第30話 そこは、ぼくの犬です
なつの笑い声は、廊下にいてもよく聞こえた。
すみが居間へ戻ってくると、なつは敷物に座って、むぎを撫でていた。むぎはなつの前で横倒しになり、腹を半分見せている。なつの手が、その胸から首まで大きく往復していた。
「むぎ、あったかい。湯たんぽみたい」
すみは敷物の端で立ち止まって、それを見た。
それから、まっすぐ歩いていった。むぎの背中側へ回り、その背中にぴたりと体をつけて座る。むぎの毛が、すみの肩に当たった。
「あ、すみちゃんも来た。すみちゃんも撫でてほしい?」
なつの手が、むぎの体を越えてこちらへ伸びてきた。
すみは首をすくめた。手は空を撫でて、すみの耳の先をかすめただけだった。すみはむぎの背中のほうへ、もう少し体を寄せた。
「えー、よけた」
なつは笑って、手をむぎの首へ戻した。むぎは目を閉じたままだった。
やがて、むぎが起き上がった。なつのほうへ向き直り、その膝に顎を乗せて、尻尾を振りはじめる。
すみの横に、すうっと冷たい隙間ができた。
すみは一歩だけ前へ出て、むぎの脇腹に体をつけ直した。
「よし、むぎ。ひっぱりっこしよう」
なつが、ロープのおもちゃを振ってみせた。むぎは跳ね起きた。すみの肩から、温かいものがあっというまになくなった。
むぎはロープの端をくわえて、なつと引っぱり合いを始めた。低いうなり声と、なつの笑い声が、敷物の向こう側で弾む。
すみは、むぎのいたところを見た。敷物に、むぎの形のくぼみが残っていた。
すみはくぼみの端にかかって座ったまま、前足をなめた。なめ終えると、胸の毛を整えはじめた。そのあいだにも、むぎのうなり声が上がり、なつが「強い強い」と叫ぶ。すみの耳が、そちらへ回った。
すみは胸の毛を整え続けた。
整え終えると、窓の外を見た。向かいの屋根にいたすずめが、二羽そろって飛んでいった。
後ろでは、引っぱり合いが続いていた。ときどき、むぎの爪が床を滑る音がする。すみは振り向かなかった。耳だけが、ときどき後ろを向いた。
やがて、むぎが戻ってきた。
舌を出して、はっ、はっ、と息をしている。なつはロープを膝に置いて、あおいと何か話していた。
むぎは、自分の形のくぼみの前で立ち止まった。その端に、すみが座っている。
すみは腰を上げて、少しだけ横へずれた。くぼみが、まるごと空いた。
「遊ばないのか?」
「今は、ここ」
むぎはすみの顔を見た。それから、くぼみの上でくるりと一周して、どさりと伏せた。背中がまだ大きく上下している。
その背中がゆっくりになるのを待って、すみは、むぎの肩に体を寄せた。
むぎの肩は、さっきよりずっと温かかった。
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