第5話 もう持ってきません
あおいが朝から出かけない日はいい日だ。むぎはそう決めていた。出かけない日のあおいはどこかで一回は遊んでくれる。ただし机に向かっているあいだは別だった。
その日もあおいは机の前に座り、指で板をかたかた鳴らしていた。ときどき画面に向かって「はい、大丈夫です」と話しかけている。誰と話しているのか、むぎにはよく分からなかった。
むぎはロープのおもちゃをくわえて机の横へ行き、あおいの膝に端をそっと乗せた。
「あ、むぎ。ごめんね、いまはだめ。あとでね」
あおいの手がむぎの頭をひと撫でして、すぐに板の上へ戻っていった。
むぎは少し待ってからもう一度ロープを膝に乗せた。今度は尻尾も振ってみせた。
「あとでね。ほんとに、あとで」
かたかた、という音は止まらなかった。
むぎはロープをくわえ直して、机から離れた。敷物のまんなかで一周して、机に背中が半分だけ向く角度で伏せる。ロープは前足のあいだに置いた。
もう持っていかない。あおいが遊ぼうと言っても、すぐには行かない。でも、言われたら聞こえる向きにはしておく。
ころころ、と小さな音がした。
布ボールがむぎの目の前を横切っていった。転がってきたほうを見ると、ソファの陰からすみがこちらを見ていた。
むぎは顔を動かさずに、目だけでボールを追った。ボールは敷物の端で止まった。
「むぎ、それ取って」
「いまは遊ばない」
「遊んでって言ってない。取ってって言ったの」
むぎは返事をしなかった。すみはソファの陰から出てきて、自分でボールを取りに行き、前足でちょいちょいと転がしてから、むぎのほうへ押した。
ボールがむぎの鼻先まで転がってきた。むぎの前足が勝手にそれを止めていた。
「あ」
「返して」
むぎはボールを見て、すみを見た。机のほうからはまだかたかたと音がしている。
むぎは鼻先でボールを押し返した。すみがそれを前足で受けて、また押してくる。むぎがまた押し返す。三回目にすみが少し強く叩いたので、ボールはむぎの横をすり抜けていき、むぎは気づいたときには立ち上がって追いかけていた。
*
敷物からはみ出して横になると床の冷たさが腹に気持ちよかった。すみもボールのそばで手足を投げ出して伸びている。
かたかた、という音が止まった。椅子の動く音がして、あおいが机から立ち上がった。
「お待たせ、むぎ。遊ぼっか」
あおいの手には、ロープのおもちゃがあった。むぎが敷物に置きっぱなしにしていたものだ。
むぎは寝転んだまま尻尾だけを一回振った。すみは目を開けもしなかった。
あおいはロープを持ったまま、敷物の端に座った。
「……あれ? もう遊んだの?」
むぎは目を閉じた。あとでな、と思った。
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