひょこ、と黒い大地に新芽が現れる。
「――糧を」
双葉は伸び、根を張り、葉が増える。
「自然の息吹よ」
歌うような言葉に誘われて、植物が躍る。風に揺れるように、左右に、ゆうらり、ゆらりと。
そのたびにさらに大きく、雄々しく、太く、木々は成長を続ける。
「どうかこの土地に今一度命の輝きを!」
そうして、そこには木漏れ日豊かな森が出来上がった。
鈴なりに果実をつけたいくつもの木々からその実りが落ち、大地に沈む。それが芽吹き、木々のいくつかは枯れて次の命の糧となる。
高速で循環を始めた土地はどこからか飛んできたのか草が茂り、陽樹から陰樹へと後退し、つい先ほどまで木々が一本も生えていなかったとは思えないほどの緑を取り戻した。
「……は?」
この場で最も現実を生きている自覚のあったベルコットは、そんな呆けた声を漏らしながら自分の頬をつねる。その痛みが、今目の前に見えるものが現実のものだと伝えてくる。
「え、待って。えぇ?」
「わかるよ。本当に夢を見ている気分だ」
ベルコットのように痛みで現実かどうかを確かめることはしていないものの、ネストもまた己の目を疑っていた。
一瞬にして大地が緑を取り戻した。それは、あるいは神の御業とも思える光景。
ただ立ち尽くす二人とは違って、おもむろにリエルリルルへと歩み寄ったイレイナはその肩をガッとつかむ。
リエルリルルの体が傾ぎ、その体をひょいと抱き上げてイレイナは木陰まで彼女を運ぶ。
「……イレイナ?」
何をしているのかという困惑を含んだ問い。それに答えるのはイレイナではなく、リエルリルルの疲労困憊の姿だった。
「まさか今のって魔法か何か?」
「いえ、魔法ではなく秘儀……あるいは神技とでも呼べばいいのでしょうか。私は使徒ですから」
使徒――それは精霊や神の力を借り受けて行使する者。そう、リエルリルルはどこか誇らしげに告げる。
駆け寄ってリエルリルルの診察をしていたベルコットは、愕然とした顔で彼女の顔を見る。
「……この神技というのは、よく使うのですか?」
「いえ、一年に数度あるかどうかといったところですね。最近は少し連続で使っていますが――」
「しばらくは絶対に使わないでください。いえ、できることならもう二度と使わないでください」
どこか鬼気迫る様子で告げるベルコット。リエルリルルはそれはできないと強く首を振るが、ベルコットは引かない。
「それほど危険なものなの?」
「危険なんてものじゃないです。むしろ、これまでこうして無事でいられたのが奇跡と呼べるほどです」
震える声でベルコットは今のリエルリルルの状態を告げる。痛覚を含めた触覚、あるいは神経の全体的な麻痺、おそらくは味覚や嗅覚もやられていて、ほかの五感もどれだけ機能しているか怪しい。体全体がまるで爆発寸前とでもいうように悲鳴を上げている状態だった。
「神や精霊の力を借りて、ただの人類が放つなんて無茶苦茶なんですよ。ネストさんだって今目の前で起きた光景を見ていましたよね!?」
人の身に余る力――まさしくその表現がふさわしい力。
そんなものを使って五体満足でいられるほうが奇跡だとベルコットは叫ぶ。
思わずネストがイレイナを見たのは仕方のないこと。急激に力を獲得し、神の領域に足をかけたなどと言われる彼女が大丈夫なのか。襲い掛かる不安にどうにかなってしまいそうだった。
ネストの気持ちを知ってか知らずか、イレイナはじっとリエルリルルを見下ろす。ぴこぴこと揺れる灰色の耳を、苦悶にゆがみながらも決して心変わりなどしないと訴える瞳を。
せき込むリエルリルルが吐き出した痰には血が混じっていて、ベルコットは声にならない悲鳴を上げる。
会って間もない人をそれだけ心配できる――ベルコットのやさしさに、リエルリルルは少し眉を下げて笑う。
