第29話 まだ預かってます
あおいがひもを手に取る音は、家のどこにいても聞こえる。
むぎは布ボールをくわえたまま顔を上げた。玄関のほうで、あおいが上着に袖を通している。
「むぎー、お散歩行くよ」
むぎは玄関へ駆けだしかけて、止まった。口の中にボールがある。前に一度、くわえたまま玄関まで行って、あおいに「それは置いていこうね」と言われたことがあった。
むぎは向きを変えて、敷物の上で寝そべっているすみの前まで行った。ボールを、すみの鼻先にぽとりと落とす。
「なくすなよ」
「置いたの、そっちでしょ」
すみはボールを見もしなかった。むぎはもう一度だけボールを見て、玄関へ走った。
*
散歩から帰ると、あおいはまず、むぎの足を拭く。
「はい、右。はい、左。むぎ、待って、まだ後ろがある」
むぎは前足をあおいに預けたまま、首を伸ばして居間をのぞいていた。敷物の上に、ボールがない。すみもいない。
「後ろ足。はい。むぎ、こっち。こっち見て」
むぎは後ろ足をあおいに預けたが、耳は居間を向いたままだった。
「よし、おしまい」
むぎは居間へ飛びこんだ。
敷物の上に、すみの黒い毛が何本か落ちていた。さっきすみが寝そべっていた場所より、ずっと端のほうまで散らばっている。ソファの脚のそばにも一本。その先の窓辺のクッションに、すみがいた。
すみは横になって、前足のあいだにボールを抱えていた。
「返せよ」
「まだ預かってる」
「もう帰ってきたぞ」
すみは、ボールを抱えた前足に少し力を入れた。それから、むぎの顔を見て、玄関のほうを見た。
「……おかえり」
すみの前足がほどけた。ボールがクッションから転がり落ちて、むぎの足もとで止まる。
むぎはボールをくわえた。少し、すみの匂いがした。
むぎはボールを敷物のまんなかまで運んで、置いた。振り向くと、すみがクッションから下りて、すぐ後ろに来ていた。
「なんだ」
「別に」
むぎはボールをくわえ直して、寝床のほうへ運んだ。振り向くと、やはりすみがいた。
むぎはボールを置いて、鼻で押した。ボールは敷物の上をころころと転がっていき、むぎはそれを追いかけた。
むぎより先に、黒い前足がボールを押さえた。
「返したんじゃなかったのか」
「これは今、取った」
すみはボールを前足の下に置いたまま、むぎを見上げた。
むぎは鼻先を、すみの前足の下へねじこんだ。すみの前足が、ボールの上でぐっと踏んばった。
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