100魔王
迫るような、引き寄せられるような、そんな無限の闇。光を反射することのない黒一色の城はまるで壁のように断崖絶壁にそびえたっていた。わずかに聞こえてくるのは雪を舞い散らす寒風と潮騒の音。
海に面したその魔王城は、ここが本当に大陸の三分の一を支配している魔王の居城だとは思えないほどに静まり返っていた。
雪原の先に孫座する魔王城を守護する者はいない。周囲にはただの一匹も魔物がいない。まるで、魔王に防衛など必要ないというように。
「不気味ね」
「そうだね。まさか魔物の一体も姿がないなんて」
周囲を見回すイレイナにネストが同意する。ベルコットはやや青ざめながら腕をしきりにさすっていた。
「その、おかしくないですか?まるでこう、誘われているような……」
「これだけ威圧しておいてか?」
ガウルの言葉に、ベルコットは一層体を小さくする。
威圧――そう呼べるほどの膨大な魔力が周囲一帯に広がっていた。城を中心に放たれているだろうその魔力は、城に近づくほどに強くなっていく。ベルコットは全身に鳥肌が立ち、呼吸が浅くなっている。
状態に差はあれど、イレイナとて強い悪寒を覚えていた。これだけの魔力を垂れ流すような怪物をこれから相手にするのか――そう思うと額に脂汗がにじむ。
「……行こう」
珍しく気圧されているイレイナを見て、自分が皆を引っ張っていかなければとネストが声を出す。けれどその声は、ネスト自身がわかるほどに震えていた。
無言で、雪の中を歩きだす。敵のボスとの戦いは、もうすぐ目前に迫っていた。
肌がひりつく。まるで戦場のど真ん中にいるようだとイレイナは心の中でつぶやく。
魔王城の外壁、そこに設けられた重厚な金属扉に触れる。黒く塗装されているのか、あるいはそういう金属なのか。壁と同化してしまいそうな金属の扉は、寒風に冷やされてひどく冷たかった。
少し迷ってから、イレイナは扉に手をかける。
――扉の鍵は、かかっていなかった。閂の一つも用意されていることなく、大きな門はイレイナに押されることでゆっくりと開いていく。
高さ五メートルほど。それはこの門をくぐる魔物の最大のサイズだということだろう。
門の先には、一面に積もった白い雪と、なぜか雪が存在しない黒い石畳の一本道が続いている。その先に、魔王の城がそびえたっていた。
誘われているようだ――ベルコットの言葉が、イレイナの頭の中に木霊する。
魔力は、さらに強くなる。ベルコットはもう歩くので精いっぱいな様子だった。イレイナとて余裕とは程遠く、ベルコットに手を貸してはいられなかった。こんな状態で強敵と遭遇したら――そう思えば、ナイフの柄へと手が伸びる。
強い、風が吹いた。イレイナは空を見上げる。そこには、薄っすら広がる白い雲。青空を埋め尽くすように存在ずる雲の一部、ちょうど真上のあたりに、黒い点が見えた。
イレイナが立ち止まる。吹き荒れる風は強まる。そこには魔力が乗っていた。
魔法、あるいは魔法の余波で発生した風だとあたりをつける。だが、そんな考えはすぐに吹き飛んだ。
空の黒点が大きくなる。黒い点が、一つ、また一つ、直線に並ぶように生まれていく。
その黒い点がつながって、そして。
――空が、裂けた。
「ッ、何!?」
瞬間、強烈なプレッシャーがイレイナの体にのしかかる。膝から地面に倒れこみ、それでも空を強くにらむ。
果たして、割れた空の先には、魔王城と同じような黒い空間が広がっていた。
そして、その先から何かが現れる。
何か――おそらくは、悪魔。
魔王の種族であり、魔王の配下であるそれらは、同じ個体など一つもない。高い個性を獲得した怪物たちは、愉悦の表情を浮かべて、待ちきれないといわんばかりに穴から世界へと飛び出してくる。
そのうちの一体が、イレイナたちの存在に気付く。
ニィと笑った球体のような胴体に手足を引っ付けたような人モドキは、その手を開閉する。
その動きに合わせて、それの頭上に強い赤の光ができる。赤、あるいは赤黒い、血のような色。
その色に、イレイナたちはライオネスの領都で見た悪魔の魔法のことを思い出していた。
「逃げて!」
焦燥をあらわにしてイレイナが叫ぶが、もう遅い。
ゲッゲッゲ――空から響く醜悪な笑い声をトリガーに、イレイナたちに向かって魔法が発動される。
それは、漆黒の巨砲。およそあらゆるものを燃やし尽くすだろう炎。
それは頭上から、魔王城全域を飲み込むように降り注いだ。
イレイナたちにはそれを回避できない。広範囲にわたるそれから瞬時に逃れることはできない。
炎は一瞬でイレイナたちに到達して、そうして、漆黒の炎が焼失したそこには、イレイナたちの姿はもちろん、あれだけ荘厳に作られていた魔王城も、影も形もなくなっていた。
ゲッゲッゲッゲ――悪魔が笑う。こんな前哨戦などつまらないと。
その、次の瞬間。
魔王城の中心から空に伸びた漆黒の竜巻が、上空に布陣していた悪魔たちを飲み込んだ。
