幕間8勇者の最後
すべてが、手のひらから零れ落ちた。
勇者という地位も、積み上げてきた戦功も、聖剣も、仲間も、何もかもが消えた。
とりわけ、イレイナが行った理解不能な、呪術と呼ぶべき悪辣な行為に震えが止まらなかった。そのような行為を仲間が行ってなお、平然としているネストたちもまた、化け物にしか見えなかった。
あいつらは変わった。やはり、追い出して正解だった。けれど、追い出すだけでは足りなかったのかもしれない。殺すべきだったのだ――だが、もう遅い。
イレイナに何かを食べさせられたアーリシアは記憶を失い、赤子同然の知能にまで退化した。ヒストリカは記憶こそ無事だったものの、体が幼児のそれに代わり、その以上は戻ることはなかった。
質が悪いのは、ヒストリカだった。そんなおかしな姿になってなお、舌足らずな声で俺に求めるのだ。勇者であれ、勇者としてふさわしい行いを、魔物を倒して覇道をなせ――
そんなこと、できるわけがない。第一、俺はもう勇者じゃない。それなのに、ヒストリカは呪詛のように俺に告げる。
お前は勇者のはずだと、傷口をえぐる。
逃げるように町を出た。町の住民は、イレイナとネストを指示した。
どれだけ自分が、二人に悪逆非道な行いをされたと訴えても、首を縦に振ることはなかった。
ヒストリカとアーリシアを連れて、逃げた。逃げ続けた。けれど、足手まとい二人を抱えていては、ろくな生活が出来やしなかった。だから、俺は決断した。
この俺は再び成り上がるには、二人は不要だ。
決めたら、すぐに動き出さなければならない。今度こそ、追放などという生ぬるいことはしない。必ず、そう、必ず二人を――
足音を忍ばせ、宿に踏み込む。この宿の部屋の鍵はひどく老朽化していて、ガタガタとやれば簡単に外れるのはすでに分かっている。
二人が寝ている部屋の前、耳を当てて中の様子を確かめる。こんな形でしか相手の存在を認識できないのが屈辱だった。
かつて勇者であったころならば、その五感によって容易に扉一枚先の相手のことなど丸裸にできたというのに。
かつての力が惜しい。俺は、再び英雄に、勇者にならなければならない。これは、その覇道の始まりの一歩なのだ――
ガタガタとドアノブを動かし、鍵を開ける。だが、肝心の音がしない。
しばらくそうして震動を与え続けて、気づいた。すでにこの扉の鍵は開いているということに。
不用心な二人に、笑みが漏れた。お前たちがこんなんだから、俺が困るんだよ。まあ、今回に限っては都合がいいだけだから誉めてやるよ。これが最後の俺からの言葉になるんだからな――
果たして、踏み込んだ先の部屋に、二人の姿はなかった。
慌てて薄っぺらいクローゼットを開き、藁敷きのベッドをひっくり返す。藁が舞い、破片が服の内側に入り込んだが、それどころではなかった。
「いない……どこだ。どこに行きやがった!」
宿を飛び出す。途中、宿屋の店主に殺気立った目で見られたが構いやしなかった。
まだ宿で別れたから一時間と経っていない。二人は近くにいる。
探して、探して、探した。二人が絶望に顔をゆがめる様を思って、ヒストリカが泣きながら許しを請う姿を想像して、舌なめずりをした。
ああ、早く、早く出て来いよ。お仕置きをしてやるから、なぁ?
俺を避けるように、町の住民がよけていく。おい、どうした?ここに勇者がいるんだぞ?どうして避ける?どうして気持ち悪いものを見るような目で俺をにらむ?
お前らが、俺を勇者だとあがめたんだろうが。お前らが勇者が必要だからって、俺を勇者として戦わせたんだろうが。ただの村人だった俺を、戦場に引っ張り出したんだろうが。
今更、どうして力を取り上げられなきゃいけねぇんだよ。俺は戦ったぞ。人類のために、魔物を殺してきただろうが。力を返せよ。仲間を返せよ。栄光の日々を取り戻すんだ。
ああ、そうだ。仕方がないからアーリシアは狩ってやろう。あいつは記憶こそ失ったが、まだ力がある。幼児になったヒストリカとは違って、あいつはまだ使い道がある。俺好みに育てて、従順な兵士にすればいい。常に俺の命のことを第一に考える最強の盾だ。悪くねぇ。狂戦士なんだから丈夫だろ?あるいは、今のままでもそれなりに強いかもしれねぇ。
それなりに、強い?んで、ヒストリカは、知恵がある。こざかしいあいつが、アーリシアに悪知恵を吹き込んでいたとしたら、どうだ?二人が町の外に逃げる可能性はどれだけある?