「やっぱり、魔女だから悪だなんて図式はあてになりませんよね」
「……いきなりどうしたんですか?」
幹を支えにして立ち上がったリエルリルルは、悲鳴を上げる体に鞭打ってすっくと立ち、まっすぐにベルコットの瞳を見つめる。困惑と、焦りと、悲しみ。それが自分への思いだとわかっているからこそ、リエルリルルは少しの気恥ずかしさを覚える。
目の前の女性は、他者に心を砕くことのできる優しい人だと。そんな人の負担になってしまっていることへの罪悪感はある。ただ、今すべきは謝罪でも足を止めることでもなく、後への布石と、感謝だった。
「獣人は、嗅覚が鋭いのです」
「それくらい常識ですよね」
「ええ。ですから例えば、相手が自分に敵意を持っているか、そうしたこともにおいで判別できます。……あるいは、相手が長く薬草がそばにある環境で生きてきた、魔女の血筋であるかどうかも」
驚愕の叫びを何とか押し殺し、ベルコットはじっとリエルリルルを見つめる。
魔女と獣人の確執については、ガウルの話で聞いていた。だからこそ、ベルコットは魔女という単語を口にしたリエルリルルもまた、自分に殺意を向けるかもしれないと身を固くして。
そんなに緊張する必要はないと、リエルリルルはふわりと笑う。
「私は穏健派……いえ、過去の確執など全く気にしない派です。この危機的状況にあって、同じ人類同士で闘争を求めるほうがばかげているのですよ」
「……確かに、どうでしょうね」
そんなことはわかっている。けれど、獣人と人が手を取り合う中、魔女というのはひどく生きづらい存在であるというのも、わかっている。
何しろ、魔女を悪と断じて獣人に差し出せば、比較的すべてがうまくいくのだから。魔女を悪に仕立て上げて手をつなぐ種族――そうして人間は自らの罪を清算し、獣人は雪辱を果たす。
そんな関係を思い描いたことのあるベルコットは、青い顔でリエルリルルの言葉を待つ。彼女が穏健派を自称しようと、これから自分たちには、祖母には、そうした過酷な時代が訪れるのだと、覚悟を決めようとする。
「私のお願いは、ただ一つです。どうか、獣人と距離を取ろうとしないでください。魔女の力が、いつかきっと、必要になる日が来ますから」
ふらつくリエルリルルは、そうして数歩足を進め、もたれかかるようにベルコットを抱きしめる。
太陽のにおいが鼻をくすぐり、ベルコットは一瞬、昼下がりの森の中に迷い込んだような気持になった。
柔らかで温かい毛に包まれながら、ベルコットは考える。
自分は、祖母を獣人に害されたとき、果たして許すことができるだろうか、と。
――できるわけがない。自分は聖人君子じゃない。怒りにとらわれて、きっと復讐しようとする。
「それでもかまいません」
心を読んだように、リエルリルルは繰り返す。ただ、獣人すべてを恨まないでほしいと。
「そうしてできれば、獣人と手を取り合う魔女の、旗頭になってくださるとうれしいです」
「私は、魔女じゃないですよ」
「……今はまだ、ですね」
何やら意味ありげにほほ笑んだリエルリルルはそっとベルコットから離れ、それから、再生した森の方をにらむ。
その遥か先からわずかに伝わる振動は、悪魔とガウルの戦いの始まりを知らせる。
大地は激しく揺れ、遠く、もうもうと立ち込める砂塵が見える。
その光景から視線を外したリエルリルルは、再びの神技発動に入る。
森は確かに回復した――ように見える。けれどそれは表面的なもので、土地の栄養を無理やり引きずりだしてガワを整えただけに過ぎない。
大地の真なる再生のために、リエルリルルは限界を超えた力を行使する。
ベルコットに、その在り方を、背中を見せながら。
(貴女はきっと、いつか彼と共に――)
どうかお願いしますと、そう祈りつつ。
彼女は再び術を行使し、そうしてオーバーワークで倒れた。




