第8話 猫のお手は高くつく
「いいか、すみ。手が出てきたら、乗せる。それだけだ」
むぎはあおいの足元にお座りをして、隣のすみに言った。もう何回目になるか分からない言葉だった。
「知ってる」
「知ってるのと、できるのは違うぞ」
すみは返事をせずに、前足をそろえた。
ここのところ、あおいは夜ごはんの前になるとすみの前にしゃがんで手のひらを差し出す。すみはその手の匂いを嗅いだり、頬をこすりつけたり、ときどき前足を少しだけ浮かせたりする。浮かせた前足はたいてい途中で引っこんで、そのまま顔を洗いはじめてしまう。むぎはそのたびに隣で見本を見せてやっていた。
今日もあおいがしゃがんだ。手には小さな袋を持っている。いつものごはんの粒を何粒か分けて入れてある袋だ。
「すみ、お手」
あおいの手のひらがすみの前に差し出された。
むぎの右前足が、ぱっとその手に乗った。
「……むぎじゃなくて」
あおいが笑った。むぎは前足を乗せたまま、すみを見た。ほら、こうやるんだ。
「いまの、ぼくの番だったんだけど」
「見本だ」
「毎回見てる」
あおいはむぎの前足をそっと下ろして一粒くれてから、もう一度すみに手を出した。
「すみ。お手」
すみの右前足が、ゆっくり浮いた。むぎは息を止めた。前足は空中でいったん止まり、引っこみそうになって、それからあおいの手のひらにぽすんと乗った。
「乗った!」
声を出したのは、むぎのほうが先だった。尻尾が床を叩き、むぎはその場でくるりと回った。
「すみ、すごい! えらい、えらいね!」
あおいの声が高くなった。すみに一粒、頭を撫でて、また一粒。むぎは尻尾を振りながら、すみの周りをもう一周した。俺が教えたんだ。何十回も見本を見せたんだ。
「すみ、天才じゃない? ねえ、もう一回できる?」
あおいがもう一度手を出す。すみが乗せる。あおいが声を上げて、すみの頭を撫でる。
むぎの尻尾が少しずつゆっくりになった。
むぎはすみの隣にぴったり並んでお座りをし直すとすみの前に出されている手のひらへもう一度自分の前足を伸ばした。
「むぎもね。はいはい、えらいえらい」
あおいはむぎの前足を軽く握って、すぐに離した。
手のひらはすみの前へ戻っていった。
「よし、今日はおしまい。ふたりとも、えらかったね」
あおいは袋を閉じて、手を引っこめようとした。
すみの前足はまだあおいの手のひらに乗っていた。あおいが手を少し浮かせるとすみはその手のひらを追いかけて、もう一度前足を乗せた。
「え、すみ。おしまいだよ」
あおいがもう一度引く。すみがもう一度乗せる。
むぎはすみの肩を鼻でつついた。
「おい、すみ。おしまいって言われたら終わりなんだぞ。乗せるのをやめて、ちゃんとお座りして――」
「乗せたら、もらえるんでしょ」
「それはそうだけど、おしまいのときは――」
すみの前足がまた乗った。あおいが吹き出した。
むぎはすみの横で背筋を伸ばした。教えることは、まだたくさんありそうだった。
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