第25話 呼んだのは、そっちじゃない
あおいの指が、むぎの耳の後ろをゆっくり行ったり来たりしていた。
むぎは目を閉じて、その手に頭を預けていた。あおいは四角い机に脚を入れて座っている。あおいが「こたつ」と呼ぶ机だ。机の縁からは厚い布団が床まで垂れていて、むぎはあおいの右側で、その布団の端に体をくっつけて伏せていた。布団の中から、ほんのりと温かいものがにじみ出てくる。天板の上には湯気の立つカップがあった。
冬のあいだ、あおいはここに座ると長い。むぎはそれをよく知っていた。
耳の後ろから首へ、首から耳の後ろへ。指が往復するたびに、体のどこかがひとつずつゆるんでいく。
むぎは薄目を開けた。
あおいのもう片方の手は、天板の上に置かれたままだった。カップの横で、何もしていない。
むぎは首を伸ばして、その手の甲に鼻先をつけた。ふん、と匂いを嗅いで、ぐいと押し上げる。こっちも空いてるぞ。
「なに、むぎ。両手でやってほしいの?」
あおいは笑ったが、空いた手は天板から下りてこなかった。かわりに、あおいは顔を上げて窓辺のほうを見た。
「すみー。おいで。こっち空いてるよ」
むぎの耳が、ぴくりと動いた。
窓辺で丸くなっていた黒い背中が、すっと伸びた。すみは床に下りると、急ぐでもなく敷物を横切ってきた。むぎの鼻先をかすめて布団の前を回りこみ、あおいの空いた手の下へ、頭からするりと入る。
「来た来た」
あおいの手のひらが、すみの頭に乗った。すみの目が細くなる。
むぎは、その手を見ていた。さっきまで、むぎが鼻で押し上げていた手だ。
むぎは立ち上がった。耳の後ろから、あおいの指がするりと離れる。むぎはそのまま、あおいの背中を回りこんだ。そして、すみの頭の横へ顔を突っこんだ。あおいの手のひらの下に、半分でも鼻が入ればいい。
頬に、柔らかいものが当たった。
すみの前足だった。爪は出ていない。肉球がむぎの頬にぴたりと添えられて、そのまま、ぐうっと押し戻してくる。
「そっちは俺の顔だぞ」
「だから、どけてる」
「なんでだ」
「あおいが呼んだのは、そっちじゃないでしょ」
すみは前足をむぎの頬に置いたまま、あおいの手の下で頭の角度を直した。
「ちょっと、ふたりとも」
あおいが吹き出した。
むぎは鼻を鳴らして、もとの場所へ戻った。布団の端に伏せ直すと、あおいがこちらへ体をひねった。
「じゃあ、順番ね。はい、むぎ」
あおいの両手が、むぎの顔を包んだ。頬から耳の後ろへ、耳の後ろから首へ。むぎはすみの前足のことなど忘れて、その手に顎を乗せた。
「はい、すみ」
手は離れて、すみのほうへ行った。
「はい、むぎ」
また戻ってきた。
むぎは目を閉じた。待っていれば、ちゃんと戻ってくる。それはいい。とてもいい。
ただ、すみの番になると、ごろごろと低い音がする。あおいの手がすみの背中を通るあいだ、ずっと鳴っている。むぎの番のときも、すみはまだ少し鳴らしている。
むぎは薄目を開けて、すみの喉のあたりを見た。
あの音は、むぎには出せない。尻尾なら、さっきから布団の端をぱたぱた叩いている。けれど、布団を叩く音は、ごろごろよりずっと小さかった。
むぎは尻尾にもう少し力を入れた。ぱたぱたが、ばたばたになった。
「むぎ、布団。布団がめくれる」
あおいは笑って、むぎの背中をぽんぽんと叩いた。それから両手を天板に戻し、カップに手を伸ばした。
「ちょっとだけ、お茶飲ませてね」
あおいの手が、カップの取っ手へ伸びた。
むぎはすかさず、その手首の下へ鼻を差し入れた。そのまま、すくい上げるように持ち上げる。カップの手前で、あおいの手がふわりと浮いた。
反対側で、すみが立ち上がっていた。すみは天板の縁に前足をかけ、あおいのもう片方の手を、肉球でそっと引き寄せた。引き寄せた手を、自分の頭の上まで持ってくる。
「……あの」
あおいの右手はむぎの鼻の上に、左手はすみの頭の上にあった。
カップから立つ湯気が、少しずつ細くなっていく。
あおいはしばらくカップを見ていたが、やがて、ふう、と息を吐いた。それから両方の手のひらが、また動きはじめた。
「はいはい。冷めたら、あっためなおすからね」
むぎは目を閉じた。すみの喉の音が、また鳴りはじめた。むぎの尻尾は、布団の端をばたばたと叩いた。
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