第27話 お手は貸しません
なつが来ると、家の中の声がひとつ増える。高くて早口で、むぎの名前を呼ぶのがいちばん多い声だ。
「むぎー、元気だった? ちょっと太った? 太ってないか。もふもふなだけか」
なつは敷物に座るなり、むぎの耳の後ろを両手でくしゃくしゃにした。むぎは目を細めて、なつの膝に体を押しつけた。あおいは台所で、湯を沸かす音を立てている。
なつの横には、なつが持ってきた布の鞄が置いてあった。すみは、その鞄にかかりきりだった。口のところに鼻を突っこみ、側面をなぞるように嗅いで、底の角でしばらく止まる。鞄からは、外の匂いと、むぎの知らない家の匂いがしていた。
むぎは、なつの膝の上から顔を上げた。
なつは、すみがお手をできることを知らない。
あの日、あおいの声がどれだけ高くなったか、むぎはよく覚えている。すみが前足を乗せたとき、真っ先に「乗った!」と言ったのはむぎだ。教えたのもむぎだ。なつにも、あれを見せてやりたい。
むぎはなつの膝から離れて、鞄のほうへ行った。
「すみ。お手を見せてやれ」
「いま、これ嗅いでる」
「あとで嗅げばいいだろ」
「あとだと、匂いが変わる」
すみは鞄の口から顔を出さなかった。尻尾の先だけが、ゆらりと揺れた。
むぎは鞄の横にお座りをして、少し考えた。それから、なつのほうへ向き直った。
やり方を見せればいい。見本なら、むぎは何十回も見せてきた。
むぎは、なつの正面できちんと座り直した。背筋を伸ばし、右の前足を、ゆっくり持ち上げる。ほら、すみ。こうやるんだ。
「え」
なつの目が丸くなった。
「むぎ、お手したいの? はいはい、どうぞ」
なつの手のひらが、むぎの前足の下にさっと差し出された。むぎの前足は、そのまま手のひらに乗った。
「えらーい! 自分から? むぎ、天才じゃない?」
なつの声が、ぐんと高くなった。もう片方の手が、むぎの頭をわしゃわしゃと撫でた。
むぎは鞄のほうを見た。
すみが、鞄から顔を上げていた。金色の目が、なつの手のひらに乗ったむぎの前足を見ている。
それから、すみはまた鞄の口に鼻を戻した。
「お姉ちゃん、見た? むぎ、自分からお手してきた」
「あー、それね。最近お手が好きなの」
台所から、あおいの声がした。
「じゃあ、おかわりは? むぎ、おかわり」
なつの手のひらが、今度は反対側に出てきた。むぎは左の前足を乗せた。
「できたー! すごいすごい」
むぎの尻尾が、敷物をばたばた叩いた。なつの手が、耳の後ろへ戻ってくる。いちばん好きなところだ。
むぎは、すみのことを少しのあいだ忘れた。
お手をして、おかわりをして、もう一度お手をした。そのたびになつが声を上げ、撫でてくれる。やがて、なつの手のひらはあおいの運んできたカップのほうへ行った。むぎはなつの膝の横で伏せて、顎を前足に乗せた。体じゅうが、ほかほかしていた。
足音がした。
顔を上げると、すみが目の前に座っていた。
「さっきの」
すみが言った。
「今なら、やる」
すみの右の前足が、ゆっくり浮いた。前足は空中でいったん止まり、それから、むぎの頭のてっぺんに、ぽすんと乗った。
「……そこじゃない」
すみの前足は、むぎの頭の上に乗ったままだった。
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