くそ、外に逃げられたら、もう探しようがねぇぞ。
落ち着け、もうすでに暗くなり始めてんだ。こんな状況で、戦えるか不明なアーリシアと戦えないヒストリカの二人で街の外に出る?は、自殺行為だ。いや、魔物キラーのヒストリアなら、魔物を殺すためだとした外に出る可能性はあるか?まあ、それならそれでいい。あいつらが今度こそ死ぬならいい。パーティを出て行った人間は、いつか俺に牙をむく。そうだろう?イレイナとネストみたいにな。
……ああ、しまった。もう一人いる。ティルメニアだ。あいつは、どこへ行きやがった。あいつが生きているかもしれない。イレイナたちは後だ。まずはあいつが弱いうちに殺さねぇと――
そうして、元勇者は再び歩き出した。栄養不足のせいかふらついた足取りで、西日に沈む町を歩いていく。
◇
ぞわりと背筋に寒気が走ってティルメニアは顔をあげる。その顔色は、決して悪くない。むしろ程よく小麦色に焼けた彼女は、以前に比べて非常に健康的に見えた。
果たして、彼女の視線先に恐怖を感じるような敵の存在はなかった。
「……どうかしたの?」
同じく、森の一角、木々の枝葉が空を覆うことのないぽっかりと出現した広場に畑を用意する灰毛の獣人がティルメニアに問う。理知的な新緑の瞳に、ティルメニアは首を振って返す。
「ううん、何でもない」
「それなら良いけれど……何か感じたなら教えてね。魔法使いって、無意識のうちに魔力を介して危機を予知できることがあるっていうから」
そう告げる狼の獣人の女性は、その手に握る鍬を高く振り上げ、固くしまった大地に振り下ろす。
その一撃で、周囲直径一メートルほどの大地が、掘り返されたように耕される。まるで早送りを見ているように畑が完成し、種をまいた次の瞬間にはいくつもの新芽が伸びる。
「相変わらず、とんでもないわね」
「私に言われせれば、複数の魔法を巧みに操れるあなたの方がすごいわ。おかげで火も水も、苦労せずに入るのよ。それにかまどだって一瞬で作れちゃう。最高よ。一家に一台……一族に一台でも欲しいところね」
「……そう」
気恥ずかしげに頬を掻くティルメニアは、ふと、獣人の様子が変わったことに気づいて口を閉ざす。森の中、真ん丸な天蓋の穴より降り注ぐ陽光を浴びる彼女は、荘厳な空気をまとっていた。目を閉じ、何かを聞いている様子の彼女は、やがて小さく吐息を漏らす。
「お告げがあったわ」
「また、あの緑の精霊の?支離滅裂な言葉ばかり送られてくるんだっけ」
「いいえ、今度はしっかりしたものよ。――あのお方が、とうとう解放されたらしいわ」
「解放?」
「ええ。魔法の束縛から解き放たれたらしいわ。一度消滅してから、再度大地への祈りを集めてよみがえったそうだから、今は精霊としての力なんてほとんどないそうだけれど、これで可能性が見えてきたわ」
「……本当に、そんな未来が起きるの?」
不安げに瞳を揺らすティルメニアに、獣人ははっきりとうなずいて見せる。
「間違いないわ。緑の精霊様はおっしゃったわ。『魔王は滅びた。そして、とうとう激動の時代が幕を開ける――お前に託した力が役立つ時だ』と」
「そう。イレイナたちが、やったのね。……それじゃあ、急がないといけないわね」
「ごめんね。巻き込んじゃって」
「違うわ。あなたのともに行くのは、自分で選んだ道なの。贖罪の道。だから、頭を下げないで――って何をしているの?」
「手紙を書こうかと思って。これからの旅には人手が必要だし、それに、『つながった』とおっしゃられたから」
「つながった?何と何か?」
「人と人とが、よ」
歌うように、灰色毛の獣人は告げる。
かつて、先代勇者キグナスはエルフやドワーフ、獣人と人間の間のわだかまりの解消に動いた。それは、人類が団結しなければ魔王には勝てないと判断したから――ではない。
人類が団結していなければ、魔王を倒した後、世界が滅びると判断したから。
だから彼は、猪突猛進に魔王を倒す道を選ばなかった。実際に、彼がそれを目指せば、相打ちで魔王を倒せるかもしれなかったにも関わらず、だ。
キグナスは知った。魔王は、支配の力を有する、文字通り魔物たちの支配者だと。彼を倒すということは、その支配体制の崩壊を意味して、そして、崩壊と同時に、支配から逃れた魔物が、魔族が、やりたい放題して世界を、人類を滅ぼすだろうと。
人類がまだ滅びていないのは、決して人類の底力故ではないと、キグナスは冷静に判断していた。それは、魔王がゆっくりと支配を進めていたから。
人類にとって最も恐れるべきは、各地で魔物や魔族が一斉に襲撃を仕掛けること。人類は多い。そして、真の強者に対抗できる英雄は、ほんの一握りほどしかいない。だから、各地で戦いが生じては、守れるものなどなきに等しかった。
その最悪の方針を、けれど魔王が実行することはなかった。何しろ、彼は根っからの支配者であったから。己の感知せぬところで配下が勝手に動くことを好まなかった。だから、魔族たちはせいぜいつまみ程度に人を殺すことしかできなかった――魔王が、死ぬまでは。
「だから、ガウルを呼ぶわ。そうして英雄と渡りをつけて、世界を守るの」
英雄一人に託すのではない。すべての民が、自らが生きるために蜂起する。
ここからは、人類対魔物・魔族の、生き残りをかけた戦いになるのだから――