がれきを巻き上げ、すべてを吸い込み始めるどす黒い竜巻が吹き荒れる。崩れた魔王城の下、竜滅剣を支えにしてつぶされるのを回避したネストたちは、竜巻に巻き込まれそうになるのを必死にこらえる。
剣を大地に深く突き刺したネストにガウルがしがみつく。イレイナもまた足元の大きな岩石にナイフを突き立て、反対の手で吹き飛びそうになるベルコットを引き寄せる。旗のように風に吹かれていたベルコットは何とかイレイナの胸の中に納まり、竜巻から感じる尋常でないプレッシャーにガタガタと震えていた。
やがて竜巻はゆっくりと納まっていって。
砂塵が消えたその先には、ひび割れた空も、そこからあふれ出していた悪魔たちも、ただの一匹もその姿がなくなっていた。
「……何?」
強烈な悪寒を感じた、次の瞬間。
イレイナたちは体を押しつぶすような重圧に膝を屈した。
何か――漆黒の何かが、魔王城跡地のほうにあった。巨大なそれは、きっと。
「――魔王」
震える声で、誰かがつぶやいた。
魔王は、強い苛立ちを覚えていた。
魔王城、その玉座に座る彼は、身長三メートルほどの巨躯の男。悪魔に特徴的な灰色の肌、黒い二本の捻じれ天を衝くように伸びた角、背中には漆黒の翼がある。その赤い目に怒りの炎を燃やし、魔王は玉座に深くもたれて悪態をつく。
「……クソが」
魔王の怒りはすべて、自らの直接の配下である悪魔たちが指示通りに動かないことにあった。
悪魔とは、負の思念が凝縮することで生まれる不定形の怪物である。怒りや悲しみ、憎しみ、死への恐怖、嫉妬、征服欲。そういった感情のごった煮が濃縮されることで幽霊のごときおぼろげな姿をとる。それは、改めて知的生命体に認識され、恐怖されることによってその恐怖の形をとる。
この世界においては、過去に魔王が侵略した際に悪魔の外見イメージが固まり、悪魔たちは比較的人間に近い姿に至った。
それはともかく、悪魔は発生理由から、常に知的生命体――特に人間に悪感情を抱かせようとする。恐怖されたい者はそのように、嫉妬されたい者は嫉妬されるように行動をする。なぜなら、それこそが悪魔たちの存在理由だから。
そうした怪物である悪魔の代表が魔王で、彼は支配欲を核として生まれた悪魔だった。とはいえ長い間異界で悪魔たちを統治し続けた結果、その在り方は少しずつ変化をしてきており、最近では一為政者として頭を悩ませるばかりだった。
それというのも、悪魔たちは全く持って魔王の指示通りに動かない。負の感情によって支配することに成功したこの世界の手足である知能の低い魔物たちのほうがよほど優秀だった。とりわけ魔物たちの中から生まれた特殊個体である魔族は、悪魔以上に優秀な先兵となった。
魔王にも、側近と呼べる存在はいた。けれど四天王して活躍していた者たちは人類の抵抗によって殺されていき、ついには最初からその座にいるのは【暗澹】のディアボロ一体となった。人類の希望を潰えさせることを好むディアボロは、好む趣向は非常に広く、どのような指令でも忠実に遂行して人類を滅亡へと追い込む優秀な手駒だった。
だからこそ、ディアボロとその他全くいうことの利かない悪魔との差の大きさに怒りは増すばかりだった。
ゆえに魔王は、ディアボロと熟考を重ねてある手段に出た。
戦力増強のために、異界へと通じる道を再び開き、そして呼び出した悪魔たちのすべて糧として強くなるというもの。
指示など聞きやしない悪魔などいらない。それだったら、己とディアボロの血肉となったほうがましだ。
そう、考えていた。
けれど強化に成功するよりも前に、ディアボロは人類によって殺された。異界接続の術の発動のために極限の集中を求められていた魔王は、ディアボロの気配の消滅に、一瞬せっかく構築した魔法の制御を手放してしまいそうになった。
ちなみにその魔法が暴発していれば大陸の半分は余波で消し飛んだのだが、それはともかく。
魔王は、ディアボロが死んだからこそ、異界より悪魔を召喚しなければならなかった。大陸各地で遊び歩いている悪魔たちは魔王城の防衛をすることもない。こんな状態でディアボロを殺した者たちが来れば、いくら魔王である自分とて勝てるかどうかわからないと考えていた。
果たして、その到着と同時に、魔王は異界召喚の秘儀に成功した。
次々と悪魔たちがこの世界に訪れ、そして、魔王は悪魔たちをすべて食らった。
かつてこの世界で敗れた四天王の一体、【暴食】の力の残滓を使って、漆黒の霧によって食らい、悪魔たちを己の糧とした。
その食事によって、魔王は己がまた一段存在の格とでも呼ぶべきものが上昇したのを感じた。
今の己ならば、神だって手が届くかもしれない――そう思った。
悪魔たちを食らいつくした魔王は肥大化し、その体は縦十メートル、横十三メートルほどになった。でっぷりと太った魔王には、もう怜悧な刃物のごとき美丈夫だった面影は残っていない。俊敏に動くこともかなわない。
けれど取り込んだ無数の悪魔の力が、魔力があれば、何者も相手になりはしないと、そううすらと笑っていた。
――己の選択が最大のミスであったと魔王が気付くまで、あと少し。




